Hatena::ブログ(Diary)

JJ’s eyes

2018-03-31

[] 熊谷守一

自身の展示が終ったのもつかの間、年度末の慌ただしさに取り紛れるなか、なんとか東京国立近代美術館の『熊谷守一展』を観ることができた。何かの展覧会のなかで一点とか数点を観る機会は以前に何回かあったが、その時の印象というのはたいがいデパートの催事場で販売されているような絵画のもつ庶民的な親しみやすさが勝ってしまう。しかし今回の展覧会は200点を超える史上最大規模の回顧展であり、これだけの数があつまると一点一点の親しみやすさは保持しているものの、日本美術史のなかの最重要画家扱いという感じが出ていて心地よい違和感を覚える(というか東京国立近代美術館の展覧会はいつもこんな感じである)。初期の作品は東京美術学校黒田清輝の指導のもと、暗い色調に描かれている。親友だった青木繁の画風にも多少重なるふしもあるが、東京美術学校の学生の絵画は総じて薄暗いトーンの似たり寄ったりである(現代は中間色のトーンか)。物質的な制限(絵具や油など)からなのか、時代あるいは学校の空気からなのか、本当のところどうなんだろう。熊谷の初期は闇のなかの光というテーマが際立っていて直接的である。初期作品のなかで注目を引いたのは、列車に飛び込んで轢死した女性を描いた《轢死》(1908)。経年による暗色化のため、ほとんど真黒な画面にしか見えないのだが、凝視し続けると横たわっている死体の輪郭が街灯や月光などの逆光によってほのかに浮かび上がっていることが次第にわかってくる。《轢死》のモチーフを後年に再び採り上げた《夜》(1931)の作品になると、いっそう轢死のイメージと死体の輪郭が明確になってくるのだが、その5年後には《轢死》と《夜》の延長線上ともいえる《夜の裸》(1936)が描かれることになる。《夜の裸》は《夜》の荒々しいタッチが赤い輪郭線によって整理され、平面的な抽象性を生み出している。混沌としたイメージのなかから人体や事物をひとつひとつの面に区分けするうちに赤い輪郭線が生まれてきたのである。《夜の裸》は、太い線で縁取られたコントラストのはっきりした配色をもつ晩年の熊谷作品へとシフトする転換点となった興味深い作品である。世界にある事物は光によって分けられている。印象派の画家たちは面と面、タッチとタッチのあいだに光を通過させたが、熊谷単純化した画面のなかで光を輪郭線に置き換えて世界を表現したのである。あふれかえる光の束ではなく、夜の世界から浮かび上がる物の背後からさし照らすわずかな光線。その光は死のイメージを常にもっていた熊谷の一生続いた感覚でもある(《ヤキバのカエリ》(1956)のシンプルな画面に対する、様々な感情や感覚が入り乱れるなんともいえない不可思議な感じ)。それにしても光が赤い線になるとは、本人もどう転ぶかわからなかったに違いない。

http://kumagai2017.exhn.jp/

2018-02-27

[] 二人展のパンフレット

【テキスト1】

 オブジェクトとイメージがそこにある。オブジェクトが先にあるのか、それともイメージが先にあるのか。実体的なものと非実体的なものを分け隔てすることなく全てをひっくるめて視覚そのものだけを経験することから創造行為が始まる。リュミエール兄弟が撮影現場でファインダー越しに覗いた風景とスクリーンに投影された風景は同じ運動イメージであっても同じではない。スクリーンのイメージはオブジェクトそのものが表層的に切り取られた、たんに視覚表象として動いているだけである。リュミエール兄弟は音声トラックのないフィルムであるがゆえに、そのギャップと不可解さを抱えながらオブジェクトとイメージのあいだを行き来していたのかもしれない。ギャップを有することなく、視覚を主体とした身体感覚でのみ、オブジェクトとイメージのあいまいな関係を捉えるとするならば、どのような世界が出現するのだろうか。オブジェクトとイメージはどちらかによって覆われているのか、それとも互いがぶつかりあっているのか。異なる領域の界面にはノイズが発生する。2人の作家によるコラボではあるが、それぞれの作品がオブジェクトとイメージのあいだで解体され、作家の固有性が前面化されるまえに別次元の異質な何者かがノイズをともなって生まれてくるはずだ。そのノイズマテリアルの接触不良によるのか、混沌としたイメージによるのかは全くもってわからない。

【テキスト2】

 キャンヴァスに絵具をのせるときの“ぬめっ”としたなまめかしい感触。近年は軽減されたとはいえ、画面から漂う“むむっ”とする特有の油匂い。制作途中の作品を持ったはずみにキャンヴァスの端に塗ってある絵具が手についてしまったときの“しまった…”という煩わしさ。個人で表現できるメディア環境が豊富になった現在、アナクロメディアである油絵具に手こずりながら扱うときの身体感覚というのがあるのだけれど、世の中のめまぐるしさ(高速化する資本主義)に戸惑うときの身体感覚との落差が最近はエスカレートしているような気がする。一枚のキャンヴァスの前で僕の脳内はイメージだけが壊れた蛇口から出つづける無味無臭の水のようにどこまでも溢れている。もはや自分だけのイメージは持ち得ず、イメージそのものが相対化し、肥大化し、イメージの破壊と再生が延々と繰り返されている。記憶(個人から集合まで)さえあやふやなものとなりつつあるが、油絵具の“ぬめっ”、“むむっ”、“しまった…”という身体感覚が僕と世界の存在的関係をかろうじてつないでいる。メランコリーな世の中、イメージと戯れることにいささかうんざりしているが、この先どうすればいいか思いあぐねているところでもある(イメージの「表象」から「表層」へ意識を移行してみること)。

f:id:jj-three-ten:20180205140318j:image:w290:left

f:id:jj-three-ten:20180205140354j:image:w290:right

2018-02-09

[] 二人展のお知らせ

神津裕幸 × 佐藤譲二 展

無印、あるいはノイズのような』


ろう者の作家2人によるコラボ展示を開催いたします。

ご来場をお待ちしております。(17日18時からささやかなレセプションを行います)


2018/2/12(月・祝)〜 2/24(土)、 2/19(月)休み

11:00〜20:00(最終日は17:00まで)

Art Lab AKIBA アートラボ・アキバ

〒111-0053 東京都台東区浅草橋4-5-2 片桐ビル1F

http://artlab-tokyo.com/

f:id:jj-three-ten:20180130221742j:image:w640

f:id:jj-three-ten:20180130221843j:image:w640

2018-01-31

[] 絵と物、線と棒、円と瓶

府中市美術館の『絵画の現在』展を観る。「現在」という言葉は時制としてのたんなる意味を剥ぎ取った時に絵画にふさわしい言葉なのだろうかと、ふと思いつきながら美術館に入る。エスカレーターを上り、入口近くまで進んでいくと右側と左側にスペースが分かれているのだが、歩調はスローダウンしたものの、立ち止まることなく自然に右のほうに寄っていく。利き手が右である僕の身体に蓄積した惰性的なものからくるのか、それとも右側のスペースにひろがる開放的な作品と空間の関係に目を奪われたからなのか、あるいはその他のことなのかを判断することはおそらく不可能であるのだけれど、諏訪未知の絵画(と少々の物体)から新鮮な感覚を得たことはまぎれもない事実であった。キャンヴァスの画面上では、三回転したスプリングのようでもあり、「W」の文字にみえなくもない記号が限定された配色をもって増殖的に繰り広げられている。直線や斜線の図形に絡まったり、円形の中もしくは半円形の周辺に置かれたり、あるいは一箇所に集められたりしている。幾分かリズミカルな記号はキャンヴァスの表面でうごめいているかと思えば、複数のキャンヴァスのあいだをとび跳ねるようにして自由に横断移動しているようにも見える。スプリングの記号は絵画のなかの表象としてしか現れないが、直線と斜線、円の形は絵画の手前にある物によって対応関係をあらわにしている。つまり、直線と斜線は黒い棒(素材は不明)の形、円は円柱型の瓶の底面から見た形と対応して描かれている。黒い棒を瓶のなかに入れて立たせている姿や何本かの瓶が厚みのある円形の板とそのうえにある瓶を支えている姿には、壁に掛かっているキャンヴァス(の状態)の重力に逆らう不自然さ(引力)とは対照的に床にしっかり接着し垂直に立っていることの力学が示す自然さが際立っている。物体をとりまく自然現象がキャンヴァスのイメージを確かなものにしている、その対応関係はシンプルな気持よさがある。絵画の前に控えめに置かれたそれらのものは作品制作プロセスのなかで、対象としてのオブジェクトと物体としてのオブジェクトが交互に入れ替わるようにして、絵画のイリュージョン性から距離を置くため(イメージの泥沼に陥らないため)の道具となっているのだ。簡略化(抽象化)した記号や図のイメージは日常生活とはかけ離れてはいるが、最終的には現実世界(たんに「現在」ではない、モノとイメージと私たちの根本的な関係)とリンクしている。やはりスプリングの記号もたんに見えないだけで、現実世界にある何か動いているもの(気体的なものなのだろうか?)であるに違いない。

https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/kikakuten/kikakuitiran/kaiganogenzai.html

2017-12-31

[] 『ゴッホ 〜最後の手紙〜』

ゴッホ絵画が動きだし、ゴッホの謎に満ちた死の真相の解明へと物語と画面が相互にうねり続ける、奇妙な感覚を醸し出す映像は最新のCG技術とアナログな油絵手法を組み合わせることで生み出されている。俳優たちが役を演じる実写映画として撮影された後に、その映像が投影されたキャンヴァスに各国から選ばれた画家たちがゴッホ風のタッチで油絵へと置換する。本編の1秒は12枚の油絵を撮影した写真で構成されているとのことであり、このアニメーション映画は気の遠くなるような制作過程や作業量をもって積み重ねられている。ゴッホ風のタッチを習得した職人的画家たち(その人数はなんと125名!)はおそらくシーンもしくはシークエンスごとや登場人物ごとに役割分担されていると思うのだが、場面や人物が入れ替わるたびにゴッホ風のタッチも微妙に異なってくる。その連続体のなかで起こる差異をしばらく目の当たりにしていると、僕の予定調和にあった視覚の感覚に狂いがじわりと生じてくる。感覚が狂うというよりも別の感覚が出現し軋轢を生んでいるような感じなのかもしれない。ゴッホ風タッチという共通コードのもとにある微妙な差異が見る者の平常感覚の損壊を先延ばししている(モノクロの回想シーンの異質さには感覚が一時的にフリーズしてしまう)。イラスト加工のアプリやソフトを使えばタッチを統一できることもありえたかもしれないが、あえて人間の筆致によるタッチを使うことでマチエールの凸凹や行為の固有性からノイズが発生する。ゴッホが生きた時代にさかのぼる人間的ノイズでもある。動く絵画ノイズの蓄積をエスカレートしていくが、それが決壊することもないという宙吊りな感じが最後まで消えることはない。そのノイズに対する不確かな感覚は、ゴッホが遺した手紙をきっかけにゴッホの実像に迫りにいくアルマンがガジェ医師の謎めいたはぐらかしによって最後まで答えを見出すことができなかったことと並行している。アルマンの感情と見る者の感覚が時空間、虚構と現実を超えて一続きしている。1秒24コマが人間の時間的感覚に近いことを前提とすれば、このアニメーション映画はその半分の時間が抜けている。ゴッホ風タッチを施された登場人物はあくまでも現代に生きる役者であって、ゴッホ絵画人物表象とは解離しているが、まるでゴッホ絵画からそのまま出てきたような錯覚の強度を持続している(貸しボート屋の男性は風景のなかに小さく描かれた人物から拡大したほぼ架空の人物である)。時間の欠落やゴッホ風のタッチの塗り重なりは虚構虚構を重ねていく痕跡でもあり、その裂け目や空洞にゴッホの真実(ゴッホの狂気)を抱えたまま、全てが不透明なまま絵画と映像の表層だけが永遠にうねり続ける。

https://www.youtube.com/watch?v=CGzKnyhYDQI