ひめゆりを支えた人たち



 大東亜戦争沖縄戦で「ひめゆり学徒隊」は南風原の沖縄陸軍病院に配属されていました。5月12日〜18日にかけてのシュガーローフの戦いにより日本軍は首里の防衛も困難な状態となり、24日には陸軍病院付近に米兵が出現します。25日には移動することになります。しかし、3,000余名におよぶ患者を全員移動することは収容の壕もなければ輸送力もなく絶望的でした。そして重症患者には最期の処置をすることになりました。
 
 ひめゆり隊の一人に胸部と大腿部を負傷した渡嘉敷という生徒がいましたが、担架は壕内が狭くて使えず、おぶって連れて行こうとすると痛みにたえかねておぶろうにもおぶれない。とうとう断念し、渡嘉敷さんは「そのままにしていってください」と言い残します。引率教官の仲宗根政善氏は呆然とします。

「死!義!死!生!師弟!
 頭はかきむしられ、しめつけられるような苦悩で、私は全身がぶるぶる震えた。凡夫の身、一片の肉として散らず、教え子をおきざりにして生きようというのか、教壇での言葉はうそだったのか、教訓は口先だけだったのか。渡嘉敷の母にあったらなんと答える。
 渡嘉敷、渡嘉敷、許してくれ」

 この後、仲宗根氏は渡嘉敷さんを救出に行こうとしますが、既に米軍が壕まできており、不可能と知り絶望します。しかし、この渡嘉敷さんは生きていました。自決用の青酸カリには手をつけず、何とか壕を這い出て倒れているところを親切な米軍の救護班に助けられたのでした。終戦直後の9月に師弟は宜野座病院(ぎのざ)病院で涙の再開を果たします。
 
 ひめゆり隊は婦長4名、看護婦86名の下で看護業務にあたっていましたが、テキパキとした働きぶりと優しい心遣いで尊敬を集めていた人に上原貴美子婦長がいます。(写真)次々と倒れる看護婦の補充、割り当て、全体の統制、死体の埋葬、診療から食事の世話などの一切が、ほとんど婦長の指揮にたよったといいます。軍医は4日に一度の診療しかしませんでしたが、婦長は看護婦を激励しながら、毎日毎晩つけかえに回ったといいます。上原婦長を仲宗根氏は著書の中でこのように評しています。

「沖縄の女性で戦争中、上原婦長ほど勇敢に自分の職責を果たした者はなかったろう。いや、日本の女性の中でも極めて希だったろう。婦長は、まったく心身のあらゆる力を看護に使いはたしてたおれた。この婦長ほど悲壮な任務を負わされ、悲惨な環境に追い込まれた者はほかになかったろう」

 上原婦長は病院の解散後、山城の丘で直撃弾を受けて戦死しました。
 
 仲宗根氏は喜屋武(きゃん)の海岸まで追い詰められ、米兵に包囲されたとき、手榴弾を手に自決しようとする生徒を必死に制止し、米兵と話をして安全を確かめ投降しました。ひめゆり隊を引率した教師18名。生存5名、戦死13名。とうとう耐え切れず10名の生徒とともに自決した先生もいましたが、極限の状態の中でがんばり抜いた末の尊厳ある死といえましょう。生と死の狭間のなかで先生、看護婦さん方々、立派に職務を果たされました。



参考文献
 「沖縄戦渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦
    『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
 「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善
参考サイト
 ひめゆり平和祈念資料館 http://www.himeyuri.or.jp/top.html

写真
 上原貴美子
   沖縄県民斯ク戦ヘリ(てぃーだ) 「ナイチンゲール」の虚実 ㊦ より http://kakutatakaheri.ti-da.net/e2229027.html
 平成18年日本テレビ「最期のナイチンゲール」は上原婦長をモデルとしている。
 親族からは「がっかりした。言語同断」「あの番組が放映されてから、マスコミの取材にはもう一切答えたくなくなった」という声が聞かれる。

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島唄(歌詞に隠された意味 字幕付き)
http://www.youtube.com/watch?v=uJtEq07O024