Hatena::ブログ(Diary)

JJ’s eyes

2018-07-31

[] 『グッバイ・ゴダール!

グッバイ・ゴダール!』を観る。どこかの映画館で手に取ったチラシの表紙からくる、妙な感じはあったものの、20代の僕にとって青春だったゴダールフィリップ・ガレルの息子であるルイ・ガレルが演じるという魅惑的な組み合わせに無反応でいられるわけがなく、僕の足は自然と映画館へ向かってしまった。ルイ・ガレルゴダールは憑依というほどではないが、徹底したなりきりぶりには見応えがあったし、幼妻特有の天真爛漫な自然体を美しく体現するスティシー・マーティンの存在感には澄みきった鮮やかさがある。だが、この映画には映画のモチーフと映画の表現の乖離性が目に余り、据わりの悪い気分が終始消えなかったことも正直に言わねばならない。本映画で描かれるのは『中国女』以降、政治に急接近し映画と政治の新しい関係を模索し始める、ゴダール映画にとって大きな転換点になった時期の苦悩するゴダール像である(はずだった)。5月革命のデモに連日参加し、ソルボンヌで学生たちと激しく議論する1968年当時の政治的風景(大勢のエキストラによるデモの騒乱のシーンは迫力あった)のなかのゴダールは、当時の二度目の妻であるアンヌ・ヴィアゼムスキー視線によって表象されることになるのだが、画面に映るのは初期ゴダール映画に現れるポップさ(ゴダール風)を表面的になぞるだけの、時期を確信犯的にズラした軽薄的イメージのみである。ゴダールは初期の頃から政治に対する志向を持っていたが、1968年前後に商業映画から離れ政治的な色合いをさらに強めていく、その過程に出現する政治と映画のあいだを揺れ動く思想的闘争は、ひとりの女性の感情に沿ったプライヴェートな視線だけにとどめるにはあまりにも大きすぎた。そのことに気づいている者ならば、文学的表象ゴダール像を楽しむだけにとどめ、わざわざ映画にしたりすることはないはずだ。映画的思考を純粋な映画運動へと昇華しようとしたゴダールコマーシャリズムな伝記的映画に移植する虚しさだけが画面内で形骸化されざるをえない。あとになって気づいたのだが、この映画を撮ったのは、現代に白黒のサイレント映画を蘇らせ、数々の映画賞を総なめした『アーティスト』(2011年)と同じ監督である。映画史の草創期に創られたサイレント映画の本質から逸脱し、現代に流布するエンターテインメントの外郭にはめ込まれたサイレント映画と『グッバイ・ゴダール』のゴダール像は無害化された同じメーカーの商品に成り下がっている。

http://gaga.ne.jp/goodby-g/

『アーティスト』http://d.hatena.ne.jp/jj-three-ten/20120925/p1

2018-06-30

[] 『それから』

ホン・サンス監督の『それから』を観る。世界中から高い評価を受け、現在はもはや巨匠の域にはいりつつあるホン・サンスの映画は、恥ずかしながら初鑑賞である。初見の作品がモノクロであるのは、今後のホン・サンス体験に何かしらの影響が及ぶことになるかもしれないというのは考えすぎだろうか。モノクロはホン・サンスの新しいミューズであるキム・ミニの存在によって選択された画面の表現であるのかもしれない。タクシーの車窓から雪模様を眺めるキム・ミニの横顔を形づくる白黒のハイライトとシャドゥは本作品のなかで異次元の輝きを放っている。一方序盤のあるシーンでは、ボンワン社長(クォン・ヘヒョ)が妻に浮気を問いつめられた後、家を出てすぐの広場らしきところを歩く現在の時間と愛人(キム・セビョク)とのあいだに恋が芽生えたときの少し前の過去の時間がボンワンの自宅マンションの周辺だけのロケーションで現在と過去が同時進行しているかのように、時制の差異を超えた画面そのものが反復している。ボンワンが家を出るときのまだ外が暗い早朝と飲んだあと自宅まで愛人に送ってもらう真夜中はモノクロ画面のなかではほとんど識別不可能であり、自宅周辺を循環する連続的空間では時間感覚が麻痺してしまう。かろうじてわずかな文脈を頼りにしながら曖昧な画面を追っているいるだけだ。それでも時間は止まることなく画面だけが進行する不気味さはモノクロのフラットな画面によってさらに深化している。ホン・サンスの描く男女の会話は1つの画面内でお互いが食事のものや書籍が無雑作に置かれているテーブルを挟んで向き合った構図でおこなわれている。切り返しショットはほとんどなく、固定された全体画面のあいまに平行移動のパン人物を映しながらそれぞれの言葉を交互に拾っている。パンの運動がこのまま続くかと思うと唐突にどちらかをズームアップする。発言する対象者にパンし、ズームアップするカメラワークはホン・サンス自身の主観的視線として現れるのだが、偶然的な運動のようにもみえるカメラの自由視線そのものはその場の空間や言動行為の自然さ、あるいは無意味さを肯定的に捉えてしまっている。男女の会話や言葉は何の変哲もないささやかな断片的なものでしかない。その場に思いつくまま出てくる頼りないものであるがゆえ、アルム(キム・ミニ)の「この世界を信じる」といった確信に満ちた言葉が出てきたにもかかわらず、ボンワンと愛人は自己保身の為にアルムを利用してしまうあっけらかんさに繋がってしまう。悪者や善人といった区別はなく全ての登場人物が等価に扱われている。等価的な人間関係からくる不可解さやはかなさをひっくるめた瞬間的な積み重ねの全てが淡々と肯定されている感じなのだ。ボンワンがアルムに夏目漱石の「それから」の本を渡すラストシーンの清々しさは、映画のなかで閉じることなく映画の外にある現実にまで染み渡っていく。カラーのホン・サンスもいくつか待機しているので、また映画館に出向かうことにしよう。

http://crest-inter.co.jp/sorekara/

2018-05-31

[] ターナー

損保ジャパン日本興亜美術館の『ターナー/風景の詩』展を観る。印象派以上に印象的な晩年の代表的と言われる類いの作品はほとんど無かったが(おそらく門外不出レベルなのだろう)、それでもチラシで謳っているように100%ターナーの作品がずらっと展示されていたのには十分すぎるくらい贅沢な時間を僕に与えてくれた。約120点ある展示作品群のなかに、メゾティントの『海と空の習作』(1825年頃)と水彩の『波の習作』(1840年頃)の習作が2点だけあったのだが、具象絵画や細密画がほとんどを埋め尽くす会場のなかで、ひと際抽象度の高いものになっていた。空と海を分ける水平線がなく、あいまいな模様だけが描かれている。2つの習作の2、3つ先にある『オステンデ沖の汽船』は煙、波、雲が汽船を中心にして渦を巻くように、形態をあまり区別することなく水彩で荒々しく描かれた抽象的イメージになっている。その作品は1840−41頃となっているので、その辺りから晩年に向けて抽象化が始まったのかもしれない。卓越した描写力によって描かれた具象絵画でもターナーは自然界の事象を肉眼で描いた数多くのスケッチをもとにしながら、アトリエのなかで自身の記憶でコラージュするにつれて、写実と想像の織り成すイメージを凌駕する崇高な自然が持つ抽象性を獲得している。ターナー水彩画油絵作品は1つの画面に多くの色を使っていない。鮮やかではなくどちらかといえばくすんだような同じトーンで描かれている。晩年はほとんど光と大気が画面を支配している。同じトーンの色彩で描くターナーエッチングやメゾティントなどの手法でモノクロの版画作品を多く手掛けていたのは必然の成り行きだった。生前から多くのパトロンを持つ人気画家だったターナーは自身の画業を広める為に版画を大いに利用したというが、モノクロの平面性は形態や遠近法が崩壊し全てが融合する壮大な自然のイメージをさらに推進している。『ドーヴァー海峡』(1827年)の崖は高波にしか見えないし、『アルヴェロン川の水源』(制作年不明)は山と木々、遠景と前景が溶け合っている。建物とそれを囲む風景のおぼろげな関係性は、人工物と自然物の対立が消滅したイメージとなっている。ターナー水彩画の画面を近くで見るとそこかしこにスクラッチアウトが施されている。塗られた絵具をこすり紙の白い地を出す、ある意味では大胆な手法を目の当たりにすると、たんなる絵画技法としてではなく自然の巨大なエネルギーや神々しさに導かれて二次元のイメージを破壊し、未知の世界へ飛び込む衝動的な行為のようにも思えてくる。ターナーにとっての抽象化とはこのようなことであり、ターナー自身のエモーション(情動より情念のほうに近い)そのものなのだと思う。

2018-04-30

[] スピルバーグの包容力

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を観る。政治の劣化が目に余りすぎる現在の日本に、ある意味タイムリーな映画であるが、それ以上にシリア攻撃を行ったトランプ政権に反旗を翻すような内容をハリウッドでさらりと当たり前のように製作するアメリカの不可思議さに相変わらずため息をつく。おおざっぱな見方をすればトランプ政権と同じくニクソン共和党政権を糾弾する構図として見ることもできるが、外部から見ればアメリカ二大政党制のなかで国家権力を握れば、共和党民主党の差なんて資本主義思考から外れない限りそんなに変わりはない。共和党排外主義や強権的政治を強く批判しても共和党拮抗できる民主党という後ろ盾があるから一種の安心感がどうしてもつきまとう。そこにハリウッドが製作する社会派映画の限界を感じることもあるが、『ペンタゴン・ペーパーズ』では政治的な党派や階級が交錯する組織のなかで現実的に動きまわりつつ強靭な壁を乗り越えようとする個人のあり方に着眼点を置き、70年代の見事なディテールや熱気をからませた映画的贅沢を堪能できたことも認めないわけにはいかない。そこはさすがスピルバーグとしかいいようがない。

夫の自殺によって専業主婦から新聞社の社主になったキャサリン・グラハム(メリル・ストリーブ)は突如変化した境遇のなかで政治家役員など上流社会の人々としがらみや対立を抱えつつ、一家や新聞社の運命にかかわる人生最大(といってもいい)の決断を下す。その勇敢さは報道の自由を守っただけではなく、ますます不可解で複雑化する世界のなかへ一歩を踏み出したことへの表明でもある。家族経営に守られてきた新聞社ではなく、多様な人々によって成り立つ新聞社(世界)のなかで自らの信念を通すことがどれだけ大変なことなのかが、1人の女性を通して描かれている。だが、ある1人の物語ではないことはいうまでもなく、ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)のような常に身近にいる理解者、その勇気ある部下たちの奮闘によって希望へのうねりが起こったのである。デスクの主要登場人物たちのほかに無名の人物までもが重大な局面に必要不可欠な人物として事細かに描写されているのも、この映画を一層魅力あるものにしている。特に最高裁判所に出廷したキャサリンを長蛇の列から裏入口へと導く弁護士事務所のスタッフらしき移民系の小柄な女性の場面はストーリー構造の末端部分にすぎないが、強く印象に残る場面である。裁判が終わり最高裁判所の外へ出て人ごみの階段を下りるキャサリンの両側を何故か若い女性だけが出迎える美しい光景は、最近の「#Me Too」のムーブメントを意識してのものであるに違いない。こういった表に出ないごく普通の人々までもがキャサリンの決断につながっているのであり、印刷工場で黙々と働く労働者から早朝のトラックから放り出された新聞の束を拾い上げる配達者までを流麗な美しい映像に収めるスピルバーグは包容力によって時代を超越した世界の事象事物を網羅している(理想としての平等というより唯物的な等質)。

http://pentagonpapers-movie.jp/

2018-03-31

[] 熊谷守一

自身の展示が終ったのもつかの間、年度末の慌ただしさに取り紛れるなか、なんとか東京国立近代美術館の『熊谷守一展』を観ることができた。何かの展覧会のなかで一点とか数点を観る機会は以前に何回かあったが、その時の印象というのはたいがいデパートの催事場で販売されているような絵画のもつ庶民的な親しみやすさが勝ってしまう。しかし今回の展覧会は200点を超える史上最大規模の回顧展であり、これだけの数があつまると一点一点の親しみやすさは保持しているものの、日本美術史のなかの最重要画家扱いという感じが出ていて心地よい違和感を覚える(というか東京国立近代美術館の展覧会はいつもこんな感じである)。初期の作品は東京美術学校黒田清輝の指導のもと、暗い色調に描かれている。親友だった青木繁の画風にも多少重なるふしもあるが、東京美術学校の学生の絵画は総じて薄暗いトーンの似たり寄ったりである(現代は中間色のトーンか)。物質的な制限(絵具や油など)からなのか、時代あるいは学校の空気からなのか、本当のところどうなんだろう。熊谷の初期は闇のなかの光というテーマが際立っていて直接的である。初期作品のなかで注目を引いたのは、列車に飛び込んで轢死した女性を描いた《轢死》(1908)。経年による暗色化のため、ほとんど真黒な画面にしか見えないのだが、凝視し続けると横たわっている死体の輪郭が街灯や月光などの逆光によってほのかに浮かび上がっていることが次第にわかってくる。《轢死》のモチーフを後年に再び採り上げた《夜》(1931)の作品になると、いっそう轢死のイメージと死体の輪郭が明確になってくるのだが、その5年後には《轢死》と《夜》の延長線上ともいえる《夜の裸》(1936)が描かれることになる。《夜の裸》は《夜》の荒々しいタッチが赤い輪郭線によって整理され、平面的な抽象性を生み出している。混沌としたイメージのなかから人体や事物をひとつひとつの面に区分けするうちに赤い輪郭線が生まれてきたのである。《夜の裸》は、太い線で縁取られたコントラストのはっきりした配色をもつ晩年の熊谷作品へとシフトする転換点となった興味深い作品である。世界にある事物は光によって分けられている。印象派の画家たちは面と面、タッチとタッチのあいだに光を通過させたが、熊谷単純化した画面のなかで光を輪郭線に置き換えて世界を表現したのである。あふれかえる光の束ではなく、夜の世界から浮かび上がる物の背後からさし照らすわずかな光線。その光は死のイメージを常にもっていた熊谷の一生続いた感覚でもある(《ヤキバのカエリ》(1956)のシンプルな画面に対する、様々な感情や感覚が入り乱れるなんともいえない不可思議な感じ)。それにしても光が赤い線になるとは、本人もどう転ぶかわからなかったに違いない。

http://kumagai2017.exhn.jp/