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かつて日本は美しかった このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-10-20

東中佐の突撃 − 第一次ノモンハン事件

 第一次ノモンハン事件で捜索隊(偵察任務のほか攻撃任務も行う)の東中佐ら19名は敵に包囲され、突撃攻撃を試みます。部隊の飯島少尉は戦車に飛び乗り、乗員を刺殺、次の瞬間に胸に弾が貫通し、もはやこれまでと敵戦車上で割腹しました。東中佐は日本刀を持って突撃し、榴弾に倒れました。(池田軍医中尉の目撃談)こういった行為は戦後論調ではバカな突撃、精神主義といわれそうですが、これでソ連軍はビビッて200メートルも退却してしまいました。これがなければ目撃した池田軍医ほか負傷兵の命運も尽きていたかもしれません。

 日本軍の白兵戦はソ・モ軍にとっては恐怖であったのと、日本兵の銃剣術によってバタバタやられたので、銃剣術の有効性を認識したようです。ソ連はノモンハン戦後に銃剣術を取り入れ、対ドイツ戦で使い効果をあげているようです。

 東中佐のことは外蒙古軍(モンゴル軍)の間でも知られていて「太陽の先生(ナラン・バクシ)」と言われていたようです。日本兵捕虜から聞いたのだと思います。当時、モンゴルは日本のことをナラン・オルシス(太陽の国)と呼んでいたそうです。モンゴル人が日本をどう思っていたか垣間見ることができますね。

 1990年にノモンハンの戦場の慰霊に東中佐の三女の方がおり、同行していた言語学者の田中克彦氏はモンゴル軍の国境哨所長に「あの人がアズマ中佐の娘さんです」と言ったところ、所長は東中佐の娘さんを誘って馬に乗せ、草原を散歩していったそうです。



参考文献

 「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共著

 「ノモンハン戦争」田中克彦


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2009-10-19

第一次ノモンハン事件

 1938年には外蒙古(モンゴル)から満州へ166件の越境事件が起こり、1939年にはいると1月に来襲してきたソ連軍を逮捕。2月から4月にかけて17件の越境事件が起こります。

 5月4日、外蒙古兵がノモンハン地区を襲撃、5月11日、外蒙古軍がが越境、これを満州国軍が撃退。15日、東捜索隊が現地到着し、ノロ高地のソ・モ軍を撃退。渡河退却中の外蒙古軍を軽爆撃で爆撃。17日、東捜索隊はハイラルに帰還しますが、捕虜の尋問からソ・モ軍がハルハ河右岸に集結したとの情報から1,600の日満軍が出動します。スターリンが外蒙古制圧の口実のために国境紛争を起こしたのです。

 これまでノモンハン事件日本軍ソ連の機械化部隊の前に歯が立たなかったといいますが、ソ連車両の装甲は前面でも11ミリ、側面では6ミリであり、13ミリ機関銃重機関銃でしとめることが出来たというのが事実のようです。しかもソ連戦車団は走行しながら砲撃する技術を持っておらず、戦車に歩兵を随伴していなかったため、視界の悪い鉄の棺おけ状態だったようです。

 航空機戦でもソ連軍は燦々たるものでした。

 歩兵64連隊 牧山重信氏

「5月28日、丁度11時、ふと空をみると驚いた。数十台の飛行機が戦闘を開始している。もの凄い空中戦。次々とソ連機が撃墜され、日本機が敵機を追いかける。四十数機の撃墜はこの時の大戦果。全く胸のすくような空中戦であった」

 5月31日までソ連機180機を落とし、日本側損失は0(あるいは7機)。ソ連機はは日本機に全く歯が立たず、「日本の航空機を見たら逃げろ」と、戦闘禁止命令まで出てしまいます。

 ソ連は司令官のフェクレンコ中将を更迭し、ジューコフ中将を司令官にします。このジューコフ中将は後にモスクワ防衛司令官となり、スターリングラードでドイツ軍と戦い、対ドイツ戦で逆転し、ベルリンを占領した軍人です。戦後、米国ミシガン州大学のハケット教授や新聞記者歴史学者と会談した時、どの戦いが一番苦しかったかとの質問に即座に「ハルハ河(ノモンハン事件のこと)」と答えて周囲を驚かせ、日本軍の精強さを改めて知ったそうです。



参考文献

 「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共著

 「ノモンハン戦争」田中克彦


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2009-10-18

中国大陸史上初の法治国家「満州」

 満州国は建国以来、国内の法を整備し、遵法精神の普及につとめ結果、中国大陸史上初の法治国家が整います。これには裁判官、警察官の増員と教育が必要で日本から満州へつれてくるのと、国立新京法制大学に日本人、満州人の学生を入学させ育成します。こうした法整備は1937年に完成します。これによって満州国における日本人が享受していた治外法権は撤廃となります。さらに満州鉄道付属地の行政権満州国へ移譲となります。西洋の植民地でこのようなことはあったでしょうか。満州国総務長官を務めた星野直樹はこう述べています。

「満州の状態は一変した。治安は完全に確保され、国内には一人の兵匪もいなくなった。農業国から立派な工業国となり、総生産額は倍増した。国民生活は目覚しく向上した。東亜各地から集まってくる人は数多く、三千万人であった人口は五千万人を超えるに至った」「治外法権は撤廃され、満鉄付属地は廃止された。日本人も満州在来の人々と同じように税を納め、法規に従うこととなった」

 満州は中国大陸史上初の近代的な法治国家であり文明国家だったのです。満州にはユダヤ人も居ましたが、彼らもそう証言します。

 星野直樹は満州の人口が5,000万人と述べていますが、1938年は3,900万人,1941年には4,300万人のようです。毎年約100万人が満州へ渡っています。ひどい所に人が集まったりなどしません。我々はGHQが作った「日本は満州を植民地にして搾取した加害者」という洗脳から抜け出さねばなりません。

 もちろん急進的に改革を進めたのはソ連の脅威も手伝っています。また急な改革は弊害も生みます。日系官吏が増えて他民族よりも俸給が多くなっていたり、協和会という建国の理想を護持する会を日本軍人がいつまでも陣取っていたりしています。(本来、協和会も満州国に移譲するはずだった)再び満州に赴任してきた石原莞爾は、これらの不満を聞きますが、東條英機に発言を封じ込められ孤軍奮闘し、とうとう閑職に追いやられてしまいます。



参考文献

 「日本の植民地の真実」黄文雄著

 新人物往来社「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行

 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子著

 「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著

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2009-10-15

張鼓峰事件

 1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰(ちょうこほう)で発生した満州とソ連の国境紛争です。日本は日中戦争が既にはじまって1年たっており、ソ連は外蒙古(モンゴル)に大量のソ連軍を入れて安全にし、更に、ポーランド侵攻を考えていましたから、日本軍の反発力を試したようです。ちなみに日本軍日満議定書により満州国の共同防衛の義務があります。

 ソ連軍は国境を越えて張鼓峰に陣地を構築します。朝鮮軍第19師団がこれを撃退したところ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始しています。その北方の沙草峰でもソ連軍が攻勢を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開されます。この戦闘は日本軍は不拡大方針であったため飛行機の使用と戦車も出動しないので苦戦を強いられましたが、退かず守っています。ソ連は飛行機で爆撃を行っています。

 8月11日、重光葵とマクシム・リトヴィノフの会談によってモスクワで停戦が合意されました。その結果、第19師団が両高地頂上を死守していた状態での停戦となり圧倒的日本軍の勝利で終わっています。このことによりソ連のブリュッヘル極東司令官らは粛清にあうことになります。

 日本軍:戦死者  526名、負傷者  914名

 ソ連側:戦死者1,200名 負傷者4,300名

 数字みても結構な規模の戦闘だったことがわかります。国境線は1860年の北京条約やその他の地図で日本側の主張が正しいことは認められています。ソ連はそれでも自分の領土だと言ってきています。撃退しなかったらずっと居座るのです。現代ではソ連はもうありませんが「尖閣諸島」は中共が「自国領土だ」と無理やり言っているので気をつけなければなりません。

 ソ連は日本の不拡大方針を確信し、外蒙古に兵を入れるためノモンハン攻撃と更にポーランド進攻を着々と進めていくことになります。

 ニコニコに張鼓峰事件アニメがあるんですね。おどろきました。ソ連のリュシコフ大将が歩いて越境亡命したこともここでの戦闘の一因になっていると思われます。この頃、ソ連では軍事粛清が行われた頃で、この亡命には当時、日本国内の新聞の号外で報じられました。リュシコフ大将は日本の敗戦時に大連で日本人将校によって射殺されました。ソ連がくればなぶり殺されるためでしょう。



参考文献

 「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共著

 「ノモンハン戦争」田中克彦

参考サイト

 WikiPedia「張鼓峰事件」

参考映像

 「張鼓峰事件の巻」http://www.nicovideo.jp/watch/sm3578072


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2009-10-14

ゲンデン首相の悲劇

 1932年(昭和7年)、外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)はゲンデン首相が就任します。1935年(昭和10年)、スターリンの命を受けたソ連派がハルハ廟事件を起こし、満州国へ侵入しますが、ゲンデン首相は隠れ親日家であり、軍に国境線から数キロの撤退命令と不戦命令を出し、戦闘を禁止します。そして国境確定会議であるマンチューリ会議が開かれます。

 1934年にソ蒙相互援助秘密協定が結ばれており、スターリンはゲンデン首相に公式化を要求しますが、ゲンデン首相が引き伸ばしたため、スターリンは外蒙古の副首相のチョイバルサンを使い、日満軍を攻撃(オランホドク事件)し国境紛争によってソ連軍の外蒙古駐留を認めるように圧力をかけていきます。ソ連としては満州国は脅威であり、外蒙古と満州国が手を結ぶのを恐れており、なんとしても外蒙古を掌握したかったのですが、ゲンデン首相は抵抗します。またスターリンラマ僧を一掃するよう要求していましたが、ゲンデン首相仏教帰依しており、これも抵抗の要素になりました。

 1936年(昭和11年)3月、「ソ蒙間友好条約」「相互援助議定書」が締結されます。ゲンデン首相は解任。国境警備隊を内務省直轄にして親ソ派のチョイバルサンの指揮下になります。

 ゲンデン首相には有名なエピソードがあります。(モンゴルでは有名らしい)

スターリン「日本が攻め込んできたら君はどうするつもりなんだ。」

ゲンデン「私は祖国を捨てて逃げたりはしない」

スターリン「坊主どもはどうするんだ」

ゲンデン「我国は人口が少ない。ラマ僧は還俗させて働かせるつもりだ」

スターリン「ゲンデン、君はラマ僧といっしょに社会主義をやろうなんてよく言うね。モンゴルのハーンになろうとでも言うのかい」

ゲンデン「グルジア人のスターリンさん、あんたこそロシアのハーンに君臨しているじゃないか。私がモンゴルのハーンになって悪いかね」

 このように言い放ってけんかになり、ゲンデンはスターリンのほっぺたを「平手打ち」したうえ、『足蹴にし』、「パイプを取り上げて投げつけた」と言います。

 ゲンデンは1936年7月に逮捕され、拷問をうけ、自分が日本にやとわれえスパイになったと自白強要させられ、ソ連があらかじめ作成していた112人のリストを共犯者として同意させられました。この名簿はチョイバルサンに渡され「反ソ反革命日本のスパイ組織参加者」の一斉検挙となります。

 1937年11月、ゲンデンは処刑されます。これよりノモンハン事件が起きるまで2万6千の蒙古人が粛清されたといいます。外蒙古の人口が80万人ですから、人口の約6%です。いかにすさまじい出来事だったかわかるでしょう。

 


参考文献

 「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共著

 「ノモンハン戦争」田中克彦

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