中村屋のボース


 ラース・ビハーリー・ボース、1886年生まれ、西ベンガル州ブルドワンで生まれました。チャンドラ・ボースとともにインド独立活動を行った人です。

 ボースは1912年、反英テロを敢行し、当局から逃れて同志のグプタとともに日本に脱出しました。そして孫文のもとを訪れ、頭山満に会います。そして内田良平大川周明、葛生能久、佃信夫ら興亜陣営との交流を深めていきます。
 しかし、日本は英国と同盟関係にあったため英国はボースとグプタの日本退去を要求します。このとき二人をかくまったのが新宿中村屋の店主、相馬夫妻です。ここで同店のインド・カリーが誕生し、相馬の愛娘とボースは結婚することになります。これでボースは「中村屋のボース」と呼ばれるようになりました。

 1941年日本は対米英開戦に踏み切ります。東條英機首相はインド独立援助を声明します。
 
 日本軍は破竹の勢いでマレーを進撃すると、イギリス軍の一大隊が退路を絶たれ、孤立していました。その大半はインド人でした。大本営参謀の藤原岩市少佐は一切武器を持たずに大隊を訪れ、投降を勧め、200のインド投降兵の身柄を預かることに成功します。やがてその中にいた中隊長のモハン・シン大尉の主導によってインド国民軍(Indian National Army、略号:INA)創設されました。

 インド兵捕虜と藤原機関の合同食事会。モハン・シンが述べた言葉。
「戦勝軍の日本軍参謀が、投降したばかりの敗残のインド兵捕虜、それも下士官、兵まで加えて、同じ食事でインド料理の会食をするなどということは、英軍の中では夢想だにできなかったことである。(中略)藤原少佐の、この勝者、敗者をこえた、民族の相違をこえた、温かい催しこそはインド兵一同の感激であり、日本のインドに対する心情の千万言にまさる実証である」

 1942年5月、タイのバンコクでインド独立連盟が設立され、中村屋のボースが総裁となります。この後INAは内部対立があったもののチャンドラ・ボースも加わり、自由インド仮政府を樹立し、米英へ宣戦布告。日本軍とともにインパール作戦を戦うことになります。

 評論家、日下公人氏は戦後16年たった頃、シンガポールを訪問したとき、街中にある自動車修理工場を立ち止まってみていると、インド人が修理しているのを見かけました。扱っている車はほとんど日本製でした。「これはニッサンだね」というと、「あなたは日本人か、私もかつて日本の兵隊と一緒にインパールまで攻め込んだんだ」と言ってわれもわれも名乗りを上げてきたそうです。「日本人はブレイブ(brave=勇敢)」とそればかり言って神様のように尊敬していたそうです。

 中村屋のボースは1945年(昭和20年)に日本で客死しました。日本政府はその死に際し、勲二等旭日重光章を授与してボースの仕事をねぎらいました。同年6月には、長男の正秀も沖縄戦で日本軍人として戦死。インドは、日本が連合国に敗北してからちょうど2年後の1947年(昭和22年)8月15日に、イギリスから独立を勝ち取りました。



参考文献
 オークラ出版「世界に愛された日本」『二人のボースとインド独立の理想』坪内隆彦
 「日本はどれほどいい国か」日下公人高山正之
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編

添付画像
 ラース・ビハーリー・ボース(PD)


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