日本はアジアを侵略しておらず、自衛権を行使したのみ 〜 東京裁判

大東亜戦争自衛戦争





 東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)」と言います。(1946年5月3日〜1948年11月12日)。

 東京裁判の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事で、パール判決書に次の一文があります。

「人道の基礎のうえに組織化された国際団体が存在するという前提の下に論を進めるならば、ある民族が自分に意に反して他の民族の支配下におかれるということは最悪の種類の侵略である。またかように侵略された被支配民族をかような侵略から解放するために援助する行為は、正当化しうるものとして容認しなければならない・・・本官としては、人道を基礎に組織された国際社会において、支配という侵略行為を受けている民族を援助する同様な行為を、同様に正当化しえないという理由を見いだせない」

大東亜戦争で日本は東南アジアに進出しました。それまで東南アジアは白人国家の植民地でした。日本軍が白人を追っ払いましたが、代わりに日本が支配者になるというものではなく、各国を独立させたのです。大戦中にビルマ(現ミャンマー)、フィリピンが独立し、インドネシアも独立の準備を進めました。「侵略された被支配民族をかような侵略から解放するために援助する行為は、正当化しうる」ということです。学校教育や「村山談話」、マスコミは大戦で日本がアジアを苦しめたと垂れ流していますが、国際法の権威であるパール判事は「正当」と判断しているのです。

 さらにパール判事はパリ不戦条約の条項に関するアメリカ議会での国務長官フランク・ケロッグ氏の答弁を引用しています。パリ不戦条約は「国際紛争の解決手段としての武力の行使を禁じる」条約ですが「自衛権」は認められています。条約を提唱したのがケロッグ氏です。

ケロッグ氏は、自衛権は経済封鎖にまでおよぶことを説明している。この条約は自国の領土、属領、貿易あるいは権益を防衛する米国の権利を侵害するものではないと了解された」

日本はABCD包囲網という経済封鎖を受け、開戦にふみきりました。つまり、パリ不戦条約の意味からすると日本の戦争は自衛行為になるのです。アメリカが主導して行った対日経済封鎖は戦争行為であり、アメリカはそれとわかっていて仕掛けてきたのです。

 東京裁判連合国軍最高司令官マッカーサーの名において行われました。そのマッカーサーは昭和26年(1951年)アメリカ上院で日本の戦争は自衛戦争だったと証言しています。
「日本には八千万に近い厖大(ぼうだい)な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。(中略)
 日本は絹産業以外には、固有の産物がほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。
 したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」

 大東亜戦争自衛権の行使であり、アジアを植民地から解放した戦争であり、決して侵略戦争ではありません。




参考文献
 WAC「日本は侵略国家だったのか『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
 講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)
 WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)

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 東京裁判の被告が収監されていた巣鴨プリズンの警備兵(PD)

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東京裁判でソ連とオランダは日本断罪の資格はない、と断じたパール判事

ソ連とオランダは何をしたか。




 東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)」と言います。(1946年5月3日〜1948年11月12日)。

 東京裁判の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事で、パール判決書にソ連とオランダについての言及があります。

ソビエト社会主義共和国連邦およびオランダが、本件における訴追国であり、また両国とも日本にたいして自国側から宣戦したということを、記憶しておかなければならない。ソビエト連邦に関するかぎり、かりに自衛ということは、ある条件のもとに、戦争を開始することを容認するものであると解釈しても、同国の対日宣戦当時の事態が、防衛の考慮から必要となった戦争であるとして、これを正当化するような事態であったとはいえないであろう」

ソ連が昭和20年(1945年)8月8日に対日宣戦布告したという事実は結構知られていることでしょう。ほとんど日本が焦土化し、弱りきったところで宣戦布告し、満州に攻め込み、千島列島、南樺太を奪ったという火事場泥棒のような行為でした。オランダが先に対日宣戦布告をしたというのは意外に思う人が多いかもしれません。昭和16年(1941年)12月8日に宣戦布告しています。オーストラリアやニュージーランドも先に宣戦布告しているのです。

「(ソ連の行為は)すでに敗北した日本にたいする戦争の中に『方法を選ぶことも、また熟考の時間をも許さないような緊急かつ圧倒的な自衛の必要』を読み取ることは、おそらく困難であろう」

「攻撃を受ける危険のないところに、幾分でも防衛の必要があった − その必要が緊急なものにせよ、そうでないにせよ、圧倒的であるにもせよ、そうでないにもせよ − と判断するのは困難であろう。日本はすでに致命的に弱められソ連はそれを知っていた。1945年8月6日、日本は最初の原子爆弾攻撃を受けた」

パール判事はソ連の宣戦布告は自衛権の行使とは言えないと述べています。

「オランダの行為に関しては、もしわれわれが侵略ということについて、ジャクソン検察官が示唆したような判定の標準を受け入れない場合にかぎり、自衛の手段として肯定することができるかもしれない」

ジャクソン検察官というのはドイツを裁いたニュルンベルク裁判で「侵略者」の定義をした人です。その定義の一番目に「他国に宣戦を布告すること」というのがあるのです。この定義を受け入れないのであれば「自衛」と呼べるかもしれない、と述べていますが、連合国側が侵略の定義をしておきながら、東京裁判でオランダの「宣戦布告」行為はスルーしているのですからおかしい話なのです。さらにパリ不戦条約では次のように定められています。

第一条 締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言す

第二條 締約国は相互間に起ることあるへき一切の紛争又は紛議は其の性質又は起因の如何を問はす平和的手段に依るの外之か処理又は解決を求めさることを約す

この条約は「自衛権」は認めており、その判断はその国に委ねることになっています。ソ連の対日参戦は「自衛行為」であり、オランダの対日宣戦布告も「自衛行為」だったとし、条約違反でなかったとするのであれば、日本の戦争も自衛行為になるのであり、日本がパリ不戦条約違反だと訴追するのは無理があります。もし、日本の戦争を「条約違反」「侵略」とするのであれば、ソ連もオランダも同じように「条約違反」「侵略者」ということになります。二国には訴追の資格はない、ということです。そしてパール判事は次のように皮肉っています。

「みずからかように犯罪を犯した国々が、自国民中の同種の犯罪人を等閑(とうかん なおざり)付し、一丸となって戦敗国民を同様の犯罪のかどで訴追しようとは、かりそめにも信じられない」

東京裁判のインチキぶりをズバリ指摘していると言えるでしょう。



参考文献
 WAC「日本は侵略国家だったのか『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
 講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)

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 ウィリアム・F・ウエップ裁判長(PD)

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東京裁判そのものが犯罪である

ニュルンベルク裁判や東京裁判は戦争の抑止力にはならなかった。




 東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)」と言います。(1946年5月3日〜1948年11月12日)。

 東京裁判では11人の判事がおり、インド代表のパール判事はA級戦犯25名の被告に対して全員無罪の判決を下しました。パール判事が書いた判決書には戦争における個人責任の問題について検討しており、1907年のハーグ条約に関して言及しています。

「1907年の第四ハーグ条約は、疑いもなく締約国間だけに適用されるものであり、しかもその場合でも交戦国がことごとくこの条約の当事者でないかぎり、適用されないものである。しかしながら、この条約の付属規定は、ただ文明諸民族の間に確立された慣例の結果として生まれた、現存の国際法の諸原則だけをとり入れたものであるといわれている。
 法のもとにおいては、戦勝国国際法上の当然の手続きに依ることなしに、これらの俘虜を『処刑する』としたならば、その行為は戦勝諸国による『厳密ナル意味ニオケル』『戦争犯罪』となろう

「本官の見解によれば訴追されている諸行為が現存国際法のもとでなんらの犯罪をも構成していないとすれば、勝者の下した新しい犯罪の定義をもってそれらの行為をなした人々を裁判し処刑することは、勝者自身が『戦争犯罪』を犯すことになるであろう。俘虜が国際法上の諸規則、諸規定に則って処理されるべきであり、勝者みずから選んで国際法であると称するところにしたがって処理すべきでない」

上智大名誉教授の渡部昇一氏によると、これは東京裁判そのものが捕虜虐待になっているとの指摘であると述べています。昭和20年(1945年)9月2日からはアーミステス(休戦)であり、昭和27年(1952年)に発効したサンフランシスコ講和条約によって戦争状態が終了してピース(平和)に至るのですから、講和条約が成立するまでは戦争が完全に終わっていない状態でした。したがって、東京裁判の被告は全員捕虜であり、国際法における厳密な意味の戦争犯罪を裁くのはよいとしても、敵対行為の終了に先立ってあらかじめ発した警告中に構想されていなかった新しい概念を持ち出して彼らを裁いたならば、裁くほうが戦争犯罪を犯すことになるというものです。

 たしかに、日本はポツダム宣言を受諾し、正規な手続きを経て降伏しました。そこで拘束された者は国際法上の捕虜になるわけです。そこで裁判を行うとしたら国際法に則って裁かれなければなりません。しかし、東京裁判は裁判所条例が作られ「平和に対する罪」という事後法が適用されているのです。不当な裁判であり、ハーグ条約違反になります。戦争犯罪に匹敵し、結果、7名が処刑されたのですから、これは「捕虜虐殺」に相当します。

 渡部昇一氏によると東京裁判の検事は第二次世界大戦を最終戦争のように思い込み「ここできっちり罰してしまえば、二度と世界に戦争は起こらない」という感覚を持っていたと指摘しています。

 パール判事
「犯罪に対して裁判を用い、刑罰を科する手段は、戦争に敗れたものにたいしてのみ適用されうるという段階の国際機構がとどまるかぎり、刑事責任の観念を導入しても、とうてい制止的と予防的効果を期待しうるものではない。
 一つの侵略戦争を計画することによって生ずる刑事責任に問われる危険率は、その計画された戦争に万一敗れた場合に、問われることのありうる刑事責任の危険率に比して、より重大となることは決してないのである」

 東京裁判連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの名において行われました。マッカーサーは昭和25年(1950年)10月15日にウェーキー島でトルーマン大統領と会談しています。そのとき次のように述べています。

戦争犯罪人などに手出ししてはいけない。うまくいくものではない。ニュルンベルク裁判や東京裁判は戦争の抑止力にはならなかった(Don't touch the war criminals.It doesn't work.The Nurnberg trials and Tokyo trials were no deterrent.)」

 昭和23年(1948年)12月23日、東京裁判で戦犯とされた7名が処刑されました。それからわずか2年もたたないうちに朝鮮戦争が勃発しています。日本は赤化の防波堤の役割を果たしていたのに、連合国がそれを壊したため朝鮮戦争がおこったのです。東京裁判では見当違いな「戦争防止策」として日本の指導者を裁くという「戦争犯罪」が行われていたのでした。



参考文献
 WAC「日本は侵略国家だったのか『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
 講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)

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 東京裁判の光景(PD)

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日本の戦争は国際法違反ではない 〜 東京裁判

日本は侵略戦争などやっていない。




第一条 締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言す

第二條 締約国は相互間に起ることあるへき一切の紛争又は紛議は其の性質又は起因の如何を問はす平和的手段に依るの外之か処理又は解決を求めさることを約す

これは昭和3年(1928年)のパリ不戦条約、またはケロッグ=ブリアン条約と呼ばれるもので、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本ほか15カ国が締結し、その後ソ連を含めて63カ国が署名しました。何かに似ています。そうGHQ憲法第九条です。9条はパリ不戦条約をベースに書かれています。そして東京裁判極東国際軍事裁判)では満州事変以降の支那事変、大東亜戦争は日本の条約違反であり、侵略戦争だと検察側は主張しました。これに対する日本側の冒頭陳述は次の通りです。

「1928年の不戦条約の締結の際に、各国政府がなした交渉顛末、関係者の公式発表、批准の際の留保、これらはこの条約上の自衛権の限度を証明する資料として被告より提出いたしたいと思います。
 またハル国務長官並びに野村大使との間に行われた1941年の日米交渉の際においても、自衛権の解釈の問題となっております。この際アメリカ側は、自衛権の限度について自己の見解を表明いたしました。被告はアメリカが自衛権なりとして表示した関係記録を証拠として提出いたします。
自衛権の存立はこれを行使する国家において独自の判断を持って認定すべし』。こういうことがいわれております。すなわち国際法においては自衛権を主張する当事者は、その権利が確実に存在するや否やは、自らこれを判断するの絶対の機能を有するということは確実に承認せられた原則であります」

 パリ不戦条約は「国際紛争、国家の政策として戦争はしない」「一切の紛争は平和的手段に依る」となっていますが、条約締結時、アメリカやイギリスは重要な留保を行っています。アメリカは「自衛戦争は禁止されていない」という解釈を打ち出しました。また国境の外であっても、自国の利益に関わることで軍事力を行使しても、それは侵略戦争ではないという留保も行っています。さらにアメリカは自国の勢力圏である中南米に関してはこの条約は適用しない、とまで宣言しています。イギリスは国益に関わる地域がどこなのかすら名言しませんでした。

 条約締結を主唱したアメリカのケロッグ国務長官の議会での弁
自衛権は、関係国の主権のもとにある領土の防衛だけに限られてはいない。そして本条約のもとにおいては、自衛権がそんな行為を含むかについては、各国みずから判断する特権を有する」

条約はまったくの空文だったのです。

 東京裁判でインドのパール判事はパリ不戦条約について次のような見解を示しています。
「本官の意見としては、同条約は現存の国際法になんら変更をももたらさなかった」

要するに条約は法的には意味がないということです。

「国際生活(国際社会)において、自衛戦は禁止されていないばかりでなく、また各国とも、自衛権がどんな行為を包含するかを、みずから判断する特権』を保持するというこの単一の事実は、本官の意見では、この条約を法の範疇から除外するに十分である。ケロッグ氏が声明したように、自衛権は関係国の主権下にある領土の防御だけに限られていなかったのである」

法律ではない、と述べています。

「同条約は、たんに世界の輿論(よろん)を刺激するのに役立つだけで、その(条約の)違反にともなう危険はただ違反国にとって不利な世界的輿論を喚(よ)び起こすというだけのことである」

「あるものの規定する義務が、実際上いまもなお当事国のたんなる意志しだいで、どうにでもなるものである場合、そのあるものを『法律』と称することはできない」

 結論として満州事変は張学良の挑発による自衛権の発動であり、支那事変は上海において日本租界を包囲攻撃されたことに対する自衛権の発動であり国際法違反ではなく、侵略戦争ではないということです。真珠湾攻撃も経済封鎖(=戦争行為である)に対する自衛権の発動であり、大東亜戦争国際法違反でなければ侵略戦争でもありません。




参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判清瀬一郎(著)
 WAC「日本は侵略国家だったのか『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
 講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 ワック出版「歴史通」2010.3『“国際法違反だ”と言われたら』片倉満

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 極東国際軍事裁判市ヶ谷法廷大法廷(PD)

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東京裁判は裁判の名をかたった復讐劇

インチキ裁判の極み。




 第二次世界大戦後、敗戦国であるドイツ、日本に対してニュルンベルク裁判、東京裁判極東国際軍事裁判)が行われました。そして戦争犯罪として判決を受けた人は処罰されています。東京裁判の弁護人であった清瀬一郎博士はこれらは復讐劇であったとして次の考証を示しています。

 昭和18年(1943年)2月12日、米ルーズベルト大統領演説
「・・・われわれ連合国が、枢軸国、あるいは枢軸国と交渉する唯一の条件は、カサブランカで宣言した条件、すなわち無条件降伏である。それは彼らの犯罪的な、野蛮な指導者に対しては処罰を加え、復讐を加えることを意味する」

 昭和20年(1945年)5月 ドイツ降伏後、連合国がロンドンに会合したときのソ連代表トライニン教授「ヒトラー 一味の刑事責任」
ヒトラー 一味の犯した彼らの刑事責任の問題は、最も重要な問題である。ヒトラー 一味の殺戮者どもが、その極悪非道の諸犯罪によって、世界のすべての公明誠実な人々、並びにあらゆる自由を愛する人々の胸の中に、最も熾烈(しれつ)、そしておさえることのできない憎悪並びに仮借することのできない応報に対する渇望をわき立たせた今日、この問題はきわめて切実なものとなった」

 アメリカ合衆国の判事ジャクソン判事は、ロンドンの会議の結果をルーズベルトに報告し、ヒトラー一味に対しては裁判を用いず、これに制裁を加えることも理屈として可能であるが、やはり公平のため裁判の形式をとることにしたと報告しています。こうしてニュルンベルク裁判が行われました。東京裁判も同等のものとしてニュルンベルク裁判の裁判所条例が適用されています。

(a)平和に対する罪
(b)通例の戦争犯罪
(c)人道に対する罪

 東京裁判でインド代表のパール判事は日本人被告に対し、全員無罪を主張しました。パール判事はこれらの裁判所条例について次のように述べています。

「本裁判所は独自の決定に到達せねばならない。右の諸機関の決定を持って本裁判所を拘束しようとは全然意図されたことはないのである。けだしもしそう意図されていたのであれば、本裁判所は『司法裁判所』ではなくて、単なる権力の表示のための道具となるであろう」

パール判事はニュルンベルクを引き継いで戦勝国間で決めた裁判所条例で東京裁判が拘束されるのであれば、それは「権力の表示」に堕ちるものであると述べています。あくまで「法」に従うべきというのがパール判事の主張です。さらにパール判事は次のように述べています。

「勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うことは敗戦者を即時に殺戮した昔とわれわれの時代とのあいだに横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである」

戦勝国が一方的に決めた裁判所条例に従い裁判を行うことは法に基づかないばかりか、1648年のヴェストファーレン条約(近代国際法の元祖)以来続いた数世紀の文明の抹殺になると述べています。

「かようにして定められた法律に照らして行われる裁判は、復讐の欲望を満たすために、法的手続きを踏んでいるようなふりをするものにほかならない。それはいやしくも正義の観念とは全然合致しないものである」
「儀式化された復讐のもたらすところのものは、瞬時の満足に過ぎないばかりでなく、窮極的には後悔をともなうことはほとんど必至である」

ズバリ復讐劇である、と指摘しています。実際判決では死刑となった被告は各国に一人ずつ割り当てられていました。松井−支那、木村−ビルマ、板垣−シンガポール(イギリス)、武藤−バターン(フィリピン)、東條−真珠湾アメリカ)、土肥原−満州、広田−ソ連・・・復讐劇だからです。

 東京裁判は判決が出た後、弁護団アメリカ連邦最高裁判所に再審請求を申し立てています。それは次のような理由で却下されました。

東京裁判は政治的報復的軍事行為と言うべきであり、そもそもが司法的な裁判ではないのだから司法的な再審請求は成立しない」

 間違いなく東京裁判は裁判の名をかたった復讐劇だったのです。




参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判清瀬一郎(著)
 WAC「日本は侵略国家だったのか『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
 講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史 戦後篇」若狭和朋(著)

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 パール判事の顕彰碑(東京九段・靖国神社内・遊就館前)2007年12月9日、Lover of Romance氏撮影(CC)

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ペリーが見た江戸日本

ペリーが日本を見て驚いたこと。




 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。ペリーは翌、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて再び来航し、条約締結を求め、3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約を締結しました。ペリーには江戸日本、日本人はどう映ったのでしょうか。

「日本人の並外れた好奇心には驚かされる。わが国の独創的な発明品の数々を展示すると、彼らはあの手この手で飽くなき好奇心を満足させようとした。日本人にとっては、どの展示品もこの上なく珍しかったに違いないが、それをこと細かに観察するだけでは気がすまず、士官や乗組員らの後をついてまわり、機会さえあれば衣服に触ってみようとする」

日本人の好奇心には驚いたようです。珍しくて「ほう」と感心するだけでなく、しつこく飽きることなく見て回るのです。

「乗艦を許された人々も同じように詮索好きで、近づけるところなら隅々までのぞき込み、あちこちの寸法を測ったり、目に触れるものはなんでもかんでも独特の流儀で写生したりする」

技術を盗もうとしたわけです。さらにペリーは鋭い観察をしています。

「実際的および機械的技術において、日本人は非常な巧緻を示している。・・・日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技能を有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバルとなるであろう」

江戸日本には既に一定の高い技術力があったことを示しています。だから黒船を評価でき、持ち前の好奇心で様々な角度から分析できたのです。ペリー初来航から2ヶ月後には洋式大型軍艦の建造に着手し、翌年には完成させています。「鳳凰丸」です。蒸気機関車の模型も安政2年(1855年)には走らせることに成功しています。

「読み書きが普及しており、見聞を得ることに熱心である。・・・彼らは自国についてばかりか、他国の地理や物質的進歩、当代の歴史についても何がしかの知識を持っており、我々も多くの質問を受けた」「長崎のオランダ人から得た彼らの知識は、実物を見たこともない鉄道や電信、銅版写真、ペキサン式大砲、汽船などに及び、それを当然のように語った。またヨーロッパの戦争、アメリカの革命、ワシントンやボナパルト(ナポレオン)についても的確に語った」

識字率は大きなポイントです。明治期の日本人の識字率は50%を超えており、当時の世界一の大国であるイギリスの20%を凌駕していました。こうしたものに対してフランスの社会学者ピエール・ブリューディは「文化資本」という概念を適用しています。知識、知性、教養、マナー、伝統的なものなどを指し、ブリューディは「社会資本より文化資本の方が強い」と指摘しています。比較文化学者の金文学氏によると日本は江戸期に高い文化資本を持っており、これが明治に入って西洋文化を吸収し、近代化に成功した秘訣だと述べています。また外国人は日本を植民地化することはできないと考えた理由の一つだとも指摘しています。

「4月25日の午前二時頃、下田沖に停泊中のミシシッピー号に二人の男が近づいてきた。瓜中萬二こと吉田寅次郎と、市木公太こと渋木松太郎の二人である。旗艦では通訳を出し、その男たちの要望を聞いた。合衆国へ連れて行ってほしい、世界を旅行し見聞を深めたいと言う。この行為はアメリカの法律では無罪でも、日本の法律からみると犯罪であり、相手国の法律を尊重するには引き返してもらうより他なかった」

吉田寅次郎吉田松陰のことです。ペリーはこの二人を「漢文を淀みなく見事に書き、物腰も丁寧で精錬されている」「知識を求めて生命さえ賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲」「道徳的・知的に高い能力」と評価しており、「日本人の志向がこのようであれば、この興味ある国の前途は何と有望なことか」と評価しています。

 ペリーは条約締結後に下田へ行っています。ここでも様々な交渉で衝突しています。そして交渉がまとまり、下田を去ることになります。

「いよいよ私が最後の別れの挨拶を述べたときは、彼らは心から名残を惜しんでくれた。前日に送った以下の覚書で、私はかなり厳しいことを書いているのだが」
「しかし、不誠実だとか、果ては二枚舌と言われても、日本人は決して腹を立てない。口がうまいとかずるがしこいとか言われるのを名誉と考えているのだろうか、と思うほどである」

どんな相手であっても、何か面倒なことがあっても、礼節を尽くすのが日本人です。むやみに感情を表に出さないのも日本人です。これらも日本の「文化資本」なのです。




参考文献
 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)
 小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)
 PHP新書「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」竹田恒泰(著)
 南々社「広島人に告ぐ! 我々は『平和』を叫びすぎる」金文学(著)
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 合衆国水師提督口上書(嘉永6年6月8日)(PD)
 左よりヘンリー・アダムス副使(艦長)、ペリー水師提督、アナン軍使(司令官)

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日米和親条約締結

戦争を回避し、無事条約締結。




 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。このときは国書を手渡しただけでしたが、翌、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて再び来航し、条約締結を求めました。

 日本側は戦争をすれば敗北は必至であるから、戦争を避け、交渉によって交易を断るということを柱として交渉に臨みました。ペリーはアメリカ政府より先制攻撃は禁止する通達はうけていたものの「目的達成のためには、武力の行使にしり込みすることはない」(上院報告書)というスタンスで交渉に臨みました。いわゆる砲艦外交です。またペリーは応対の仕方も緩急をつけるなど工夫しています。

 ペリー提督日本遠征記
「実際、私の見るところでは、この非常に賢明かつ狡猾な人々との交渉にあたっては、異国の住民 − 文明化された者も未開の者もいたが、 − との交流を通じて得た、けっして乏しいとはいえない経験を活用することが大切だ。そしてその経験から判断するなら、形式を重んずる人々に対しては、あらゆる儀礼を退けるか、逆にヘロデ王(※1)にもまさる尊大さとものものしさを装うことが必要なのである。
 この両極端を使い分けるにあたって、うまく演出できるときは尊大さを示し、私たちの慣行にそぐわないときはそうした尊大さを排するという方法をとってきた」

 日米交渉は3月8日(西暦)より横浜で始められました。日本側は林大学頭を筆頭に町奉行・井戸対馬守、目付・鵜殿、儒者・松崎満太郎です。ペリーは日誌にそれぞれの人物評を書いています。

「第一の委員は林大学頭で55歳ぐらい。立派な風采で中肉中背、立ちふるまいは謹厳で控えめである。重要な問題はすべて彼に任されていたから、最高責任者と目されていたのは間違いない。その風貌は、ボルチモアのレヴァディ・ジョンソ氏(※2)に似ていなくもなかった」

「二人目は井戸対馬守で、年齢は50歳ぐらい、長身でかなり太っている。感じの良い顔立ちで、現在のロンドン駐在アメリカ公使ブキャナン氏(※3)に少し似ている」

 日米交渉は3月17日、24日、28日、31日の計5回と複数の下打ち合わせが行われました。林大学頭の整然とした理論展開により「通商」を回避することができました。また、ペリー側の挑発にも隠忍自重し、戦争も回避することができました。

 交渉の期間中、ペリー側より数々の品が贈呈されています。中でも蒸気機関車の1/4モデルは実際に蒸気機関で動くもので、日本側を驚かせました。日本側からは米や酒などを贈呈し、米俵の運搬には力士を使いました。力持ちをアメリカ側に見せつけようという目論見です。ペリー艦隊にも屈強の水兵がおり、巨体を見せつけられて、ひとつ勝負をしようではないか、という声もありましたが、力士の怪力ぶりをみて皆がシュンとなったといいます。

 3月27日(西暦)にはポータハン号で饗応(きょうおう)が模様され、豪華な西洋料理と酒が出されました。

 ペリー提督日本遠征記
「主席委員の林は、ほとんどすべての料理に手をつけたものの、食事も酒も控えめだったが、ほかの委員たちは健啖家(けんたんか)ぶりを発揮した。松崎は酔ってすっかりご機嫌になっていたし、ほかの三人も陽気な酒だった」

 この催しは随分と日米両国でドンチャン騒ぎになり、松崎満太郎はペリーに抱きついたりしました。

 ペリー提督日本遠征記
「松崎などは、私の首に両腕をまわして、『ニッポンもアメリカも心は一つ』という意味の言葉をくどくどと繰り返していた。こんなふうに酔っ払って抱きつかれたせいで、私のおろしたての肩章は台無しになってしまった」
「翌日、条約調印前の最後の詰めのために条約館で会ったとき、この老紳士は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。艦上で羽目を外したのがきっと決まり悪かったのだろう」

ペリーの松崎満太郎評は「この人物については、わが国のだれかれとひき比べるのはやめておく(とても美男子とはいえないので)。ただ、そっくりな人物を知っているとだけ書いておこう」となっており、抱きつかれて随分迷惑だったかも知れません。

 こうして嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約を締結。200年以上におよぶ徳川の鎖国時代は終焉を迎えました。



※1 ヘロデ王・・・ユダヤの王でイエス・キリスト誕生当時の専制君主
※2 レヴァディ・ジョンソ・・・アメリカの弁護士、上院議員。駐英公使となりイギリス外相クラレンドンとの間で、ジョンソン・クラレンドン条約の交渉を行った。
※3 南北戦争直前の第十五代アメリカ大統領。


参考文献
 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)
 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)
 小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)
添付画像
 伝来した機関車模型嘉永年間渡来蒸気車(PD)

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