『となりの山田くん』で、「壊れて」「消えた」アニメーターとは誰なのか?

文春ジブリ文庫かぐや姫の物語』から抜粋された、以下の鈴木敏夫氏のインタビューが話題になっています。

「なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #1
http://bunshun.jp/articles/-/8406
高畑勲監督解任を提言したあのころ」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #2
http://bunshun.jp/articles/-/8407
「緊張の糸は、高畑さんが亡くなってもほどけない」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #3
http://bunshun.jp/articles/-/8408
 また、https://togetter.com/li/1256097のようなまとめ記事も作られています。

これらの記事を読んだ多くの人々は、高畑勲監督が多くの才能あるアニメーターを使い潰して作品を作ったと解釈しておられるようで、その根拠とされているのが例えば以下のような部分です。

http://bunshun.jp/articles/-/8406?page=2
まわりの人間を尊重するということがない人なんで、スタッフがみんなボロボロになるんですよ。おまけに、ジブリはこうやって作るんだという、これまで培ってきたスタイルにまで手をつける。そうすると会社が滅茶苦茶になっちゃうんです」
 絵コンテを作り、それを元にレイアウトを描いて、原画マンがキーになる絵を描く。そして、その間を動画マンが埋めていく。そういう日本のアニメーション制作の基本システムは高畑さんたちが作ったものです。でも、高畑さんは『山田くん』のとき、そのシステムをやめたいと言いだした。ひとりの人間が描いた線で作りたいというんです。自分で作った方法論を否定して、新たに作り直す。創造と破壊と再生。そう言えばかっこいいけれど、現実には50人からいる動画マンの仕事はなくなり、ひとりで線を描かされるアニメーターは疲弊して壊れてしまう。それでも、高畑さんはやりたいと言いだしたら聞きません。スタッフは次々に倒れ、消えていきました。それを知った宮さんは「鈴木さん、どうなってるんだ!」と激怒しました。「おれはこのスタジオを守りたい」。宮さんの気持ちはよく分かりました。

http://bunshun.jp/articles/-/8408?page=3
 作品のためなら何でもする。その結果、未来を嘱望された人間を次から次へと潰してしまった。宮さんはよく「高畑さんのスタッフで生き残ったのは、おれひとりだ」と言います。誇張じゃなく、本当にその通りなんですよ。高畑さんの下で仕事をすれば勉強になるとか、そんな生やさしいことじゃないんです。酷使され、消耗し、自分が壊れるのを覚悟しなきゃいけない。

これらの記事を読んだ人は、どう理解するでしょうか?普通は、「疲弊して壊れ」「次々に倒れ、消えて」いったアニメーターは、「ジブリを辞めた」あるいは「アニメ業界からリタイアした、またはアニメーターとして休業を余儀なくされた」と考えるのではないでしょうか。実際、これらの記事へのブコメやまとめ記事のコメント欄では、そのように解釈しているものが多数見受けられます。
実際、私もそう考えまして、高畑氏によって壊れたアニメーターとはどんな人々だろうかと思い、とりあえず『山田くん』のスタッフについて、少し調べてみました。「動画マンの仕事はなくなり」とのことですから、当然壊れたアニメーターは「原画」以上の人ということになりますが、これは作品のクレジットによれば以下の通りです。

となりの山田くん作画監督と原画スタッフ
作画監督小西賢一
原画/安藤雅司 賀川愛 大谷敦子 二木真希子 稲村武志 芳尾英明 山田憲一 吉田健一 松瀬勝 山森英司 倉田美鈴 松尾真理子 湯浅政明 清水洋 古屋勝悟 富田悦子 大平晋也 杉野左秩子 近藤勝也 橋本晋治 山口明子 森田宏幸 浜州英喜 大塚伸治

これを見て、アレアレ?と首を傾げずにはいられませんでした。後期のジブリ作品のスタッフでも何度も目にした人の名前がほとんどであり、吉田健一氏(2000年の『∀ガンダム』以降の富野由悠季作品に参加)や湯浅昌明氏(2004年の『マインド・ゲーム』で長編初監督となり、2017年には『夜は短し歩けよ乙女』『夜明け告げるルーの歌』の2作品を監督)、そして安藤雅司氏(大ヒット作『君の名は。』のキャラデザインと作画監督)など、作画に疎い私でも天才アニメーターと呼ばれていることを知っている人たちが含まれていたからです。
そして、『山田くん』の前後のジブリ長編作品の作画スタッフを調べてみると、さらに疑問が深まりました。『山田くん』は1999年に公開されましたが、その前の長編は『もののけ姫』で1997年公開であり、後の長編は『千と千尋の神隠し』で2001年に公開されています。『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』は、ともに言わずと知れた超ヒット作であり、ジブリの総力を挙げた長編大作です。
以下に、これらの作品の原画以上のアニメーターを挙げてみます。

もののけ姫作画監督と原画スタッフ
作画監督安藤雅司 高坂希太郎 近藤喜文
原画/大塚伸治 篠原征子 森友典子 賀川愛 小西賢一 遠藤正明 清水洋 粟田務 箕輪博子 三原三千雄 大谷敦子 稲村武志 芳尾英明 二木真希子 山田憲一 笹木信作 山森英司 吉田健一 松瀬勝 桑名郁朗 松尾真理子 河口俊夫 野田武広 杉野左秩子  近藤勝也 金田伊功 テレコム・アニメーション・フィルム 田中敦子

千と千尋の神隠し作画監督と原画スタッフ
作画監督安藤雅司 高坂希太郎 賀川愛 
原画/稲村武志 山田憲一 松瀬勝 芳尾英明 山森英司 中村勝利 小野田和由 鈴木麻紀子 松尾真理子 田村篤 米林宏昌 藤井香織 山田珠美 二木真希子 百瀬義行 山下明彦 武内宣之 古屋勝悟 倉田美鈴 山形厚史 君島繁 山川浩臣 大杉宣弘 田中雄一 金子志津枝 浜洲英喜 古川尚哉 小西賢一 大城勝 大平晋也 橋本普治 中山久司 高野登 篠原征子 石井邦幸 山内昇寿郎 テレコム・アニメーション フィルム 田中敦子

いかがでしょうか。『山田くん』は1999年7月に公開され、『千と千尋の神隠し』はその2年後に公開されていますが、『千と千尋の神隠し』の作画作業は2000年2月に始まっており(ウィキペディアの記述による)、『山田くん』の制作終了から半年強というところでしょう。『山田くん』で「壊れ、消えた」アニメーターが、連続して参加するとは考えにくいのではないかと思います。
しかし、『もののけ姫』以降の3作品に連続して参加している人が小西賢一氏・安藤雅司氏・賀川愛氏・二木真希子氏・稲村武志氏・芳尾英明氏・山田憲一氏・松瀬勝氏・山森英司氏・松尾真理子氏の10人、『山田くん』と『千と千尋の神隠し』に連続して参加している人が倉田美鈴氏・古屋勝悟氏・大平晋也氏・橋本晋治氏・浜州英喜氏の5人いらっしゃるわけで、『山田くん』の作画監督・原画の総数25人のうち15人がジブリでの長編制作を続けていることになります。そして、残りの10人のうち、『千と千尋の神隠し』には参加していないものの同年にジブリ美術館で公開された『くじらとり』に原画で参加しているのが、山口明子氏、富田悦子氏、湯浅昌明氏の3人でした(http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/filmo/Slist7.html)。
さらに、残った7人の方々の『山田くん』以後の参加作品については、先述の吉田健一氏を除いて以下の通りです(作画ウィキにリンクを張っています)。
・大谷敦子氏 https://www18.atwiki.jp/sakuga/pages/1458.html
 …ジブリ作品では『千と千尋の神隠し』には参加しなかったものの、2002年の『猫の恩返し』に参加されています。
・杉野左秩子氏 https://www18.atwiki.jp/sakuga/pages/1098.html
 …『山田くん』の後は、2002年以降『ドラえもん』『名探偵コナン』『NARUTO』の劇場版に原画として参加し、2004年の『ハウルの動く城』にも原画で参加されています。
・清水洋氏 https://www18.atwiki.jp/sakuga/pages/700.html
 …『山田くん』以降はジブリ作品には参加しておられないようですが、『山田くん』の翌2000年には『人狼』『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル』などで原画として参加。
近藤勝也氏 https://www18.atwiki.jp/sakuga/pages/216.html
 …2000年の劇場作品『The AURORA 海のオーロラ』でキャラクター設定を担当。ジブリ作品では、2004年の『ハウルの動く城』に原画で参加し、以後多くの作品に参加されています。
森田宏幸氏 https://www18.atwiki.jp/sakuga/pages/386.html
 …2002年のジブリ作品『猫の恩返し』で監督をつとめておられます。
・大塚伸治氏 https://www18.atwiki.jp/sakuga/pages/59.html
 …2000年に劇場作品『人狼』『BLOOD THE LAST VAMPIRE』で原画を担当し、OVAのシリーズ『フリクリ』にも原画で参加されています。

以上に見てきましたように、作品のスタッフ・クレジットで確認する限りにおいて、『山田くん』の原画以上を担当したアニメーターの3/5が次の『千と千尋の神隠し』に継続して参加しています。そして、ネット上の情報で見たものですが、『千と千尋の神隠し』に参加しなかった人々も別のジブリ作品に参加したり、他社の作品に加わったりしてアニメーターとして仕事を続けています。
さらに、『山田くん』の14年後の2013年に公開された、高畑監督最後の作品となった『かぐや姫の物語』の作画監督と原画スタッフは、以下の通りです。

かぐや姫の物語作画監督と原画(クレジットでは「作画」と表記)スタッフ
作画監督小西賢一
作画:橋本晋治 濱田高行 安藤雅司 山口明子 廣田俊輔 秦綾子 西垣庄子 西田達三 佐々木美和 河口俊夫 古屋勝悟 田村篤 井上鋭 上石恵美 大杉宜弘 石井邦幸 尾崎和孝 川名久美子 鎌田晋平、赤堀重雄 君島繁 神保洋介 佐藤雅子 神谷友美  塚本知代美 川口隆 袖山麻美 八木郁乃 斉藤拓也 林佳織 谷友子 松村優香 小松田大全 五反孝幸 森田宏幸 賀川愛 浜洲英喜 大塚伸治

このように、『山田くん』に参加した25人中、小西賢一氏・橋本晋治氏・安藤雅司氏・山口明子氏・古屋勝悟氏・森田宏幸氏・賀川愛氏・浜洲英喜氏・大塚伸治氏の9人が参加されています。ちなみに、同じ2013年に公開され、制作期間も概ね重なっていた宮崎駿監督の『風立ちぬ』の作画監督と原画スタッフは、以下の通りです。

風立ちぬ作画監督と原画スタッフ
作画監督高坂希太郎 
原画:稲村武志 山下明彦 賀川愛 田中敦子 山田憲一 山森英司 小野田和由 米林宏昌 横田匡史 二木真希子 芳尾英明 古屋勝悟 田村篤 古俣太一 今井史枝 廣田俊輔 三浦智子 奥田明世 近藤勝也 大塚伸治 友永和秀 押山清高 板津匡覧 浜洲英喜 杉野左秩子 粟田務 山川浩臣 大平晋也 青山浩行 大谷敦子 箕輪博子 鈴木美千代 遠藤正明 星野円哉 本田雄

こちらでは、『山田くん』に参加した25人中、稲村武志氏・賀川愛氏・山田憲一氏・山森英司氏・二木真希子氏・芳尾英明氏・古屋勝悟氏・近藤勝也氏・大塚伸治氏・浜洲英喜氏・杉野左秩子氏・大平晋也氏・大谷敦子氏の13人が参加されています。『かぐや姫の物語』『風立ちぬ』の両方に参加されている人が4人いらっしゃいますが、『山田くん』に参加された原画以上のアニメーター25人中18人が、ジブリの大作2作品で腕を振るったということになります。
なお、『千と千尋の神隠し』から『風立ちぬ』までの期間の宮崎駿監督による長編作品は『ハウルの動く城』(2004年公開)と『崖の上のポニョ』(2008年公開)ですが、その作画監督(および作画監督補)と原画スタッフは、以下の通りです。

ハウルの動く城
作画監督山下明彦 稲村武志 高坂希太郎
原画 :田中敦子 賀川愛 山田憲一 芳尾英明 山森英司 小野田和由 鈴木麻紀子 松尾真理子 田村篤 米林宏昌 奥村正志 横田匡史 松瀬勝 二木真希子 篠原征子 近藤勝也 杉野左秩子 山川浩臣 栗田務 武内宣之 君島繁 桝田浩史 大杉宣弘 橋本敬史 増田敏彦 八崎健二 田中雄一 浜洲英喜 大平晋也 小西賢一 重田敦 山田勝哉 大塚伸治

崖の上のポニョ
作画監督近藤勝也 
作画監督補:高坂希太郎 賀川愛 稲村武志 山下明彦
原画:田中敦子 山田憲一 芳尾秀明 山森英司 小野田和由 松尾真理子 古屋勝悟 鈴木麻紀子 田村篤 米林宏昌 横田匡史 佐藤雅子 今野史枝 廣田俊輔 二木真希子 大塚伸治 濱洲英喜 小西賢一 栗田務 杉野左秩子 箕輪博子 武内宣之 山川浩臣 末吉裕一郎 橋本敬史 本田雄

このように、『ハウルの動く城』には『山田くん』に参加した25人中、稲村武志氏・賀川愛氏・山田憲一氏・芳尾英明氏・山森英司氏・松尾真理子氏・松瀬勝氏・二木真希子氏・近藤勝也氏・杉野左秩子氏・浜洲英喜氏・大平晋也氏・小西賢一氏・大塚伸治氏の14人が、『崖の上のポニョ』には近藤勝也氏・賀川愛氏・稲村武志氏・山田憲一氏・芳尾秀明氏・山森英司氏・松尾真理子氏・古屋勝悟氏・二木真希子氏・大塚伸治氏・濱洲英喜氏・小西賢一氏・杉野左秩子氏の13人が参加されています。
さて、以上のジブリ作品における作画スタッフの変遷を見る限り、『山田くん』に参加した原画以上のアニメーターの方々は、『山田くん』の後もジブリ作品に参加し続けている人が多く、ジブリから離れた人もアニメーターとしてあるいは監督として活躍を続けており、『山田くん』の仕事が終わった後にアニメ業界から完全にリタイアした人は1人もいなかった、ということはほぼ確かでしょう。
ここで、冒頭の鈴木敏夫氏のインタビューを読み返してみてください。
これらの鈴木氏の発言は、適切なものといえるでしょうか?鈴木氏のおっしゃる「未来を嘱望された人間を次から次へと潰してしまった」とは具体的に誰なのでしょうか?とか、宮崎駿監督は「高畑さんのスタッフで生き残ったのは、おれひとりだ」とおっしゃっているそうですが「高畑さんのスタッフ」であったアニメーター達をご自分の監督作品で使い続けておられたのでは?などと疑問が湧いてこざるを得ないところです。
『山田くん』という作品が、それまでとは大きく異なる作り方を要求し、莫大な労力を必要とするものであったため、参加したアニメーターの方々が困惑し疲弊してボロボロになった、ということなら理解できますし、完成した作品を観れば素人目にもそうだったのだろうなと想像できます。
しかし、「スタッフは次々に倒れ、消えていきました」「未来を嘱望された人間を次から次へと潰してしまった」という言い方をすれば、「高畑さんのスタッフ」であったアニメーターは「ジブリを辞めた」「アニメーターを続けられなくなった」と解釈するのが普通でしょうし、実際そのように思っている人が多いように思われますが、ここまで見てきましたように、それは明らかに事実に反しています。控え目に言って、誤解を生む言い方であったと言わざるを得ないでしょう。
なお、「高畑さんの下で仕事をすれば勉強になるとか、そんな生やさしいことじゃないんです。酷使され、消耗し、自分が壊れるのを覚悟しなきゃいけない。」という部分につきましては、「なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #1のブコメでも指摘されていますが、西村義明氏(ジブリでは『かぐや姫の物語』のプロデューサー)による伝聞であるものの、鈴木氏が以下のような発言をしていたという話もあります。なお、これは西村義明氏(株式会社スタジオポノック 代表取締役/プロデューサー)、庵野秀明氏(株式会社カラー 代表取締役社長)、川上量生氏(株式会社ドワンゴ 代表取締役会長)の3氏による2017年に行われた鼎談の一部です。

 https://logmi.jp/217381
 庵野 そんなん、どうやってアニメーターに強要できるんだろうっていう難しいアングルをやるじゃないですか。宮崎さん、そんな時はもうパッとカメラ上に上げちゃいます。 宮崎さんのいいところは、自分が描けないレイアウトはやんないんですよ。「あー、面倒くさい」って思ったら、たぶん面倒くさくないカットに変えちゃいますよね。 高畑さんは自分で描かないんで、それを絵描きに強要してますよね。あれが高畑さんのすごいところですけど。
西村 うーん、まあ、強要しますよね。
川上 自分がやらないと強要できる(笑)。
庵野 宮崎さんの場合、「じゃあ、俺が描く」になるし、アニメーターも「じゃあ、宮崎さん描いてくださいよ」になる。
西村 あの2人の差は、すごくおもしろいですよね。
庵野 おもしろいです。
西村 鈴木さんが一時期言ったのが、「宮崎さんは自分で描くから、自分が描ける範囲のことでやっちゃうけど、高畑さんは自分が描かないから、みんなに要求しだす」と。
庵野 ええ。
西村 「そうすると、高畑さんの現場は人がグワーッと育つんだ」と、みんなもう上限上げなきゃいけないんで。「その2人の差があるんだよなあ」って言ってて。

文春ジブリ文庫での発言とはほとんど正反対にも感じられる発言ですが、スタッフの変遷で見る限り、むしろこちらの方が実態に近いのではないかとも思われます。

民主政治と世論の役割

 こちらの記事に、以下のようなブックマークをしました。

「日本は選挙でしか決まらない。」←これはさすがに滅茶苦茶でしょう。間接民主制の採用とは、それしか認めないということではありません。高校の現代社会や政治経済の教科書を、読み直されてはいかがでしょうか。

 すると、記事の著者から以下のようなidコールを頂きました。

本質的には日本の政治は選挙でしか決まりません。他に何か方法があるのでしょうか?何をするにも選挙を経由します。そちらこそ高校の政治経済の教科書を読み直したほうがいいのでは??

 ということですので、以下に『高等学校 政治・経済』(第一学習社 平成28年)より引用します。

(78ページの本文から)
 現代の民主主義国家において、国民の意思は選挙のほかにも、請願、陳情、デモなどの大衆行動によって表明されるが、世論もまた選挙制度を補完するものとして、政治を動かす原動力となる。
 世論とは、公共の問題に対して人々がもつ意見のことである。現代の社会では、世論は政権に対して影響力をもち、時には政策を左右したり、政権交代をもたらしたりすることがある。そのため、人々はさまざまな意見を参考にしながら、自分たちの判断力で世論を形成する責任がある。

 このように、選挙以外でも政治を動かす力が形成されることがあり得るということについて、教科書で述べられております。納得して頂けましたでしょうか?

安倍政権が、従軍慰安婦の少女像の撤去を求めている件について

 今日の午後6時過ぎからNHKで放送された「これでわかった!世界のいま」という子供向けのニュース解説番組で、明日の日韓外相会談の議題となる慰安婦問題について解説していたのを観たのですが、ちょっと絶句する程のひどい内容で、特に番組で登場したNHKの記者2人が安倍政権の代弁者となっていたことには呆れ果てる他ありませんでした。その番組については、例えば以下のツイッターでも取り上げられています。
https://t.co/2Fz4MeAjdR  https://t.co/faPFwDXUoO  https://t.co/oETSV4spXY
 報道によれば、日本政府は韓国の日本大使館前の少女像の撤去を求めているそうなのですが、この恥知らずな要求を聞いて、数年前にNHKのBS放送で放送されたあるドキュメンタリーを思い出さずにはいられませんでした。以下は、当時の番組HPの解説文です。

 勇気ある証言者 〜ボスニア〜 

 現代の戦争は、その姿を大きく変えた。国家間の軍隊による戦闘だけでなく、武装グループ、軍閥民兵、ギャングなどが当事者となり、一般の市民が巻き込まれる例も急増している。こうした戦争では、女性がターゲットとなることが少なくない。暴行、略奪、人質、レイプ、子どもの殺害などの被害者となり、肉体的にも精神的にも大きな傷を負ってしまう。しかし一方で、平和と正義を実現するために、女性たちが立ち上がり大きな役割を果たすようにもなっている。

ユーゴスラビア紛争で起きた民族浄化の過程で、多くの女性が組織的にレイプされた。敵対する民族を辱め、その誇りを奪うためだ。ハーグの国際司法裁判所では、旧ユーゴの戦犯が多く訴追されているが、集団レイプについても裁かれた。裁判の中で、ボスニアの女性16人が法廷に立ち、勇気ある証言を行って戦犯を有罪に追い込んだ。
番組では、2人の証言者に焦点を当て、どんな残虐行為が行われたのか、またどのように女性たちが困難を乗り越え、なぜ証言台に立とうと決意したのかを明らかにする。
• 原題:Women, War and Peace I Came to Testify
• 制作:Thirteen / Fork Films (WNET) (アメリカ 2011年)

 このドキュメンタリーの終わり近くで、戦犯裁判で証言した女性たちが被害を記した銘板を掲げるため、集団レイプが起きたフォチャという町に帰るのですが、そこにセルビア人市民たちが押し寄せるという場面があります。
それは、以下のようなものでした。

 ニュース番組のナレーション
「「ダメだ やめろ!」セルビア人市民が抗議します。内戦時のレイプ被害を訴え、銘板を掲げに来た女性たちには、手荒い歓迎となりました」

ニュース映像をパソコンで見る証人
「たった12人の私たちに対し、あまりにも多くの警官がいたことに驚きました。警官隊に道を阻まれ、私たちはそこから先に進むことができませんでした。大勢の人が集まってきていて、危険な状態でした。
  (映像では、セルビア人市民の先頭に立つ女性たちが、親指・人差し指・中指を立てた手をさかんに振っている様子が映されます。なお、ドキュメンタリーの前半では、ボスニア紛争の際にセルビア民兵が同じことをしている様子が映し出されていました。)
 三本指を立てているのは、セルビア人のサインです。女性はこう叫んでいます。「帰れ。もう過ぎたことだ。ここから出ていけ。」
 男性からは、こんなことも言われました。「帰ってくるくらいだから、よほどいい思いをしたんだろう。フォチャでは、お前たちが訴えているようなことは、一切なかった。」
 予定の場所にたどり着けなかったので、その場に銘板を置いて引き返すしかありませんでした。」

ニュース番組のナレーション
「女性たちは罵られ、卵や石を投げつけられました。」

 ニュース映像をパソコンで見る証人
「若い世代のために、銘板を掲げるべきです。当時を知らない子供たちにも、何があったのかわかるように。フォチャだけではなく、ボスニア各地で起きたことをみんなが知るべきです。各地の収容所、監禁場所、すべてに銘板を掲げ、そこで起きた恐ろしいことを歴史に刻むべきなんです。」

戦犯法廷で検事をつとめたヒルデガルト・エルツ=レツラフ
「人々が自分たちの行為を冷静に見つめ、その残虐さを自認できるようになるまで、長い時間がかかるでしょう。私の祖国ドイツを見ても、国民全員がそのような記憶を共有するまでには、何十年という歳月が必要です。あの法廷での判決がきっかけとなって、国民の大多数が過去の出来事を受け入れられるよう、そんな未来が来ることを願います。」

 少女像の撤去を要求する安倍政権や、「これでわかった!世界のいま」に出演していた人々は、レイプ被害者を罵り卵や石を投げつけたセルビア人と同様のことをしているように思われます。このようなことが続く限り、少女像は撤去されるべきではないでしょう。そしてさらに言えば、この歴史的事実を忘れぬために、日本人自身が従軍慰安婦の歴史資料館のような施設を作るべきだと思います。

国会議員でもある国務大臣が議員選挙で落選した場合には大臣職を去るべき、という主張に対して感じる疑問



 こちら(http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110608/p2)にブックマークさせて頂きましたが、100字では疑問の内容について論じることができなかったので、エントリをたてることにします。なお、私のブックマークについては、こちら(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20110609/5432109876 )でbogus-simotukare氏が言及して下さっています。
 さて、gryphon氏は、昨年の参院選挙で落選した千葉景子氏に対して法務大臣を辞任すべきという批判が起こったことに言及して、以下のように述べておられます。

んで、千葉話っすけど。要は「議員選挙に落選した千葉氏は大臣職も辞せよ」というのは「選挙によって千葉氏は、選挙民から(今回は)政治に携わる力量が無いと見なされた・・・【と推論される】”。だから大臣職も去れ」、とゆう話です。

 この箇所に疑問を感じたので、私は「いささか無理のありすぎな「べき論」だと思います」とブックマークで述べさせて頂いたのですが、その疑問点について、以下に説明します。
                  
 まず第1の疑問点は、議員選挙に落選した国務大臣は大臣職を辞するべきだ、という主張を認めた場合、国務大臣の間に大きな不均衡が生じることになりますが、それで良いのですか?ということです。
国務大臣過半数は国会議員から選ばれますが、議員選挙の結果によって国務大臣としての資質が国民の審判にさらされるとすれば、その審判を受けるのは国会議員でもある国務大臣のみということになってしまいます。すると、国会議員でもある国務大臣の立場からすれば、なぜ自分たちだけが国民の審判にさらされて、国会議員でない国務大臣は国民の審判を受けることがないのか?ということになるでしょうし、国民の立場からすれば、国会議員でもある国務大臣に対しては国民が審判できるのに、なぜ国会議員でない国務大臣に対してはそれができないのか?ということになるでしょう。

 次に第2の疑問点は、「選挙に落選したことによって、落選した国務大臣は政治に携わる力量がないとみなされたと推論する」という考え方を認めた場合、同時に「選挙に当選したことによって、当選した国務大臣は政治に携わる力量があるとみなされたと推論する」という考え方も認めなければならなくなりますが、それで良いのですか?ということです。
例えば、大臣としての職務上で何らかの問題を起こし、批判されている国務大臣がいたとします。そして、批判されている最中に議員選挙が行われ、その大臣が当選した場合、もしもその大臣が「私は議員選挙に当選したのだから、国務大臣として私がやってきたことは国民の支持を受けていることになる」と言いだしたとしたら、これを正当な主張であると認めなければならなくなってしまうでしょう。それは、かなり理不尽な話だと思います。

 最後に第3の疑問点として、選挙に落選したことによって落選した国務大臣は政治に携わる力量がないとみなされたと推論することは、そもそも正しいのだろうか?ということを指摘したいと思います。私は、そのような推論はある程度は成り立つだろうとは思いますが、その一方で選挙民の意思を歪めてしまうおそれがあり、また能力の高い国務大臣が罷免される一方で、能力の低い国務大臣が罷免されないおそれもあるのではないか、と思います。
まず、なぜ選挙民の意思を歪めてしまうおそれがあるのかと言いますと、議員選挙とはある選挙区に立候補した候補者のうちから最も議員にふさわしいと思われる人物を選挙民が選ぶことであり、不適格と思われる候補者を選ぶことではないからです。勿論、当選した候補者に投票した選挙民は、落選した候補者に対して国会議員になってほしくないと思いながら投票した可能性は大いにあるでしょう。しかし、落選した候補者も国会議員としては悪くはないけれど、当選した候補者の方がより国会議員としてふさわしいと考えて投票した選挙民もいた、という可能性もまたあるわけです。それなのに、落選したことで「選挙民から(今回は)政治に携わる力量が無いと見なされた」と判断することは、「落選した候補者も国会議員としては悪くはないけれど、当選した候補者の方がより国会議員としてふさわしいと考えて投票した」選挙民の意思を歪めることになるのではないでしょうか?
これは、議員選挙とは選挙民が候補者に対して相対的な評価を行って高い評価を得た1人または数人が当選するという制度であるのに、その相対的な評価の結果をもって、政治に携わる力量があるか否かの絶対的な評価を行おうとするために起こる矛盾だと思います。
 そして、このような矛盾によって、能力の高い国務大臣が罷免される一方で、能力の低い国務大臣が罷免されない、ということも起こり得るのではないでしょうか。
ここで、少し仮定の話をします。例えば、A大臣とB大臣という2人の大臣がおり、それぞれα選挙区とβ選挙区から選出された国会議員でもある、とします。そして、非常に単純化した仮定ですが、A大臣の政治家としての能力は5段階評価で「4」であり、B大臣の政治家としての能力は5段階評価で「3」であるとします。この場合、A大臣とB大臣のどちらかが辞めなければならないとしたら、B大臣が辞めるべきということになるでしょう。
ところが、α選挙区の選挙においてA大臣以外の候補者の中に「5」の能力をもった候補者が出馬し、選挙民が正確に候補者の能力を判断して投票したらどうなるでしょうか?当然、「4」の能力を持ったA大臣は落選するでしょう。一方、β選挙区の選挙においてはB大臣以外の候補者のレベルが低く、「2」の能力を持った候補者しかいなかったとしたらどうでしょう?当然、B大臣は当選することでしょう。すると、選挙に落選したことによって落選した国務大臣は政治に携わる力量がないとみなされたと推論するという考え方に立てば、「4」の能力を持ったA大臣が辞めるべきであり、「3」の能力しか持たないB大臣は辞めるべきではない、ということになるわけです。これは、ずいぶんと不合理な話ではないでしょうか?

 以上のような点から、国会議員でもある国務大臣が議員選挙で落選した場合には大臣職を去るべき、という主張に対しては、これを正当な主張と認めた場合に生じるだろう矛盾や不合理さなどから、認められるべきではないのではないか、と私は考えます。

君が代や日の丸の強制に関連して思い出すファンタジー小説というと

 個人的には、この作品でしょうか。
 

 TVアニメ版では、事実上の最終回である39話で描かれましたが、ヒロインであり、慶国(異世界の国の1つ)の王となった陽子が、伏礼を廃するという勅令を出すときの台詞は、非常に印象的です(以下の引用は、原作の365〜367ページから)。

「他者に頭を下げさせて、それで己の地位を確認しなければ安心できない者のことなど、私は知らない。
そんな者の矜持など知ったことではない。それよりも、人に頭を下げるたび、壊れていくもののほうが問題だと、私は思う。」

「人はね(中略)真実、相手に感謝し、心から尊敬の念を感じたときには、しぜんに頭が下がるものだ。
礼とは心の中にあるものを表すためのもので、形によって心を量るものではないだろう。
礼の名のもとに他者に礼拝を押しつけることは、他者を頭の上に足をのせて、地になすりつける行為のように感じる」

「無礼を推奨しようというわけではない。他者に対しては、礼をもって接する。そんなものは当たり前のことだし、するもしないも本人の品性の問題で、それ以上のことではないだろうと言っているんだ」

「私は、慶の民の誰もに王になってもらいたい。
 (中略)
人は誰の奴隷でもない。そんなことのために生まれるのじゃない。
他者に虐げられても屈することない心、災厄に襲われても挫けることのない心、不正があれば正すことを恐れず、豺虎(けだもの)に媚びず。
私は慶の民に、そんな不羈(ふき)の民になって欲しい。己という領土を治める唯一無二の君主に。
そのためにまず、他者の前で毅然と首(こうべ)を上げることから始めて欲しい」

君が代起立斉唱条例

君が代起立斉唱条例>大阪府議会で成立…全国初 http://news.biglobe.ne.jp/domestic/0603/mai_110603_6952572169.html

 大阪府内の公立学校教職員に君が代の起立斉唱を義務付ける全国初の条例が3日、府議会本会議で成立した。橋下徹知事が率いる首長政党「大阪維新の会府議団が提出。公明、自民、民主、共産は反対したが、過半数を占める維新や、みんなの党などによる賛成多数で可決された。橋下知事は、不起立を繰り返す教職員の懲戒免職を盛り込んだ処分基準を定める条例案を9月府議会に提出する方針を示している。

 条例は「我が国の郷土を愛する意識の高揚」「服務規律の厳格化」などを目的に掲げ、府立と政令市を含む市町村立の小中高校、特別支援学校の教職員を対象としている。「学校の行事において行われる国歌の斉唱にあっては起立により斉唱を行うものとする」と明記し、府施設での国旗の常時掲揚も義務付けた。罰則規定はない。

 討論で、維新は「模範となるべき教職員が繰り返し職務命令違反する行為が子供に与える影響は計り知れない」と必要性を強調。これに対し、公明は「条例よりも職務命令など管理監督を徹底すればすむ」、自民、民主も「条例化の必要はない」などと反論した。自民が提出した国旗の常時掲揚だけを義務付ける条例案は否決された。

 「君が代」は、国民主権の日本国の国歌としてふさわしいとはいえないのではないかなあ、と思っている私のような人間としては、これこそまさに「君が代」という歌にふさわしい歌わされ方なのだろう、と思うばかりです。「君が代」には、「義務」や「強制」がよく似合っているのでしょう。
 なお、橋下知事のテーマソングとしては、大槻ケンヂ氏の『踊る赤ちゃん人間』が良いのではないかなあ、とふと思ったりしたり。
 

魔法少女まどか☆マギカ 第7話

 前の連休中に、たまっていた録画を一気見しました。製作者の思惑に乗せられてるな〜、と思いつつも、次回が気になって仕方がない作品ではあります。
 第5話から、主人公のまどかの親友さやかを中心とした展開となっていますが、既に指摘されているように、これがアンデルセンの『人魚姫』の物語のパターンを踏んでおり、いやがうえにも悲劇性を盛り上げています。
 『人魚姫』では、命を救った王子様に恋をした人魚姫は、魔法によって人間の足を手に入れましたが、その代償として声を失い、王子様に自分の思いを伝えることができませんでした。一方『まどか☆マギカ』では、さやかは奇跡の力によって幼馴染の怪我を癒しますが、奇跡の代償として魔法少女という名の「ゾンビ」となり、幼馴染に自分の恋心を伝えることができなくなったのでした。そしてさらに、『人魚姫』では王子様は隣国のお姫様と結婚することになりますが、『まどか☆マギカ』でもさやかの幼馴染にさやかの親友の仁美が告白するという展開になっています。『人魚姫』では、人魚姫の恋は実りませんでしたが、人魚姫は神による「永遠の命」という救済を与えられます。しかし、『まどか☆マギカ』の世界には、どう考えてもキリスト教的な救済はありそうにないですね。
 第7話のラストで、「その気になれば、痛みなんて完全に消し去れるんだ」と言いながら、血みどろの戦いを繰り広げるさやか。ここでは影絵のようなシルエットで戦いが描かれますが、これはさやかが暗黒面に堕ちたということとともに、さやかの体に影をかぶせてその身体性を薄れさせ、黒いシルエットに流れる赤い血が、身体の痛みは感じないけれど心は血の涙を流している、ということを象徴しているのだろうな、と思いました。
 なお、戦いの前にさやかが「こんな身体で抱きしめてなんて言えない、キスしてなんて言えないよ」という実に乙女的というか、純粋で清潔なものを至上とする感じ方のあらわれた台詞を言うのですが、この台詞は彼女が「ゾンビ」になってしまった自分の身体に価値を見いだせなくなったことも示しており、それがあえて身体を傷つけ血みどろの戦いをするという後の行動につながるというのは、実に皮肉な展開です。こういうパターンがしばしば登場することが、この作品の「ジェットコースター的」と評される印象を生みだしているのでしょう。

 ところで、『まどか☆マギカ』関連の商品の1つにこんなものがあるのですが、第7話の時点では、ブラックジョークとしか思えないですね。
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