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Jima-Don

2013-07-03

宇宙サービス10周年(11)

 宇宙サービスはずーっとライブハウスを主戦場にしていまして、例外的にアニソンイベントで2回ほどやった以外は、クラブ的な箱では一切やっていません。
 やっぱり、ナゴム「人生」電気グルーヴの前身バンド)に憧れたところもあったのかなあと。
 クラブのオファー、単純に伝手がないという話とか。前身バンド末期に、とあるクラブ畑の人間に裏切りの不義理をかまされた話とか。まあ、色々あってライブハウスに落ち着いたのです。
 そんなこんなでライブハウス周りで戦い、出会い、いろんな人にいろんな事を教わった音楽遍歴でした。

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 森耕さん、ボギー氏、一銭めしやの村里親子からは、家庭と仕事と表現活動の両立という、日常と非日常のバランスの己なりの取り方を、しっかりと確立することを学びました。
 漢方先生、オクムラユウスケ、インジャパン、カシミールナポレオンといった圧倒的な個性と技量を持つ人々との邂逅、そして時には対峙。
 聡文三さん、ポカムスの藤田進也、外山恒一オクムラユウスケ。宇宙サービスで自分が表現したい何かに多大に影響を与えたといって過言じゃないです。

 なにより自身、ロックバンドに憧れています。
 宇宙サービスの前身「シンセパワー」は、ギターウルフに負けないよう「シンセ」+横文字で名づけた名前でした。ガレージパンクのライブが大好きだったのです。
 ボットンズ、ポカムス一銭めしやなど。ブッキングによってロックバンドと同じ空気を共にできる時は、毎回それを光栄に思っています。
 こないだ宇宙の練習でたまきおがベースを借りて、風原ドラムで3ピースで町田町蔵みたいな即興歌を演ってみたところ、意外にまとまる事が判明(!!)。いつしか、その形態で一曲くらい披露する事があるかもしれません。

 最近は遠出も増えました。特に岩国のTAKEVEZ、めがほんず、戸川ちゃんとの邂逅は、出会うべくして出会った感でいっぱい。
 きっとこれからも付き合いは続いていくと確信しています。

 いくつかあった素敵な出来事を思い出して、締めに掛かろうと思います。

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***

 宇宙サービス1期で忘れられないのは、保波意キヨシ。
 劇団時代に見た、いろんな劇団のボランティアを駆って出にくるオッサンとして有名だった人。自分は何故か縁がやたらとあった人だった。
 歳は50に差し掛かるくらいだったか。
 何故か突然歌手を志し、CDを作り。ラウンジサウンズ対バンとして再会、その日ミラクルを起こしたのでした。家の鍵を鳴らしながらの熱唱とか、顎が外れるほど笑った。
 ボギーは早速大喜び、2ヵ月後のヨコチンロックフェスのオファーをその場で出した。あの時、俺たちはまだまだ出られなかったチンロックに。
 その日共演した別のバンドの掲示板に何故か近況報告を連載しだして、困らせてたのもいい思い出。

 その日とチンロックの間のほんのわずかの間のある日、キヨシさんは心筋梗塞か何かで自宅で倒れ、この世を去った。
 自分が住んでるアパート、キヨシさんが亡くなった場所の本当に目と鼻の先という事を後に知った。
 宇宙サービスでチンロックに出演した日、自分は駅に向かう道沿いにある、その場所の前で合掌をした。割と大きなイベントのときは、なるだけ合掌をして向かうことにしています。

***

 宇宙サービスを語るときに外せないのが、嫁がガンで倒れた日の「ラウンジサウンズ対マン!」。

 この日は持ち時間1時間づつの3マンライブな上、ちゃんと事務所が運営している芸能人ユニットとのライブイベントなので、穴を開けることは許されない日です。
 その三日前に嫁が突然変調をきたし、救急車で運ばれました。
 病状は最悪で、ネットでどう調べても
 「お気の毒ですが発見が難しい上、その状態になったら末期的です」
 という文章が並び。義母と二人で「今年いっぱいしか・・・」なんて会話を繰り広げていたのでした。

 そんな状況の中で自分は愚直にもライブを果たしました。
 そんなことしてる場合じゃなかったと思います。呆れられたと思います。
 狂気の沙汰だったと笑われてもいいのです。あの日、自分は確かに何かを呼んだ気がします。
 


 ライブの辺り、嫁は手術のための準備と称して体中の水分を搾り取っており、更に病状で動くのもままならず苦しんでいたそうです。
 しかし「客が待ってるんだから行って来い」と送り出した嫁。
 自分には、あれしか出来なかったのです。重ね重ね愚直だなあおれ。
 ライブ終わって次の日には手術が待っていました。

 その後、嫁は手術と抗がん剤治療の後奇跡的な回復
 そのプロセスは、にわかに信じがたい現実として認識しています。
 ボギーはあの日の宇宙サービスをこう評しました。

 「今まで見た宇宙サービスのなかで一番よかった。鬼気迫るものがあった。フロアは最初から盛り上がりっぱなし」

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 あの日自分は舞台の上で、いつぞや東京で得た絶頂感や多幸感と同じものを感じていたのです。あの時は燃え尽きたのに、今はなぜ続いているんだろうなあ。未だに燃え尽きることはなく。さて、どこまで辿りつくでしょう?どんな地平まで行けるのでしょう。・・・暫くは、お付き合い願えたら幸いです。

宇宙サービス10周年(10)

 一気に時をさかのぼって、高校三年の大晦日。
 「タコ天」では、その年の年間でめざましい記録(自分は9週ランクイン・3週1位のヒット曲を持ってた)を出した投稿常連は、正月に行われる太宰府天満宮特設テントでの公開生放送でそのヒット曲を歌う権利が与えられていました。
 このとき年間1位を取ったのが、今も友人であり今もなおDJ活動をしている男なのですが、ぼくは彼に一番最初に話しかけたのを覚えています。というか、彼に最初に話しかけたかった。
 「あのタコ天に投稿したあの曲の原曲、『ナイトストライカー』『ダライアスII』じゃない!!」

 自分は相当のゲームマニアでありました。漫画「ハイスコアガール」を地で行く世界。
 鹿児島大学を受けに入ったとき、天文館ゲーセンパロディウスを1周したら人だかりができました。ええ、大学は落ちましたとも!!

 音楽遍歴は『ラジオ投稿番組とクレージーキャッツ』と言い張ってきましたが、実のところ80年後半のゲームミュージックが、自身のなかでは衝撃であったとも思っています。
 なかでもタイトーの『ダライアス』は衝撃でした。
 周りの友人達が「こんなもののどこがいいかわからない」という顔をするなか、1人だけ「これは凄い」と聴き狂っていた事を覚えています。
 特に今聴くとバンアレン帯のテーマ「CHAOS」は、その短いループの中にあらん限りの転調と妙な仕掛けが施されていて楽しい。
 イソギンチャクテーマ曲は、自分が打ち込みで行き詰まると必ず聴く曲です。ミニマルテクノはかくあるべし、な曲だと思っています。
 
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(6:36くらいから「イソギンチャクのテーマ」、11:25くらいから「CHAOS」)

 タイトーゲームミュージック的名作は他にも「ニンジャウォーリアーズ」が挙がります。
 タイトーシンセの音色にこだわりがあったようで、ゲームセンターでも一発でわかる独特な響きがありました。
 サンプリング音源を使ってゲーム界初の津軽三味線ソロを実現させたのがこのゲーム。いや、サンプリング音を音楽で使うのも珍しかったのに凄いセンスの楽曲だったのですよ、実際。

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(※動画は多少悪意です)

 後に嫁に電気GROOVEを教わったとき、ようやく「これがテクノというものだったのか」と腑に落ちました。気付いていなかったのです(!)。何という無学。
 その直後に当時おもちゃ屋だった実兄が、スーパーファミコンの「デザエモン」を持ってやってきました。シューティングゲームを作るソフトで、音楽も作れる優れもの・・・実は、人生で最初に打ち込みを始めたきっかけは「ゲームミュージックの再現」であったのでした。
 それは音楽作成のためのツールを変えても続いていきました。

 最終的に「ゲームミュージック的打ち込み」「わけありベストテン」が時間をかけて、ようやく混ざってこなれてきたのが今の宇宙サービス。

 次回は最後に、なぜライブハウスでやっているのか、そして嫁との話。
 やっとここまで来た・・・。

宇宙サービス10周年(9)

 復帰ライブ後、すぐに音源を作りました。
 「かみなり奉天」というタイトルは、近所のスーパーでたまに買ってたお菓子から。
 この録音中に突如誕生したのが、今なおライブで主戦力となってるキラーチューン「男気」。いや、みんなタイトル知らないと思うんだけど「男気」。みんな「ブックオフのアレ」としか認知してないはずだよあれ。
 「お売りください」などという軟弱な文言に踊らされるくらいなら、俺は持っている本を燃やすことで男気を見せるぜ、そんな意気込みを込めてブックオフ志免店で誕生したこの曲は、誕生直後に早くも嫁にウザがられていた名曲です。
 このほか「25%削減のうた」もこの音源作成中に誕生。
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 ラウンジサウンズへの帰還を果たしたのは、その音源が出来てすぐで。
 その日はお客も少なかったのに大盛り上がりをしました。そこからは破竹の快進撃。
 宇宙サービスはこのとき、組織として変革をいくつかしました。
 まず練習をきちっとやり、ある程度のきっかけあわせも小劇団の公演並みにやろうと。かつては、自分だけが歌の練習をみっちりやっていただけでした。集団としての練習は「別に音楽をやりたくて来たメンバーとはいえないし、誘って無理やりやっても悪い」と考えていたのです。
 しかし、8月の段階で手ごたえを感じた自分は考えた。もう偶発性に頼っていてはいかんと。
 成果はめきめき現れ、オファーの難易度がぐんぐんと上がっていきました。それは痛快であったし興奮に満ちていた。
 ラウンジサウンズフェスティバルと、ヨコチンロックフェスティバルへの出演が決まったときは本当に嬉しかった。
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 そんな風に難易度が上がっていくにつれ、流石に自分たちも進化をしなくてはいけません。
 自分は捨てたはずの「オケのクオリティを上げる」そのための決断をします。第4のメンバー探しです。
 ・・・で、たまきおとの邂逅になるのですがこれがまた、漫画みたいに不可思議で。
 ツイッターである日、「タコ天」で検索をかけたんです。
 このワードで、大昔のラジオの「タコ天」の事(※宇宙サービス10周年(2)か(3)参照)つぶやいてる人なんてまずいないわけですよ。
 その日に限って何と二人いたんです。そのうち1人がこんな事を書いてたんですわ。

 「タコ天の国士無双ハリスは現在宇宙サービスってのをやって活動中なのか」(確かこんな感じのツイート

 ビックリすることに、それがたまきお先生との最初の出会い。そのうち彼がトラックメイカーというのを知って、一度会えないかと打診。とんとん拍子に話はまとまって・・・。
 い、いやあ、人間どうつながるかわからんもんですね!!
 こないだ、宇宙サービス慰労会を家でやって、みんな+嫁で鍋をつついたのですが、てっちゃんが「タコ天常連集めてやった飲み会面白かったですね〜!水沢が毎回変な酒飲んで」「そうそうマイムマイム芹澤が」なんて話してたら彼が食いつく食いつく。畏れ多い、とかいいながら。
 彼はラジオ放送時、自分のファンであったと言っておりました、大変恐縮であります。
 あの時のペンネーム、考えたのは現うちの嫁です。

 復帰後のオケの音出しはMP3プレイヤーやPSPを使って、自分か風原が人知れず出していたのですが、キュー操作が必要な場面では不自由度が高かった。
 DJであればPA兼演者が舞台上にいる公算になります。これで本当に自由度が高まった。
 たまきおの加入で、宇宙サービスはオケのクオリティ、ライブパフォーマンスの自由度、音楽性が凶悪に増したと思っております。

 ザーッと流して、宇宙サービスの歴史を綴るとこんな感じでしょうか。
 そして今に至る、という感じです。
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(あと2回くらい続く)

2013-07-02

宇宙サービス10周年(8)

 結婚してすぐ、何故か一本だけオファーがありました。
 このオファーから1年強ライブはなかったのですが、このライブは自分にとって「2期の始まり」で。
 JON(犬)さん、アダチ宣伝社さんなんて素敵な対バンで、かつ四つ打ちでフロアを盛り上げるみたいな感じじゃない、のんびりやれるなあってラインナップじゃないか。そこで大耳でやってる即興ボイスやPCを使った即興演奏エッセンスを試しに導入したのでした。
 ひそやかに手ごたえを感じていました。

 そこから1年オファーなし。
 もう、心の中では事実上休止したものと思っておりました。いや、ともすれば自然消滅の気分だったかもしれない。
 ですが、この1年の間、自分は何故か大耳のセッションの場に毎度出かけておりました。
 「宇宙に何が足りなかったか」を考えて、「自分に何が足りないか」を埋めに行く修行場を求めに行った、その一念でした。
 PCにゲームパッドをつないで、音を出す仕組みを構築したのはちょっとした発明でした。
 あれを大耳で思いついて実験してたとき、確かとんちピクルスさんが来てて驚嘆してた。

 この「PCにつないだゲームパッドノイズを出す」という立ち姿を手に入れたのが、2期宇宙サービスの強さだと思っています。やっぱ、楽器然としたものを手にして歌ってるほうが映えるんですよ。こないだMUSKでライブを行った日、仕事の関係上手運びせざるを得ず、大雨の予報が出ててPCを持って行けなかった。久々に手ぶらで立ったステージは、やはりおっかなかったであります。

 作曲ソフトを、従来使ってるソフトを使い倒す方向にシフトしてみた。
 以前は音をよくするためにとか、なんだとか。たくさんのソフトを試していたりしたのです。
 その煩雑な作業が、作曲作業をうんざりするものと認知させているのではないかと考え。一つのソフトに一本化することにした。

 そんな自助努力のほかにも、1期で共演した様々なバンドさん達からの影響。
 聡文三さん、ポカムスは特に影響が強いと思う。

 1年経って、森さんが「宇宙サービスに」とオファーをくれたとき、自分はもうピンでやるつもりで受けることにした。
 1年の空白の時期に作った曲ばかりをオケとして流すことにして、ノイズ用のノートパソコンを置き。ゲームパッドを握り締めて新曲群をひたすら練習した。今までなかった、メッセージ性の強い歌詞が並んでいた。
 会場には、呼んでもいないのに風原とてっちゃんがやってきた。
 「いやあ、ライブあるんだったら・・・メンバーだろ?」
 どこぞの少年漫画かお前らは。スゲエ感動した。

 ライブは凄いいい出来だった。

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宇宙サービス10周年(7)

 宇宙サービスというバンドは、自分の中では1期と2期があります。
 その1期の絶頂は意外に早く訪れました。それがこのラウンジサウンズ初舞台から半年の間。
 2005年11月のラウンジサウンズの後、翌年2月に再びラウンジサウンズ。5月には東京でライブして、ラウンジサウンズと自主イベント「堕天使ポエティーク(宇宙サービスプロデュース版)」を主催。
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 東京のライブは、先に書いた運営中のホームページオフ会として企画されました。
 http://www6.atpage.jp/jimadon/cgi-bin/ansq/ansq.cgi
 (このページは自分は運営するのが難しくなっており、今も有志による仮運営中がなされています。どうにかしたいと思うんだけれど、心がついていかない状況。)
 ホームページの運営に関してだけれど、こういうコミュニティの運営に関してはどうやら才覚があったのかもしれません。商才やら金儲けの才能は一切ないのですが、箱庭的世界を安定に導く術、確かに自分に何かしらのものがあったのでしょう。
 この大喜利風サイトを母体にしてネットラジオなんぞを続けておりました。
 どのサイトをやってても、爆発的に客が増えることはなかったけれど、それでもいつも人がいたっけなあ。

 東京のライブは持ち曲のほとんどを費やしました。
 みんないい顔してたっけなあ。文字通り日本中から客が来ていたし。
 あまりにオフ会が楽しすぎて、「俺、今この場で死んだら本望かもしれない」と感じてしまった。
 思えば、あの体験は充足感が大きすぎたのだと思う。
 あれからしばらく、老人のようになっていたような記憶があります。
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 帰福してすぐのラウンジサウンズで、じん帯損傷の大怪我をしました。
 足の怪我の暗示は「今進んでいる道は過ち」だと、芝居の師匠のような知人から聞いた事があります。全くその通りになって行きました。

 思えばこの5月までに、やりたいことはほとんど出尽くしたんですね。
 そこから先の出演で、印象に残ったライブは特になく。
 強いて挙げれば、風原が急に出られなくなっててっちゃんを擁立したライブがスゲエ面白かったことくらいでしょうか。
 ホームページのほうも散漫になって行きました。

 この頃、兼ねてからイベントを一緒にやったりと交わる事が多かった大耳には、懐疑的な立場を取っていました。アングラ表現に暴力性が混じるようになってきて、ちょっとついていけないなあと思ってた時代。とりあえずタブー侵してぶち壊せばいいや、なんて雰囲気が垣間見えちゃって。
 ちょっとラウンジサウンズなんかに出られてる自分たちは、だなんて。妙に勘違いして尖っちゃったりもしました。
 あるライブで、対バンアングラ芸術なんてクソッタレと劣化フリップ芸もどきを演ったところ、会場は妙に受けた上サブカル界の超大物氏に「殺意を抱いたわ!」と酷評。

 よれていく足取り、それもそのはず心は上の空。
 この時期、表稼業は妙に順調で、小金がたまっていました。
 仕事帰りにひたすら嫁とゲーム三昧。土日には遠征にまで行くほど。
 「クイズマジックアカデミーでバンドを潰しかけた」と打ち上げトークで語る事があるのですが、まんざら冗談でもない話。
 http://www.konami.jp/am/qma/qma4/webranking/ranking_gem_00_03.html
 (※ここの390位が自分です。どんだけお金つぎ込んだんだ!!)

 先日ボギーさん母から、唯一宇宙サービス1期時に出たハイコレの映像を見たのですがまあこれがひどくってねえ。レッドカーペットとかで登場する、欲しがりすぎてバタバタしすぎて何やってるかわからない若手芸人、みたいな。
 思えば努力を放棄してたなあ、と。

 1期の宇宙サービスは一度、もう思い出したくもないような舞台を経験したあと。
 自分の結婚によりしばらく休止期間を挟みます。
 しかしこれが予想外にも、音楽に対する地道な努力への回帰に結びつくことになるとはおもわなんだ。

2013-07-01

宇宙サービス10周年(6)

 自分のいた劇団ギガの当時の主宰は菊澤将憲(現在はフリー、東京で活動中)。菊ちゃんは演劇活動の傍ら「アカシックレコード」の名前で天神照和レギュラーをやっていました。
 菊ちゃんが入っていた水曜の照和レギュラーにはマルツカ道、聡文三なんて錚々たる名前が並んでおったものですが、自分が目をやっていなかったそのほかの曜日に入っていたのが奥村さんの兄弟、ボギーとオクムラユウスケ

 大耳に出入りしていた、イラストレーター韮山マリイさんのうちに遊びに行ったときの話。
 「君、ボギーって知ってる?ヨコチンレーベルの」
 「いや、知らないっすね」
 「ハイコレとか知らないかな」
 「ああー、ハイコレ!」

 演劇活動中、フライヤーを何度か目にした記憶があるのです。
 そのときは大勢のバンドマンを呼んでシャッフルユニットを組む企画。次にキチガイ天下一武闘会決定戦。いずれにせよ、正気の沙汰じゃない企画。
 あのバンド、解散してなかったらこの人々のとこで遊びたかったなー、じたばた。みたいな思いが募っていたのは事実です。

 「ジマオくん、絶対ボギーは知り合いになったほうがいいよ!アイツは面白いよ!!」
 「名前覚えときます」
 普段こういう話の場合、やはり縁というのは残酷なものだと考えて生返事必至な状況だったのに。何か「ああ、きっと引き合うな」って確信を何故か持った記憶があるのですが、本当にそれから一ヶ月たたないうちに。
 「ヨコチンレーベルのボギーと申します。ラウンジサウンズというイベントを行っているのですが、11月29日のイベントに出演していただけないでしょうか?」
 本当にメールが来てしまった。

 流石に自分は焦りました。ライブハウスに本格的に出演するのいつ以来だろ?とか、あのオケでライブハウスで流して大丈夫だろうかとか。いろんな恐怖が駆け巡るなか、風原のほかに大耳で活躍してた松本Kちゃんに共演を打診。
 一度目のラウンジサウンズは共演も凄くて、聡文三さん率いるタージリン、今や「あたりまえ体操」の樋口兄弟の兄のほう率いる金的三番街、’N夙川ボーイズのシンノスケがいたビリビリBビリー。
 この日はKちゃんが脱いじゃったりして、結果的にフロアは大盛り上がりを見せて。興奮と熱狂のままデビュー戦を飾る事が出来ました。他のバンドも素晴らしい日で、こんなにいいライブに出演者として立ち会えるなんて、と打ち震えた記憶があります。
 やっぱり最高の出会いには同時に最高の出来事が起きるもんだな。今言葉を綴りながら、顔がにやけてしまっているのです。

 ボギーのイベントはとにかく面白かった。
 中央志向のない、自分のアーティスト性と嗜好を全面にくどい位に散りばめた演出
 決してオタク的ではないが、オシャレなサブカルには絶対行かない絶妙のバランス。
 流石に今になって切り口はずいぶん変わった感があるけれど(昔のほうがやや中央に目を向けてた感がある)、劣化はしていないし、むしろ円熟したと考えていい。

 出させてもらうだけで精一杯、のうちに迎える一回目の絶頂期は次回にて。

宇宙サービス10周年(5)

 昨日つらつらこれ書いてて、反響はないだろなー、なんて思っていたら。ツイッターで1人の女性から「面白いです」と感想が返ってきてちょっとだけ嬉しくなりました。そんなもので嬉しくなるお人よしな性分です。イイネボタンでも何でもよいです、反応していただければ有難い。

 さて、いったん演劇を3年やっておりました。
 音楽周りから演劇に行くと絶対に感じることとして、ステージの上の演者となるために、何かしらの裏づけになる行為を行わなきゃいけないという厳しさ。バンドマンは楽器さえ持ってれば、客席の向こう側に行けます。それは単純に、視覚的な意味合いです。上手かろうが下手であろうが、客席とステージの距離は遠くなる。
 身一つで舞台に立つことほど恐ろしいものはないです。たとえ、卓越した話芸を持っていたとしても。美声を持っていたとしても。体一つで、客席とステージの距離を遠く離さなくてはいけない。

 思えば前身バンドでは、「打ち込みで突っ立って歌ってるだけやん、音楽は自分で演奏してナンボだろうがよ」と口さがない共演者にDisられることが結構な頻度であったものでした。実は、演劇経験を欲しがってたのはそれらに対する負けん気もあったのですね。
 2〜3年間そんな場所にいたことは結構大きな経験になったようで、ごく初期の、キドイチ脱退後の宇宙サービスはピンでやっておりました。一人でもそこそこの事をしていた記憶がありますが、流石にこりゃまずい、行き詰まるわと考え。
 ほどなくして風原優人が加入。当初は「1人でやると恥ずかしいから横にいてくれ」という理由で、ただ横に座ってるだけという約束での加入でした。
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(加入直後)

 宇宙サービスと平行して、誘われて大耳ネットワークと付き合い始めたのがこの頃。この集団はアングラ劇団が母体の表現集団で、月二回千代のパピヨ練習場でフリーの音楽セッションや舞踏を行っています。
 覚えているのが、芝居の役者に誘われたので、そのセッションの場に見学ついでに断りに行こうと思ったら、いつの間にかキーボード演奏して歌ってたこと。

 この集団の行ってるセッションが独特で。様々な楽器が置いてあったり演者がセッティングしてあったり。主宰が何名かを指名し、「何分まで!」と号令を下す。曲はもちろんインプロビゼーションになるのだが、やってみないとどんな曲調になるのか全くわからない。こういうセットを5〜6回繰り返す。自分はここで、セッション演奏や即興ボイスの面白さに目覚めました。
 そういや、この場所に行くまで音楽を演奏するという楽しさを知らなかったのだなあ。
 小倉の今はなき名ライブハウス・バードマンハウスに、即興演奏組として同行してミュージシャン気分を味わったのも、今となっては懐かしい思いでです。
 倉地久美夫さんはこの場所の大先輩に当たります。
 一度この場所でご一緒されたとき、生意気にもボイスで勝負を挑んだ事がありました。
 結果は当たり前ですが勝てるわけがない。

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(※宇宙サービスで大耳の芝居宣伝に駆り出されたときの写真)

 大耳ネットワークでは森耕さんという男と出会いました。
 彼は音楽以外の趣味、特に「必殺シリーズ」の話で奇跡的な意気投合。
 たちまち彼のイベント「堕天使ポエティーク」に出させてもらったり。共にイベントを企画したりと、アングラでささやかながら活動を広げていきました。
 しかし宇宙サービス自体、活動は緩やかだったのを覚えています。丁度この頃、自分はHTML全盛期に作ったサイトがそこそこ当たって、その運営にも精を出していました。週一にネットラジオなんぞもやっていたのです。

 しかしそんなささやかで緩やかな活動を、どこでどう網をはって目ざとく見つけたのか。
 1人の男が自分のところに、オファーメールを送ってきたのでした・・・。

 (次はラウンジサウンズの話)

2013-06-30

宇宙サービス10周年(4)

 東京の大学に行ってたりしたらと思うとぞっとする事があります。
 表現することの喜び自体は知ってたから、おそらくそれに向かうリソースを一気に発散して使い果たしてたんじゃないかなと。
 いろんな人に迷惑をかけて絶望的な場所に追い込まれて、挫折して、みたいなが浮かぶのだけれども。
 自分は残念ながら壊れたところがある人間です。きっとそうなっていたことでしょう。
 福岡の、そのまたマイナーなシーンで御山の大将で過ごした自分にとって、そこに押し込められていたのは幸運だったと思うしかないな。
 しかしあらゆる意味での「卒業」後の風景は当然荒野でした。

 就職はうまく行かなかった。
 社会人訓練的な事も一切なく放り出されてしまった自分。
 親の無学と育児放棄
 色々と放浪したこと、引きこもったこと、肉親の不始末、家庭の不和。実家を離れられない厄介な事象
 
 結局ラジオの投稿仲間とバンド「シンセパワー」を始め。出会い。挫折。

***

 大まかにその時期の様々なことを上の文章で端折る事にして。
 音楽的には本当に劣化電気グルーヴ?と思わせておいて。なかなかどうして変な事が出来ていたんじゃないかと思っています。なにぶんにも二人ともそこそこ歌が上手かったので、もう少し真面目にやっていたら、という気持ちは今でも持っています。
 いちおうVHSで映像が手元に残っていたりするんだけど、もうこのバンドは終わってしまったので。

http://fruel.cocolog-nifty.com/hinouma/2012/01/20120109-8ac0.html
(火の馬の宮下無双の文章。何とその頃に偶然出会っていたのだった!!)

 そのバンドの末期、たまを観に照和に行ったときに見かけた「ハイコレ」のフライヤーオクムラユウスケのアルバム「自分防衛軍」のフライヤーにビビっと来て、すぐにでもヨコチンレーベルデモテープを送ろう!と意気込んだ事があったのだけれど、本当にその直後にこのバンドは解散の憂き目に遭ったのでした。

 声を使う仕事がやりたくて、発声を学びたいという意思があって。
 アナウンサー学校に入るみたいな学費もない自分は、縁のあった劇団ギガに参加する事が出来ました。いくつか主演、ちょこっと音響や音楽。
 考えれば自分、色々と迷走しておったのです。けれどこのときの発生であったり身体訓練であったりの努力はその後ずっと、宇宙サービスをやるための財産として残っています。何度か役者仕事も来たしなあ、本当に数えるほどだけれども。

 ・・・ようやく、宇宙サービス結成につながった。
 次はラウンジサウンズ初登場くらいまでか。

宇宙サービス10周年(3)

 先に書いた番組「タコ天」は正式なタイトルを「たこのあしベストテン」、略称「タコ天」といいます。イカ天の安易なもじりです。替え歌投稿が多かったな。自作曲もけっこういた。

 自分は「タコ天」で表現する喜びを覚えました。
 ラジオに投稿するようになる一年前に高校の寮で出会った、演劇人志望であった高校の先輩との邂逅もあったのだけれど。
 思えば表現する喜びを体現するというのは昔はハードルが高いものだったなあと。
 今じゃ匿名掲示板で犯行予告するだけで有名になれる世の中です。動画サイトに何かくっちゃべってるところをアップするだけで多分、あの時代のラジオ投稿と同じ興奮を味わえるのではないかな。

 高校時代はバンドブーム真っ盛り。
 思えばお坊ちゃん学校だので、周りは親から楽器買ってもらってライブハウスデビュー、いっぱいいたのよね。
 自分は冴えないオタクちゃんだったのだけど、昔から歌だけ上手かったのです。無駄に。
 家は貧乏なのに勉強が出来るからとそういう学校に放り込まれた凡人の子供でした。そういう自分がそういう学校に入ったところで結局「勉強が出来る集団の中の下のヤツ」に成り下がったわけで、無能感でくさくさした学生生活だったのです。
 自分だったら音楽だったら凄いことならね?とか、無駄な全能感で投稿したら、それが評価されてしまった。

 結果的に人生狂ったとは思っているけれど、まあその後の人生の出会いもなかったわけで。いや、こっから先まだまだいい事が待っているかもしれないし。

 もちろん、その当時投稿してたヤツ今聴くと発狂ものですよ!!

***

 タコ天も6年間続き。
 福岡の大学に入った自分は、タコ天のファンクラブみたいなものを作ったり。
 ミニコミを作ったり。
 そこで得た友人にたまを教わり。
 そのイベントにのこのこやってきた現嫁と出会ったりしたのでした。
 そして、その当時彼女のドンの字から電気GROOVEを教わったのでした。

 自分はタコ天常連界のドンみたいな事をやっていました(※笑うところ)。思えば「自分みたいなのがいたから終わった、みたいに言われても仕方ない、申し訳ない」などと供述したいところもなくはないです。
 ただ、出会った人間達は宝です。あの時出会った皆さん、あの時のわたくしのたくさんの非礼をお詫び申し上げたい。
 「お前の家でやった数々の常連飲み会面白かったなあ」とてっちゃん述懐されたっけな。・・・そう、宇宙サービスのてっちゃんはこの頃の出会いでつながった仲間です。他にも何人か、福岡の音楽仲間に、ネット仲間に残っています。

 番組は徐々に熱意を失い、次第にぼくらみたいな存在を疎んじておりました。またぼくらもこの番組の存在に依存しきっておりました。とりあえず表現の場所としてアレがあるからいいや、みたいな。
 かなりひっそりと、番組は終了するのでありますが、その末期で番組は「選者」としてエレキハチマキの坂井壱郎さんを起用。交流することがありました。
 そこで、地元のバンドのライブを見に行く機会を得たことは、後にライブハウスを主戦場にしていくきっかけになったのではないかなあと。

 タコ天末期には電気を意識したスタイルで公開イベントで曲を披露する機会にも恵まれて、色々な意味で感謝をしています。しかしラジオ終了時期は自分は大学卒業+就職が控えており、もう表現をすることもないのかなあ、などとぼんやり思っておりました。
 そう、いろんな意味で「卒業」の時期だったのでした。

(次は前身バンド「シンセパワー」と劇団ギガの話。)

宇宙サービス10周年(2)

 おおよその自称ミュージシャンたるもの、大概思春期時に見聞きした音楽が「目指すべき指標の音楽」になっているもので。ライブハウスの打ち上げでそういう話になって、必然的に洋楽の話題で盛り上がってしまう。自分の場合そこに
 「クレイジーキャッツ
 「わけありベストテン」
 「ゲームミュージック
 が入ります。

 まあ、クレイジーキャッツ電子音楽、みたいなところで宇宙サービスをざっくり評価しても、ん、まあチープなところで結実はしたけどね、まあ及第点じゃねってとこで説明はつくかもしれない。でも、「わけありベストテンと電子音楽」だと「なぜチープなとこで結実したかが説明付くんだなこれが。
 おそらくたくさんの人が聞きなれない単語「わけありベストテン」ってなんじゃらほいという話になるわけです。

 大昔、福岡をキー局にしたパオーンという中高生向け深夜ラジオ番組がありました。「わけありベストテン」はその1コーナー。
 レコード室にあった面白い既成曲を掘り出してはベストテンにして流す、みたいなチープなコーナーだったのですが、そこに唐津の中学生が自作のカセットテープ「タコの足」を録音して送りつけ、この曲が見事に採用。以後、リスナーからの投稿が相次ぐという自体に。
 オリジナル曲から、ミニショートコント、一言ネタ、打ち込みアレンジ、今でいう「歌ってみた」に至るまで様々なものが投稿され、また当時はネットもない時代。一部の人間に爆発的な盛り上がりを見せました。
 自分が初めて聴いたのは「北九州有名高校数え歌」や「オーマイメイコ」のあたり。

 この番組、制作者側が実に熱意を持って運営していた。
 「精巧にデータを集計」「年間ベストテン」「常連3大スター選出」などといった、おおよそ地方の一番組の一コーナーと思えない熱意を持った運営のされ方は、後の自分の宇宙サービスや自サイト「お父さんのための芸能通クイズ」の運営の手本になっているのではと、今綴りながら気付かされています。
 この番組独自のスタイルの「替え歌」「コミックソング」の特色は、投稿者本人のキャラクター性をある程度要求してそれを評価点にするところでした。ただ上手いだけの替え歌ならば、3週くらいしか残らなかった。
 「わけありベストテン」当時は恐ろしいくらいに倍率も高かったと聞きます。自分も2度投稿したが歯が立たなかった。
 偶発的に生まれた、恐ろしくレベルの高い(但したまにレベルは上下してた)コミックソングのコンペみたいなものが毎週行われていた、と今でも認識しています。
 この番組に、中学高校と夢中になっていました。自分は中高生の頃、有名な進学校の寮に入っておりました。
 それは自分にとって全くよくない経験だったのだと思う時がある。
 禁欲的に、また束縛的に過ごしてしまったなあと思っています。寮では音楽や漫画など、大衆文化の類は持ち込み禁止でした。ラジオ程度ならと隠して聴いていたのでした。
 思えばそういった生活で聴いていたものだから、ひょっとしたら自分のフィルターによる過大評価があるのかもしれません。

 わけありベストテンは自分が高校2年の冬にパオーン終了とともに一旦終了。このコーナーは次の番組に引き継がれることになりました。それが「タコ天」。
 わけありベストテン並みの熱意で動いてくれていたこのコーナーで、自分はなぜか投稿常連の仲間入りを果たしてしまいます。
 「倍率低いかもしれないし、曲が掛かったら面白くね?」
 ってくらいの気持ちで送ったテープがこんなことになろうとは・・・。

 次回は「タコ天」のお話。

宇宙サービス10周年(1)

 宇宙サービスが10年目を迎えました。
 「た」と過去形なのは、昔の日記を手繰っているとどうも5月末くらいに仮で結成してた事が判明した事が発覚。6月末だと思っていたのだけど。
 たいした事のないアマチュアの表現集団なのだけれど、そこに込めた念の重さはあまり類を見ない集団だと自負しています。10年続くってのがその証左だとも。
 ゆえに、他人からどう思われようとも、どう評価を受けようとも、単純に子供みたいに大変嬉しい。

 8月に結成最初の演奏場所・くうきプロジェクトで、また10月に10周年記念であるところでライブをする事が決まってます。このうち10月のイベントに間に合うように、ちょっとした冊子というかムックというか、そういうものを作りたいなあと思っております。・・・なもので、つらつらと自分がなぜこんなものをやるにいたったか、なぜやっているのか。宇宙サービス自体の歩みを何回かに分けて書くことにします。
 実際謎な存在だと思うわけですよ、うちら見てくれるお客さんとかにとっても。福岡、ひいてはその周辺都市のライブハウス界隈でも。
 先にも書いたけど、所詮たいした商業的成功など収めていない集団の自叙伝なんざ面白くもないかも知らんですよ。
 まあでも、書いていくうちにひょっとしたら、自分でも気付いてない「うちらの魅力」、ひいては「何やようわからんが他人にとっては人生のヒント」みたいな何かが伝わるかもしれないなあ。まあそうなる事を信じて。

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 宇宙サービスは10年前、当時自分が所属してた劇団のイベントの頭数合わせのために結成されました。・・・これは全く間違っていない。
 劇団主宰は弾き語りで出るけど、お前も昔なんかやってたよね?ああ出る出る、じゃああいつと組んでやるか、みたいな。

 結局当日はサウンドカードについてた安いソフトシンセMODトラッカーで作ったオケにあわせて、確か自分がサンプラー、メインボーカルは最初の相方で、劇団つながりで見知っていたキドイチだった。キドイチはライブの天才で、本番の舞台に立ったその一挙手一投足がミラクルを呼ぶ天然素材であったのを覚えています。
 キドイチは平沢進の大ファンで、宇宙サービス自体のネーミングも彼によるものです。
 ライブ2回目には「面白い音ネタ」「全てオケを編集してCDをPAに渡すだけ」など、後の宇宙のスタイル全てを確立しきった、指標になるライブを敢行。ものすごく面白かったけれど、まあ当然至極お客はまばらだった事を覚えています。
 そのときのレパートリーはほとんど残っていません。

 このイベントというのがくうきプロジェクトであります。大名にある、青少年にサークル活動や表現集団の練習場を提供している施設・福岡市青年センターが、月に1回第3土曜に開いている入場無料のお祭り。このイベントは今も続いています。
 偶々このときお客で来てくれた風原くんに、トラブルで抜けてしまったキドイチの後として白羽の矢を立てたのがその半年後。それはまた後のお話。

 安いソフトシンセMODトラッカー、の下り。実は作曲環境は全く変わっておりません。
 一時期はいい機材を買ってランクアップを図ろう、などのごく普通の野望も持っていたのです。
 ライブをやるたびに「機材で馬鹿にされてるんじゃなかろうか」「音で見くびられるんじゃなかろうか」などの劣等感が頭を巡っておりました。まあ実際馬鹿にされていたし。そしてそれは今でもどっかしらに引っかかっています。
 しかしある時期に「変えない」を選択したことで、却って音が研ぎ澄まされる出来事が発生。
 この辺は結婚による中断から大復活を遂げた辺りでおいおい。それから6年後くらいにつながるのかな。

 次は何で音楽をやっているのか、そもそもお前の音楽遍歴ってなんなんだって話を。