カリフォルニア・ドールズ

窮地に追い込まれても立ち上がる人々、屈辱にまみれても誇りを失わない人々は逞しく、美しい。
そういった人々の姿をロバート・アルドリッチは何度となく描いてきたが、そのフィルモグラフィの中でも『カリフォルニア・ドールズ』の女性たちはひときわ輝いて見える。

アルドリッチの映画では、人間の逞しさも弱さも、美しさも醜さも、顔に、とりわけクローズアップに、しっかり刻まれている。

ロンゲスト・ヤード』でプレーする囚人たちの喜びと誇りに満ちた笑顔。
北国の帝王』で雌雄を決する車掌とホーボーの命懸けの顔。
飛べ!フェニックス』で遭難した砂漠の地でフェニックス号の回転するプロペラを希望と祈りを込めて見上げる砂まみれ髭だらけの顔。
合衆国最後の日』の登場シーンでは髭剃り中のクリームを塗りたくった何とも頼りなさそうな合衆国大統領ですら、脱獄兵の立てこもる基地に自ら乗り込んで直接交渉すると決意したときの死をも覚悟した脂ぎった顔がクローズアップされるとき、苦境に立たされた人間から湧き出す途方もない力強さが画面からあふれ出している。

顔、顔、顔。
アルドリッチが何度も起用したリー・マーヴィンアーネスト・ボーグナインバート・ランカスターらの顔面力のすさまじさったら、ない。

しかし、『カリフォルニア・ドールズ』の女性レスラーたちは、顔だけでなく鍛えられた体全体から、逞しさ、美しさを放っている。

ピーター・フォーク演じるマネージャーのハリーと共にドサ回りをする、ドールズことアイリスとモリー
地方を巡業するハリーとドールズを乗せたボロボロの黄色いキャデラックはもうもうと煙を吐きながら、北米大陸を東から西に向かう。3人は残りのドル紙幣を数えながら、巡業先のケチなモーテルに泊まり、場末のハンバーガーショップでジャンクフードを頬張る。
街から街へ渡り歩く道化師パリアッチのオペラをBGMに走るキャデラックをとらえたロングショットに、ハリーの格言や生い立ちなど(ハリーの父親は移民で当初は英語をしゃべることすらままならなかった)、3人の友情とも愛情ともつかない親しみに満ちた会話が被せられ、車の窓からは工場の煙、製錬所の赤く燃える炎が見える。3人の会話を聞き、車窓の工業地帯の風景を見ていると、彼女らが誰と連帯しているのかよくわかる。

そんなドールズも、ひとたびコスチュームに身を包みリングに立つと、宙を飛び、マットに打ちつけられ、傷だらけになりながらも何度も立ち上がる。観客らのドールズ・コール("We Want the DOLLS!")を、あるいは敵地ではブーイングを浴び、身体を躍動させる彼女たちは、ふだんのギリギリの生活との対照もあって、誇りを持って戦う者だけが身にまとうことのできる輝きを湛えている。
そして、リングでの戦いが終われば、相手チームとも互いに労い、称えあう。興行師にギャラをピンはねされ、過酷な環境で戦い続けるのはドールズだけでない、一握りのスターを除く殆どの女性レスラーが同じ境遇に置かれているのだ。

やがて次第に力をつけたドールズは、大舞台で最強の敵「トレドの虎」にリベンジするチャンスを手に入れる。
ハリーが度々口にする「正式はとかく物入り」との格言にしたがって節約を重ねてきた3人だが、クリスマスの決戦の舞台リノでは、ハリーがギャンブルでこさえた金で一流ホテルに宿泊し、会場では観客の子どもたちに1人40ドルをつかませてドールズの応援歌を歌わせ(本当に力を持っているのは一握りの権力者(興行師やレフェリー)ではなく名も無い人々であることを、ハリーはよく知っている)、まばゆい銀色の衣装に身を包んだドールズはチャンピオンをも唖然とさせるゴージャスなショーアップでリングに登場し、そこから映画史上でも類を見ないほどの祝祭的な時間が訪れる・・・。


(今までわりとたくさん映画を見てきたけど、このドールズの登場シーンほどスクリーンが眩しいと思ったことはなかった)

ギャラのために望まずして裸になり泥レス試合を余儀なくされ観客に笑われた後、モーテルに戻って流した屈辱の涙。
初戦では勝ったものの、二戦目では奮闘虚しく「トレドの虎」に完敗したときの、リング上で溢れてきた悔し涙。
しかし、ドールズが流した幾つもの涙がとうとう勝者の涙にかわるとき、"California, Here I Come"の大合唱の中、リング上で勝利の凱歌をあげるドールズとハリーの3人は、それが束の間の勝利であるからこそ、最高に輝いている。

人間や世界の美しさ、過酷さを描いた映画は少ないながら幾つかある。
しかし、それだけでなく人生の教科書たりえる映画はいっそう少ない。
じぶんにとって、『カリフォルニア・ドールズ』はその数少ない人生の教科書のひとつだ。