ひさしぶり

久しぶりにブログに入ったので、試しのような投稿です。

 

2020年の9/24に定年退職し、今日が2022年の8/4。

早いような遅いような、そんな毎日を楽しく過ごしています。

憧れの定年生活は、思った以上に素晴らしいものでした。

ただし1年前からアルバイトで週2~3日働くようになりました。

完全な隠居生活は、2030年の予定です。

 

 

140日後に定年する人

「100日後に死ぬワニ」がちょっとしたブームになりましたが、最後の最後で白けさせてしまったせいからか、その後あまり見かけません。
 人間いつの時か、フッと自分は3か月後にこの世にいるだろうか、とか、来年の今頃この世にいるだろうかという妄想に耽ることは、誰にでもあるでしょう。自分は40歳の時にあと人生3か月という実験をしてみましたが、その3か月は非常に素晴らしかったのですが、3か月過ぎれば、当然生きているわけで、その後の生活に意味があったのか無かったのか分からない思いをしたことがあります。いっそのこと位牌まで用意しようかとも思いました。(計画した位牌の年齢は63才の誕生日で、今からだと3年と140日後になります。)
 しかし、そのようなバーチャルというか、エアーというか、妄想というものもたまには必要ではないかと思います。いったん今の生活から少し離れてみて、このままでいいのだろうかと考えることは、人生にとって無駄ではないでしょう。

 今テレビで「レンタルなんもしない人」というのをやっています。実話のドラマ化のようで、「レンタルなんもしない人」というのは、
「『レンタルなんもしない人』というサービスを始めます。1人で入りにくい店、ゲームの人数あわせ、花見の場所とりなど、ただ1人分の人間の存在だけが必要なシーンでご利用ください。国分寺駅からの交通費と飲食代だけ(かかれば)もらいます。ごく簡単なうけこたえ以外なんもできかねます」(原文ママ、レンタルさんのツイートより引用)
だそうです。
 今、これから自分は死ぬまでにどうしたいのかを考えて、そのように生ききる人生が、なかなかできにくくなっているような気もします。定年というのは、そんなことを実現させてもらえそうな夢のような制度です。制約はありますが、好きなように生きるという本来の在り方は定年後しかできません。ただなんもしない生き方も一つだと思います。また、社会的に仕事から引っ込むということは、社会に不平不満をいう資格はないように思います。社会とのつながりを最小限にしたときに心がどのような状態になるのか。この実験は、楽しみで仕方がありません。

いろいろな人がいる

  今、フェイスブックの意見を見ていると、本当にいろいろな人がいると知らされます。自分勝手な意見を言っている人も、気には障りますが、一応見ています。あまりに価値のない、障りだけの多いものは、30日間表示を止めるようなことはしていますが、切ることはしていません。なぜなら、いろいろな人がいることを知らせてくれる存在だからです。

 自分は大学を卒業して、会社の研究室に11年間勤めていました。その時は周りの環境は普通だと思っていたのです。11年後に退社して営業職に転職したときに、気づいたことは、「いろいろな人がいる」でした。カルチャーショックでした。もし、あのまま研究室に残っていたら、そんなことさえ全く分からなかったかもしれません。

 ですから、政治でも「いろいろな人がいる」を知らずに政策を決めているかもしれませんし、多分政策決定している人たちは、「いろいろな人がいる」が分からないと思います。なぜなら、似たような境遇の中で、小さい時からそこを出ることなしに年を取ってしまったからです。これは、各人のせいではありません。そういう縁だったということです。

 もし、自分も研究室で一生働いていたら、かなり傲慢になっていたことでしょう。今でさえそうなのですから。そして、当然のようにやってくる苦しい環境を受け入れるということが出来ずに、苦しんで一生を過ごすことになっていたかも知れません。

 すべてを受け入れることが出来る人は、雲のずっと上の余裕のある人か、一番のどん底で諦めがついた人くらいで、その間のほとんどの人は、迷い苦しんで生きていくことになるのでしょう。そのときに「いろいろな人がいる」と体解していれば、こころを騒がせる必要もありません。生活の知恵ですが、そう考えてこころ穏やかに日々を暮らしたいものです。

パソコン備忘録

パソコンが壊れてしまいました。まだ購入して3年くらいなのにこれで3度目です。ネットで調べてみるとDellのパソコンは壊れやすいとか書いてありました。
最近は、フェイスブックの記事がどうも情報としてあまり価値を見いだせていなかったので、少しブログの方に力を入れようと思っていた矢先の災難です。
修理しようか、買い替えようか迷っています。
携帯も会社で借りているのが9月の定年で無くなってしまうので、それも買わないといけないし、どのように計画すれば良いのか思案中です。
とにかく、節約してパソコン代を貯めないといけません。今日からです。

浄土真宗の未来

 今、コロナ禍の中、世界はAC(AfterCorona)はどうなるかで、各国主導権争いをしているようです。ちなみにコロナ以前はBC(BeforeCorona)になり、奇しくも紀元前B.C.(before Christ)と同じ略号になります。2020年は大きく変わる節目になることは間違いないと思います。
 宗教的に見ても、キリスト教は世界に与える影響が大きく、アメリカ合衆国を中心とするキリスト教的な考え方は少なからず働いてくるでしょう。それに比べると仏教は全くもって蚊帳の外です。
 よくよく考えて見ると、キリスト教イスラム教、仏教と世界三大宗教に名を連ねています(これにユダヤ教ヒンドゥー教を加えると五大宗教)が、どう見ても世界情勢が動くようなときに仏教の影は薄いです。

 仏教で辛うじて世界に通用しているのは禅であり、真宗の念仏ではありません。浄土真宗には、もともと、この世の世界観でみんなを救おうという考えはないわけで、世界がどうであろうと往生道を歩みましょうという教え故に、世界がどう変わるかに影響を及ぼす力はほとんど無いのです(仏教人口が少ないとも言えますが)。それが、良いとか悪いとかではなく、無力に感じられてしまいます。
 AfterCoronaでは、今布教で言われているような浄土真宗のままでは、布教どころか信徒はますます減っていくことになるでしょう。何故かというと魅力がないからです。今までは魅力が無くても、今までの習慣で持続できていました。真宗のグループが讃美しあい褒めあって、ありがたいみ教えに出遇えた縁に感謝するという図式は、非常に尊いのですが、中にいる人には心地よいのであって、外からは極めて入りにくい世界です。
 今、共産党が超高齢化しているそうです。民青が機能していなくて新しく入ってくる人がいないからです。このまま行くと真宗も超高齢化して、今まで聴聞してきた人だけが分かった気になる、個人の宗教としての役割しか果たせなくなるような気がします。かといって「家の宗教から個の宗教へ」というスローガンがありましたから、悪いことではないと思うのですが、教えの伝道布教ということを考えた時には現状は厳しい状況であると言えるでしょう。
 コロナ禍の自粛で、法話もネット配信が増えたように、AfterCoronaでは、法話のやり方が大きく変わるかもしれません。仏教は将来どうしたいのか、真宗は将来どうしたいのかを考えて、このAfterCoronaの準備をしないと、実社会から取り残されてしまうような気がしています。仏教自体の性質ゆえかも知れませんが、今のように、この世の世界に関係がないような法話ばかりしていると、若い人から愛想をつかされてしまうのではないかと危惧しています。(ここで使った「この世の問題」とは、政治問題ではなく、生活問題のことです)

 

賢人の知恵

経済評論家上念司氏は、「賢人の知恵」ということを言っておりました。
それでネットで「賢人の知恵」で調べましたらいろいろありましたので、分かりやすかったまとめを引用します。

賢人の知恵とは、討論の手法で相手を煙に巻く討論スキルです。

賢人の知恵の基本パターン(立場が上位と思っている人の議論)
 常套句
 ☆「聞いてません」
 ☆「急にいわれても」
 ☆「順序が違う」
 ☆「傷ついた」
 ☆「誠意が見えない」
 ☆「決まったことなので」
 ☆「そんなこともわからないのか」
 相手の言葉を遮ることにより、自分の正当性を訴えます
 質問、反論した人はその後の言葉を見失います

賢人の知恵の発展パターン(同等と思っている人との議論)
 常套句
 ☆「私の立場ではいえません」
 ☆「みんなが納得しない」
 ☆「○○さんが納得しない」
 ☆「まだ早い」
 ☆「何かが違う」 

 相手の言葉を遮ることにより、自分の正当性を訴えます
 質問、反論した人はその後の言葉を見失います

組み合わせることで、相手を恐怖の無限ループにおとしめることができます。

 ということで、
 「賢人の知恵」をうまく使う事が出来るか、使う人に会ったらどうするか、考えておいた方が良いかも知れません。
 最近では「トリニクって何の肉?」というTV番組の中で、問題に答えられなかった人の言い訳が、「賢者の知恵」に近いような気がしました。
 例えば、極端ですが「犬は鳥類」と答えて「犬は哺乳類です」と教えられたときに「聞いてません」とか「急にいわれても」的な言い訳をしています。バラエティーとはいえ恐ろしい時代になったものです。このような答えが出来たら最強の賢者ですね。

 

こころ穏やかに過ごすために

 1995年ころ日本という国に嫌気がさしてカナダに行きたいと思ったことがあります。外国に移民するためには、それなりの技術やお金が必要で、自分のように何の取り柄も無いものは、なかなか難しく、一縷の望みで日本語教師の勉強もしましたが、結局日本に居座っています。教会の牧師になるつもりがあれば、道もあるとのことでしたが、そのころは宗教を毛嫌いしていましたので、全く考えもせずにお断りしました。

 

 今また、日本という国が嫌になってきました。しかし、前と違うのは、もう選択肢がないということです。あのときに諦めました。そしてなんの因果か、浄土真宗の坊さんの資格まで取ってしまいました。こんなことなら牧師になってたら良かったと思わないこともありません。今はただ、何とか心穏やかにこの後の人生が終わってくれたらと、本当に細やかに願うだけです。

  我々が何を言おうと全く関係なく日本は動いていきます。その船に乗ったことを諦めるしかありません。

 日本を脱出できなかった自分は、政策について文句を言う資格はない、不平不満はやめようと誓ったはずなのに、最近はTVに向かって、文句の言いっぱなし。そして、前のように何も変わらないことに気づきました。文句を言ったら家内の肩を100回揉むという罰を設けました。500回は揉んだでしょうか。少しずつ、確実に文句は減っています。

 今の時代に”優しいツッコミ”が受けて流行り出しました。漫才師ぺこぱのように何があってもすべてを受け入れて、「悪くないだろう」と言えるようになりたいと思います。