jimusiの昼寝

2017-06-09

[]民主政治と世論の役割

 こちらの記事に、以下のようなブックマークをしました。

「日本は選挙でしか決まらない。」←これはさすがに滅茶苦茶でしょう。間接民主制の採用とは、それしか認めないということではありません。高校の現代社会や政治経済の教科書を、読み直されてはいかがでしょうか。

 すると、記事の著者から以下のようなidコールを頂きました。

本質的には日本の政治選挙でしか決まりません。他に何か方法があるのでしょうか?何をするにも選挙を経由します。そちらこそ高校の政治経済の教科書を読み直したほうがいいのでは??

 ということですので、以下に『高等学校 政治・経済』(第一学習社 平成28年)より引用します。

(78ページの本文から)

 現代の民主主義国家において、国民の意思は選挙のほかにも、請願、陳情、デモなどの大衆行動によって表明されるが、世論もまた選挙制度を補完するものとして、政治を動かす原動力となる。

 世論とは、公共の問題に対して人々がもつ意見のことである。現代の社会では、世論は政権に対して影響力をもち、時には政策を左右したり、政権交代をもたらしたりすることがある。そのため、人々はさまざまな意見を参考にしながら、自分たちの判断力で世論を形成する責任がある。

 このように、選挙以外でも政治を動かす力が形成されることがあり得るということについて、教科書で述べられております。納得して頂けましたでしょうか?

2015-12-27

[][]安倍政権が、従軍慰安婦の少女像の撤去を求めている件について

 今日の午後6時過ぎからNHKで放送された「これでわかった!世界のいま」という子供向けのニュース解説番組で、明日の日韓外相会談の議題となる慰安婦問題について解説していたのを観たのですが、ちょっと絶句する程のひどい内容で、特に番組で登場したNHKの記者2人が安倍政権の代弁者となっていたことには呆れ果てる他ありませんでした。その番組については、例えば以下のツイッターでも取り上げられています。

https://t.co/2Fz4MeAjdR  https://t.co/faPFwDXUoO  https://t.co/oETSV4spXY

 報道によれば、日本政府韓国の日本大使館前の少女像の撤去を求めているそうなのですが、この恥知らずな要求を聞いて、数年前にNHKのBS放送で放送されたあるドキュメンタリーを思い出さずにはいられませんでした。以下は、当時の番組HPの解説文です。

 勇気ある証言者 〜ボスニア〜 

 現代の戦争は、その姿を大きく変えた。国家間の軍隊による戦闘だけでなく、武装グループ、軍閥民兵、ギャングなどが当事者となり、一般の市民が巻き込まれる例も急増している。こうした戦争では、女性がターゲットとなることが少なくない。暴行、略奪、人質、レイプ子どもの殺害などの被害者となり、肉体的にも精神的にも大きな傷を負ってしまう。しかし一方で、平和と正義を実現するために、女性たちが立ち上がり大きな役割を果たすようにもなっている。

ユーゴスラビア紛争で起きた民族浄化の過程で、多くの女性が組織的レイプされた。敵対する民族を辱め、その誇りを奪うためだ。ハーグ国際司法裁判所では、旧ユーゴの戦犯が多く訴追されているが、集団レイプについても裁かれた。裁判の中で、ボスニアの女性16人が法廷に立ち、勇気ある証言を行って戦犯を有罪に追い込んだ。

番組では、2人の証言者に焦点を当て、どんな残虐行為が行われたのか、またどのように女性たちが困難を乗り越え、なぜ証言台に立とうと決意したのかを明らかにする。

原題:Women, War and Peace I Came to Testify

• 制作:Thirteen / Fork Films (WNET) (アメリカ 2011年

 このドキュメンタリーの終わり近くで、戦犯裁判で証言した女性たちが被害を記した銘板を掲げるため、集団レイプが起きたフォチャという町に帰るのですが、そこにセルビア人市民たちが押し寄せるという場面があります。

それは、以下のようなものでした。

 ニュース番組のナレーション

「「ダメだ やめろ!」セルビア人市民が抗議します。内戦時のレイプ被害を訴え、銘板を掲げに来た女性たちには、手荒い歓迎となりました」

ニュース映像をパソコンで見る証人

「たった12人の私たちに対し、あまりにも多くの警官がいたことに驚きました。警官隊に道を阻まれ、私たちはそこから先に進むことができませんでした。大勢の人が集まってきていて、危険な状態でした。

  (映像では、セルビア人市民の先頭に立つ女性たちが、親指・人差し指・中指を立てた手をさかんに振っている様子が映されます。なお、ドキュメンタリーの前半では、ボスニア紛争の際にセルビア人民兵が同じことをしている様子が映し出されていました。)

 三本指を立てているのは、セルビア人のサインです。女性はこう叫んでいます。「帰れ。もう過ぎたことだ。ここから出ていけ。」

 男性からは、こんなことも言われました。「帰ってくるくらいだから、よほどいい思いをしたんだろう。フォチャでは、お前たちが訴えているようなことは、一切なかった。」

 予定の場所にたどり着けなかったので、その場に銘板を置いて引き返すしかありませんでした。」

ニュース番組のナレーション

「女性たちは罵られ、卵や石を投げつけられました。」

 ニュース映像をパソコンで見る証人

「若い世代のために、銘板を掲げるべきです。当時を知らない子供たちにも、何があったのかわかるように。フォチャだけではなく、ボスニア各地で起きたことをみんなが知るべきです。各地の収容所、監禁場所、すべてに銘板を掲げ、そこで起きた恐ろしいことを歴史に刻むべきなんです。」

戦犯法廷で検事をつとめたヒルデガルト・エルツ=レツラフ

「人々が自分たちの行為を冷静に見つめ、その残虐さを自認できるようになるまで、長い時間がかかるでしょう。私の祖国ドイツを見ても、国民全員がそのような記憶を共有するまでには、何十年という歳月が必要です。あの法廷での判決がきっかけとなって、国民の大多数が過去の出来事を受け入れられるよう、そんな未来が来ることを願います。」

 少女像の撤去要求する安倍政権や、「これでわかった!世界のいま」に出演していた人々は、レイプ被害者を罵り卵や石を投げつけたセルビア人と同様のことをしているように思われます。このようなことが続く限り、少女像は撤去されるべきではないでしょう。そしてさらに言えば、この歴史的事実を忘れぬために、日本人自身が従軍慰安婦の歴史資料館のような施設を作るべきだと思います。

2011-06-12

[]国会議員でもある国務大臣議員選挙で落選した場合には大臣職を去るべき、という主張に対して感じる疑問

 こちら(http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110608/p2)にブックマークさせて頂きましたが、100字では疑問の内容について論じることができなかったので、エントリをたてることにします。なお、私のブックマークについては、こちら(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20110609/5432109876 )でbogus-simotukare氏が言及して下さっています。

 さて、gryphon氏は、昨年の参院選挙で落選した千葉景子氏に対して法務大臣を辞任すべきという批判が起こったことに言及して、以下のように述べておられます。

んで、千葉話っすけど。要は「議員選挙に落選した千葉氏は大臣職も辞せよ」というのは「選挙によって千葉氏は、選挙民から(今回は)政治に携わる力量が無いと見なされた・・・【と推論される】”。だから大臣職も去れ」、とゆう話です。

 この箇所に疑問を感じたので、私は「いささか無理のありすぎな「べき論」だと思います」とブックマークで述べさせて頂いたのですが、その疑問点について、以下に説明します。

                  

 まず第1の疑問点は、議員選挙に落選した国務大臣は大臣職を辞するべきだ、という主張を認めた場合、国務大臣の間に大きな不均衡が生じることになりますが、それで良いのですか?ということです。

国務大臣の過半数は国会議員から選ばれますが、議員選挙の結果によって国務大臣としての資質が国民の審判にさらされるとすれば、その審判を受けるのは国会議員でもある国務大臣のみということになってしまいます。すると、国会議員でもある国務大臣の立場からすれば、なぜ自分たちだけが国民の審判にさらされて、国会議員でない国務大臣は国民の審判を受けることがないのか?ということになるでしょうし、国民の立場からすれば、国会議員でもある国務大臣に対しては国民が審判できるのに、なぜ国会議員でない国務大臣に対してはそれができないのか?ということになるでしょう。

 次に第2の疑問点は、「選挙に落選したことによって、落選した国務大臣は政治に携わる力量がないとみなされたと推論する」という考え方を認めた場合、同時に「選挙に当選したことによって、当選した国務大臣は政治に携わる力量があるとみなされたと推論する」という考え方も認めなければならなくなりますが、それで良いのですか?ということです。

例えば、大臣としての職務上で何らかの問題を起こし、批判されている国務大臣がいたとします。そして、批判されている最中に議員選挙が行われ、その大臣が当選した場合、もしもその大臣が「私は議員選挙に当選したのだから、国務大臣として私がやってきたことは国民の支持を受けていることになる」と言いだしたとしたら、これを正当な主張であると認めなければならなくなってしまうでしょう。それは、かなり理不尽な話だと思います。

 最後に第3の疑問点として、選挙に落選したことによって落選した国務大臣は政治に携わる力量がないとみなされたと推論することは、そもそも正しいのだろうか?ということを指摘したいと思います。私は、そのような推論はある程度は成り立つだろうとは思いますが、その一方で選挙民の意思を歪めてしまうおそれがあり、また能力の高い国務大臣罷免される一方で、能力の低い国務大臣罷免されないおそれもあるのではないか、と思います。

まず、なぜ選挙民の意思を歪めてしまうおそれがあるのかと言いますと、議員選挙とはある選挙区に立候補した候補者のうちから最も議員にふさわしいと思われる人物を選挙民が選ぶことであり、不適格と思われる候補者を選ぶことではないからです。勿論、当選した候補者に投票した選挙民は、落選した候補者に対して国会議員になってほしくないと思いながら投票した可能性は大いにあるでしょう。しかし、落選した候補者国会議員としては悪くはないけれど、当選した候補者の方がより国会議員としてふさわしいと考えて投票した選挙民もいた、という可能性もまたあるわけです。それなのに、落選したことで「選挙民から(今回は)政治に携わる力量が無いと見なされた」と判断することは、「落選した候補者国会議員としては悪くはないけれど、当選した候補者の方がより国会議員としてふさわしいと考えて投票した」選挙民の意思を歪めることになるのではないでしょうか?

これは、議員選挙とは選挙民が候補者に対して相対的な評価を行って高い評価を得た1人または数人が当選するという制度であるのに、その相対的な評価の結果をもって、政治に携わる力量があるか否かの絶対的な評価を行おうとするために起こる矛盾だと思います。

 そして、このような矛盾によって、能力の高い国務大臣罷免される一方で、能力の低い国務大臣罷免されない、ということも起こり得るのではないでしょうか。

ここで、少し仮定の話をします。例えば、A大臣とB大臣という2人の大臣がおり、それぞれα選挙区とβ選挙区から選出された国会議員でもある、とします。そして、非常に単純化した仮定ですが、A大臣の政治家としての能力は5段階評価で「4」であり、B大臣の政治家としての能力は5段階評価で「3」であるとします。この場合、A大臣とB大臣のどちらかが辞めなければならないとしたら、B大臣が辞めるべきということになるでしょう。

ところが、α選挙区選挙においてA大臣以外の候補者の中に「5」の能力をもった候補者出馬し、選挙民が正確に候補者の能力を判断して投票したらどうなるでしょうか?当然、「4」の能力を持ったA大臣は落選するでしょう。一方、β選挙区選挙においてはB大臣以外の候補者のレベルが低く、「2」の能力を持った候補者しかいなかったとしたらどうでしょう?当然、B大臣は当選することでしょう。すると、選挙に落選したことによって落選した国務大臣は政治に携わる力量がないとみなされたと推論するという考え方に立てば、「4」の能力を持ったA大臣が辞めるべきであり、「3」の能力しか持たないB大臣は辞めるべきではない、ということになるわけです。これは、ずいぶんと不合理な話ではないでしょうか?

 以上のような点から、国会議員でもある国務大臣議員選挙で落選した場合には大臣職を去るべき、という主張に対しては、これを正当な主張と認めた場合に生じるだろう矛盾や不合理さなどから、認められるべきではないのではないか、と私は考えます。

2011-06-04

[]君が代日の丸の強制に関連して思い出すファンタジー小説というと

 個人的には、この作品でしょうか。

 

風の海 迷宮の岸(下) 十二国記 (講談社X文庫―ホワイトハート)

風の海 迷宮の岸(下) 十二国記 (講談社X文庫―ホワイトハート)

 TVアニメ版では、事実上の最終回である39話で描かれましたが、ヒロインであり、慶国(異世界の国の1つ)の王となった陽子が、伏礼を廃するという勅令を出すときの台詞は、非常に印象的です(以下の引用は、原作の365〜367ページから)。

「他者に頭を下げさせて、それで己の地位を確認しなければ安心できない者のことなど、私は知らない。

そんな者の矜持など知ったことではない。それよりも、人に頭を下げるたび、壊れていくもののほうが問題だと、私は思う。」

「人はね(中略)真実、相手に感謝し、心から尊敬の念を感じたときには、しぜんに頭が下がるものだ。

礼とは心の中にあるものを表すためのもので、形によって心を量るものではないだろう。

礼の名のもとに他者に礼拝を押しつけることは、他者を頭の上に足をのせて、地になすりつける行為のように感じる」

「無礼を推奨しようというわけではない。他者に対しては、礼をもって接する。そんなものは当たり前のことだし、するもしないも本人の品性の問題で、それ以上のことではないだろうと言っているんだ」

「私は、慶の民の誰もに王になってもらいたい。

 (中略)

人は誰の奴隷でもない。そんなことのために生まれるのじゃない。

他者に虐げられても屈することない心、災厄に襲われても挫けることのない心、不正があれば正すことを恐れず、豺虎(けだもの)に媚びず。

私は慶の民に、そんな不羈(ふき)の民になって欲しい。己という領土を治める唯一無二の君主に。

そのためにまず、他者の前で毅然と首(こうべ)を上げることから始めて欲しい」

2011-06-03

[]君が代起立斉唱条例

君が代起立斉唱条例大阪府議会で成立…全国初 http://news.biglobe.ne.jp/domestic/0603/mai_110603_6952572169.html

 大阪府内の公立学校教職員に君が代の起立斉唱を義務付ける全国初の条例が3日、府議本会議で成立した。橋下徹知事が率いる首長政党大阪維新の会府議団が提出。公明自民民主共産は反対したが、過半数を占める維新や、みんなの党などによる賛成多数で可決された。橋下知事は、不起立を繰り返す教職員の懲戒免職を盛り込んだ処分基準を定める条例案を9月府議会に提出する方針を示している。

 条例は「我が国の郷土を愛する意識の高揚」「服務規律の厳格化」などを目的に掲げ、府立と政令市を含む市町村立の小中高校、特別支援学校の教職員を対象としている。「学校の行事において行われる国歌斉唱にあっては起立により斉唱を行うものとする」と明記し、府施設での国旗の常時掲揚も義務付けた。罰則規定はない。

 討論で、維新は「模範となるべき教職員が繰り返し職務命令違反する行為が子供に与える影響は計り知れない」と必要性を強調。これに対し、公明は「条例よりも職務命令など管理監督を徹底すればすむ」、自民民主も「条例化の必要はない」などと反論した。自民が提出した国旗の常時掲揚だけを義務付ける条例案は否決された。

 「君が代」は、国民主権日本国国歌としてふさわしいとはいえないのではないかなあ、と思っている私のような人間としては、これこそまさに「君が代」という歌にふさわしい歌わされ方なのだろう、と思うばかりです。「君が代」には、「義務」や「強制」がよく似合っているのでしょう。

 なお、橋下知事のテーマソングとしては、大槻ケンヂ氏の『踊る赤ちゃん人間』が良いのではないかなあ、とふと思ったりしたり。