日米修好通商条約から生まれた幕末の錬金術

金銀交換で3倍になった!




 安政5年6月19日(1858年7月29日)、日米修好通商条約が結ばれました。同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだので安政五ヶ国条約とも言われています。よく外国の領事裁判権を認め、日本に関税自主権がないため不平等条約といわれています。

 この条約にはもう一つ大きな問題がありました。通貨の交換比率です。アメリカのハリス領事は「同種同量」と主張し、洋銀1枚=天保1分銀3枚を主張しました。ハリスの通訳であったヒュースケンは以下のように日記に書いています。

「(天保)一分銀3枚は1ドル(洋銀1枚)より目方が軽いのだが、日本人は当地では1ドルと銀一分が等価であると主張する。そこでわれわれは買い物の値打ちの3倍以上も支払っている」「日本人はわれわれがいままでの3分の1しか支払わないので、アメリカ商品の値段も同率で下がると思っていた。彼等は3倍も高く請求していたのであって、アメリカ品はつねに正当なドル価で売られていることを理解できなかったのである」

 洋銀はメキシコ産の銀貨で27グラム=7.2匁(もんめ)、品位89.9%。天保一分銀は2.3匁、99%ですから、純銀の量だとハリスの主張は正当といえます。ヒュースケンは日本側の理解不足と言っていますが、これにはわけがありました。

 日本:金一両  = 銀四分(銀9.1匁)
 米国:金一両分 = 洋銀4枚(銀25.6匁)

 日米では金銀の交換比率が異なるのです。もし、銀三分=洋銀一枚にしてしまうと、洋銀を日本銀と交換して、さらに日本の金貨に交換して、それを上海に持っていき洋銀に交換することができるわけです。

 洋銀4枚 => 天保銀12枚 => 天保小判3両 => (上海にもっていく) => 洋銀12枚!3倍に!

 日本側は金の海外流出を懸念して、「銀一分=洋銀1枚」を主張しました。しかし結局、ハリスに押し切られて「銀三分=洋銀一枚」で条約を結びました。すると案の定、金の流出が始まったのです。貿易しなくても通貨の交換だけでボロ儲けできるわけですから。イギリスの領事、オールコックは外国人社会は半狂乱になったと著書に書いています。

「かれらは突如として富くじで2万ポンドの賞金が当たってわめき暴れる狂乱状態になり・・・それはなにも貿易商にかぎったことではなかった入港したアメリカのフリゲート型艦が、これとおなじ流行病にとりつかれた。一士官は、ただちに退職して一隻の船を借り、会社を設立した。また同艦の他の士官の大半は、税関の好意で無制限に一分銀を供給されることを知って、(日本の)使節アメリカにつれてゆく任務などはそっちのけのありさまで、銀を金に換える有利な取引におおわらわであった」

 江戸幕府安政二朱銀(品位85%)を洋銀との交換用に用意して対策していたのですが、ハリスの猛反発に会い通用停止になっていました。
 しかし、洋銀が日本国内で流通しなかったのと、金の流出が結果的に対日通商を妨げることになると外国商人が認識し始めていき、ハリスも金銀交換比率を国際標準に近づけ、洋銀に刻印を打って流通させるよう幕府に勧告しました。

 それでも洋銀は普及せず、市場では洋銀1枚=銀二分二朱しか通用しなかったのです。いわゆる為替相場です。安政七年(1860年)、幕府は天保小判を三両一分二朱に引き上げました。天保小判を3倍に再評価して金の流出を食い止めようとしたのです。さらに万延(まんじゅ)の改鋳により、量目を落とした小判や一分金を発行し、金銀比価を1:15の国際標準にしていき、金貨流出に歯止めをかけました。しかし、通貨価値を切り下げ、新通貨を大量に発行したため、急激なインフレが起こりました。

 慶応元年(1865年)に来日したドイツの考古学者シュリーマンは洋銀が天保銀二分二朱しか通用しないことに随分文句を言っています。やはり後も洋銀は市場では通用しなかったようです。彼は幕府が「メキシコ・ピアストル(洋銀)の実際の値打ちを知らない」と言っていることを批判しているので、幕府は市場原理のことを言って弁明していたと思われます。ただ、在日外国人の高官は公定の三分で交換されており、シュリーマンはこれも批判しています。イギリス公使館の通訳、アーネスト・サトウは官吏ですから、三分で交換できてがっぽり儲けており、このことについて回想で「まことに慚愧(ざんき)の念にたえない」と著書に書いています。



参考文献
 日経プレミアシリーズ「江戸のお金の物語」鈴木浩三(著)
 岩波文庫「ヒュースケン日本日記」青木枝朗(訳)
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著)/ 山口光朔(訳)
 講談社学術文庫シュリーマン旅行記 清国・日本」ハインリッヒ・シュリーマン(著)/ 石井和子(訳)
 岩波文庫「一外交官の見た明治維新アーネスト・サトウ(著)/ 坂田精一(訳)

添付画像
 日米修好通商条約(外務省外交史料館蔵)Auth:World Imaging(CC)

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