あれれ「ひめゆりの証言」がおかしいぞ?
【南風原】「ひめゆり平和祈念資料館」館長の宮良ルリさん(83)=那覇市=による沖縄戦体験講話が9日、南風原町立津嘉山小学校であった。沖縄戦当時、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒だった宮良さんは「ひめゆり学徒隊」として南風原の沖縄陸軍病院に動員され、戦火で多くの同窓生を失った。同小の児童らに体験を語り「戦争の話をするのはとてもつらいが、戦争と亡くなった人を忘れてはいけない。二度と戦争をしないために平和を守っていこう」と呼び掛けた。
大東亜戦争沖縄戦の「ひめゆり学徒隊」の生き残り宮良ルリさん(ひめゆり平和祈念資料館館長)の話が琉球新報に掲載されていましたが、ちょっとおかしい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100614-00000013-ryu-oki
沖縄戦の体験を語る宮良ルリさん=9日、南風原町立津嘉山小学校
戦争の話に聞き入る津嘉山小学校の児童ら=9日、南風原町の同小体育館
宮良さんは、空爆の激しくなった1944年から地上戦になった翌45年6月までの沖縄戦の状況を児童らに語った。45年1月の空襲については「空爆で蒸し焼きとなり、あちこちに転がった人間の遺体を熱気の中、片付けたことが忘れられない。学校にも爆弾が落ち、教室を失った」と話した。
陸軍病院で負傷兵の看護に当たり、飛び交う砲弾の中で水や食事を調達したことを紹介。「日本兵に『沖縄を守るためにやって来たのだから、兵のために飯を探して来い』と言われ、手榴(りゅう)弾を投げられそうにもなり、悔しかった」と当時の心情を吐露した。
また軍隊から戦場で解散命令を突然出され、命を落とした同級生の話に触れ、「負傷し、飛び出した腸をおなかに収めながら同級生は『天皇陛下万歳』と言って亡くなった。きっと父母の名前を呼びたかったのに、死ぬときでさえそれが許されなかった」と強調した。
児童らに対し「言われた通りにするのでなく、正しいことをきちんと判断できるよう勉強してほしい。『命どぅ宝』が最も大切だ」と訴えた。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163500-storytopic-153.html
>「日本兵に『沖縄を守るためにやって来たのだから、兵のために飯を探して来い』と言われ、手榴(りゅう)弾を投げられそうにもなり、悔しかった」
兵といっても傷病兵です。同じひめゆり隊の比嘉園子さんの手記では次のように書かれています。(角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善著より)
「治療班のバカヤロウ!いったい幾日になると思うんだ。ほうたいも腐っちまったじゃないか。手榴弾投げてやろうか、ほら二個も持ってるぞ」 とほとんど正気の沙汰とも思われない様相に入り口に立ちすくむこともあった。 「何をいっているんだ。この人たちだって、ぼくらが負けたおかげでこんな苦労をしているんじゃないか。それより早く久しぶりにかえてもらってさっぱりしたほうがいい。さあ、お前から真っ先にかえてもらえよ。看護婦さんかまわずはいってください」 (中略) 新しいほうたいにとりかえられた患者は、はじめて笑いを浮かべ、 「やっと人心地がつきましたよ。先刻はどうも失礼なことを言ってすみませんでした」 |
>「負傷し、飛び出した腸をおなかに収めながら同級生は『天皇陛下万歳』と言って亡くなった。きっと父母の名前を呼びたかったのに、死ぬときでさえそれが許されなかった」
館長の宮良ルリさんは守下ルリ子さんのことでしょう。ひめゆりの塔がある壕の生き残りです。手記にはこのように書いています。(同「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」より)
そのうちに息がだんだんつまって苦しくてたまらない。(米軍のガス弾) 「おかあさーん!」「おかあさーん!」「おとうさーん!」 と叫ぶ声。友を呼ぶ声。 「先生!苦しいよう!殺して!殺して!」 という絶叫。ほんとうに生き地獄だ。 (中略) 「敵は中頭から上陸したのだから、私の父母も、きっとこんなに苦しんで死んだに違いない」 という。 「何を言っているの。そんなこといったらますます苦しくなるばかりだ。しっかりしてよ」 と励ます。 「お姉さんお先にね。ああ苦しい。天皇陛下万歳」 |
本記事に関するご意見や感想は以下まで
jjtaro_maru@yahoo.co.jp
http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/MYBLOG/guest.html