対華二十一カ条の要求の真相

対華二十一カ条は支那の自作自演。


 私は第一次世界大戦中、日本は支那に対して「二十一カ条の要求」(1915年 大正4年 1月18日)というひどいことをした、と教えられました。世界大戦のドサクサに紛れて、支那にとって屈辱的な要求をした、日本は悪いことをしたと教えられました。そう教えられた人は多いでしょう。二十一カ条の内容を簡単に書くと、
 
 第一号 山東省における旧ドイツ権益の処分についての事前承諾など
 
 第二号 旅順、大連租借期限と南満州・安奉両鉄道の期限の九十九ヵ年延長ほか、日本人の土地所有権、居住権、営業権の優先権の要求など
 
 第三号 製鉄会社の合弁企業など
 
 第四号 沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと
 
 第五号 日本人を政治・軍事顧問として雇用することほか、必要地方に日支共同警察、日本からの武器購入、福建省の鉄道鉱山湾口に関する優先権など(希望条件)
 
 
 この二十一カ条を交渉中の1915年3月中旬に支那革命家の孫文は日中盟約案として(一)兵器はすべて日本と同式にする、(二)支那の軍と政府は外国人を雇用するときは日本人を優先させる。(三)鉱山、鉄道、沿岸航路経営のために外国資本を要したり合弁を行う場合は、まず日本と協議する、というのを提案しており、これは「二十一カ条の要求」にほぼ一致しており、実は支那側の要求だったようです。孫文「二十一カ条の要求は、袁世凱(えん せいがい)自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」と述べています。
 この頃、支那辛亥革命(1911年)によって共和国が誕生していましたが、非常に不安定な政権で混乱が続いており、大総統の袁世凱は「皇帝」になりたくてしょうがなかったのはホントで1915年12月には立憲君主制が議会で可決されると、袁は皇帝の宗教儀式を復活させるなど行って中華帝国皇帝についています。二十一カ条は袁が皇帝、あるいは外国と交渉できる国家元首として認めてもらいたかったための譲歩であり、面子をたてるために日本に強要され仕方なかった、ということにしたのでしょう。日本の加藤高明外相は「条約の最後通牒は、譲歩する際に支那国民に対して袁の顔を立てるために、袁に懇願されたものである」と公然と認めています。さらに、アメリカ公使ポール・ラインシュの国務省への報告書には、支那側は、譲歩すると約束したよりも要求がはるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」とあります。
 
 米外交官のラルフ・タウンゼントはこの二十一カ条について以下のように述べています。
「これは交渉にあたった日本の外交官からじかに聞いた話であるが、(二十一カ条の)内容が公になるずっと前に支那代表団は内容に満足し、調印に同意していたそうである。ところが、支那側はこう持ち出してきた。『内容はこれで結構だが”要求”ということにしてはくれまいか。そうした方が見栄えがする。やむなく調印したのだという風にしたいのだが』と。これを受けて日本側は『そのほうが良いのならそういたしましょう』と言って、高圧的な態度に出るふりをした。それで支那人は不承不承、署名をするという風にしたのである。裏でかなりのお金が動いたであろう。支那の交渉ごとは金次第とみてきたからである」

 当時このあたりの裏事情はジャーナリストたちには知られていたようです。ところがこれにアメリカが噛み付いてきました。この頃、米国で日系移民の排斥が再燃していたのです。
 
 ちなみに孫文辛亥革命のとき、日本に資金援助と武器の援助を要求しており、そのかわり満州をやる、と提案しています。これに頭山満などの日本の右翼は「孫文売国奴だ。信用できない」と激怒しています。それでみんな引いてしまいました。もらっときゃいいのに、ですね。この頃の日本人の思考がわかります。もっとも孫文漢民族で、満州満州民族のものですから、有効な話とは言えないでしょう。
 
 

参考文献
 「大東亜戦争への道」中村粲
 「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著/中山理訳/渡部昇一監修
 「暗黒大陸中国の真実」ラルフ・タウンゼント著
 「アメリカはどれほどひどい国か」日下公人高山正之共著
参考サイト
 WikiPedia「対華21ヶ条要求」
 
添付画像
 袁世凱(PD)

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