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かつて日本は美しかった このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-01-30

ペリーが見た江戸日本

ペリーが日本を見て驚いたこと。

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 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。ペリーは翌、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて再び来航し、条約締結を求め、3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約を締結しました。ペリーには江戸日本、日本人はどう映ったのでしょうか。

「日本人の並外れた好奇心には驚かされる。わが国の独創的な発明品の数々を展示すると、彼らはあの手この手で飽くなき好奇心を満足させようとした。日本人にとっては、どの展示品もこの上なく珍しかったに違いないが、それをこと細かに観察するだけでは気がすまず、士官や乗組員らの後をついてまわり、機会さえあれば衣服に触ってみようとする」

日本人の好奇心には驚いたようです。珍しくて「ほう」と感心するだけでなく、しつこく飽きることなく見て回るのです。

「乗艦を許された人々も同じように詮索好きで、近づけるところなら隅々までのぞき込み、あちこちの寸法を測ったり、目に触れるものはなんでもかんでも独特の流儀で写生したりする」

技術を盗もうとしたわけです。さらにペリーは鋭い観察をしています。

「実際的および機械的技術において、日本人は非常な巧緻を示している。・・・日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技能を有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバルとなるであろう」

江戸日本には既に一定の高い技術力があったことを示しています。だから黒船を評価でき、持ち前の好奇心で様々な角度から分析できたのです。ペリー初来航から2ヶ月後には洋式大型軍艦の建造に着手し、翌年には完成させています。「鳳凰丸」です。蒸気機関車の模型も安政2年(1855年)には走らせることに成功しています。

「読み書きが普及しており、見聞を得ることに熱心である。・・・彼らは自国についてばかりか、他国の地理や物質的進歩、当代の歴史についても何がしかの知識を持っており、我々も多くの質問を受けた」「長崎のオランダ人から得た彼らの知識は、実物を見たこともない鉄道や電信、銅版写真、ペキサン式大砲、汽船などに及び、それを当然のように語った。またヨーロッパの戦争、アメリカの革命、ワシントンやボナパルトナポレオン)についても的確に語った」

識字率は大きなポイントです。明治期の日本人の識字率は50%を超えており、当時の世界一の大国であるイギリスの20%を凌駕していました。こうしたものに対してフランスの社会学者ピエール・ブリューディは「文化資本」という概念を適用しています。知識、知性、教養、マナー、伝統的なものなどを指し、ブリューディは「社会資本より文化資本の方が強い」と指摘しています。比較文化学者の金文学氏によると日本は江戸期に高い文化資本を持っており、これが明治に入って西洋文化を吸収し、近代化に成功した秘訣だと述べています。また外国人は日本を植民地化することはできないと考えた理由の一つだとも指摘しています。

「4月25日の午前二時頃、下田沖に停泊中のミシシッピー号に二人の男が近づいてきた。瓜中萬二こと吉田寅次郎と、市木公太こと渋木松太郎の二人である。旗艦では通訳を出し、その男たちの要望を聞いた。合衆国へ連れて行ってほしい、世界を旅行し見聞を深めたいと言う。この行為はアメリカの法律では無罪でも、日本の法律からみると犯罪であり、相手国の法律を尊重するには引き返してもらうより他なかった」

吉田寅次郎吉田松陰のことです。ペリーはこの二人を漢文を淀みなく見事に書き、物腰も丁寧で精錬されている」「知識を求めて生命さえ賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲」「道徳的・知的に高い能力」と評価しており、「日本人の志向がこのようであれば、この興味ある国の前途は何と有望なことか」と評価しています。

 ペリー条約締結後に下田へ行っています。ここでも様々な交渉で衝突しています。そして交渉がまとまり、下田を去ることになります。

「いよいよ私が最後の別れの挨拶を述べたときは、彼らは心から名残を惜しんでくれた。前日に送った以下の覚書で、私はかなり厳しいことを書いているのだが」

「しかし、不誠実だとか、果ては二枚舌と言われても、日本人は決して腹を立てない。口がうまいとかずるがしこいとか言われるのを名誉と考えているのだろうか、と思うほどである」

どんな相手であっても、何か面倒なことがあっても、礼節を尽くすのが日本人です。むやみに感情を表に出さないのも日本人です。これらも日本の「文化資本」なのです。




参考文献

 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)

 小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)

 PHP新書「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」竹田恒泰(著)

 南々社「広島人に告ぐ! 我々は『平和』を叫びすぎる」金文学(著)

添付画像

 合衆国水師提督口上書(嘉永6年6月8日)(PD

 左よりヘンリー・アダムス副使(艦長)、ペリー水師提督、アナン軍使(司令官)

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2013-01-27

日米和親条約締結

戦争を回避し、無事条約締結。

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 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。このときは国書を手渡しただけでしたが、翌、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて再び来航し、条約締結を求めました。

 日本側は戦争をすれば敗北は必至であるから、戦争を避け、交渉によって交易を断るということを柱として交渉に臨みました。ペリーはアメリカ政府より先制攻撃は禁止する通達はうけていたものの「目的達成のためには、武力の行使にしり込みすることはない」上院報告書)というスタンスで交渉に臨みました。いわゆる砲艦外交です。またペリーは応対の仕方も緩急をつけるなど工夫しています。

 ペリー提督日本遠征記

「実際、私の見るところでは、この非常に賢明かつ狡猾な人々との交渉にあたっては、異国の住民 − 文明化された者も未開の者もいたが、 − との交流を通じて得た、けっして乏しいとはいえない経験を活用することが大切だ。そしてその経験から判断するなら、形式を重んずる人々に対しては、あらゆる儀礼を退けるか、逆にヘロデ王(※1)にもまさる尊大さとものものしさを装うことが必要なのである。

 この両極端を使い分けるにあたって、うまく演出できるときは尊大さを示し、私たちの慣行にそぐわないときはそうした尊大さを排するという方法をとってきた」

 日米交渉は3月8日(西暦)より横浜で始められました。日本側は林大学頭を筆頭に町奉行井戸対馬守、目付・鵜殿、儒者・松崎満太郎です。ペリーは日誌にそれぞれの人物評を書いています。

「第一の委員は林大学頭で55歳ぐらい。立派な風采で中肉中背、立ちふるまいは謹厳で控えめである。重要な問題はすべて彼に任されていたから、最高責任者と目されていたのは間違いない。その風貌は、ボルチモアのレヴァディ・ジョンソ氏(※2)に似ていなくもなかった」

「二人目は井戸対馬守で、年齢は50歳ぐらい、長身でかなり太っている。感じの良い顔立ちで、現在のロンドン駐在アメリカ公使ブキャナン氏(※3)に少し似ている」

 日米交渉は3月17日、24日、28日、31日の計5回と複数の下打ち合わせが行われました。林大学頭の整然とした理論展開により「通商」を回避することができました。また、ペリー側の挑発にも隠忍自重し、戦争も回避することができました。

 交渉の期間中、ペリー側より数々の品が贈呈されています。中でも蒸気機関車の1/4モデルは実際に蒸気機関で動くもので、日本側を驚かせました。日本側からは米や酒などを贈呈し、米俵の運搬には力士を使いました。力持ちをアメリカ側に見せつけようという目論見です。ペリー艦隊にも屈強の水兵がおり、巨体を見せつけられて、ひとつ勝負をしようではないか、という声もありましたが、力士の怪力ぶりをみて皆がシュンとなったといいます。

 3月27日(西暦)にはポータハン号で饗応(きょうおう)が模様され、豪華な西洋料理と酒が出されました。

 ペリー提督日本遠征記

「主席委員の林は、ほとんどすべての料理に手をつけたものの、食事も酒も控えめだったが、ほかの委員たちは健啖家(けんたんか)ぶりを発揮した。松崎は酔ってすっかりご機嫌になっていたし、ほかの三人も陽気な酒だった」

 この催しは随分と日米両国でドンチャン騒ぎになり、松崎満太郎はペリーに抱きついたりしました。

 ペリー提督日本遠征記

「松崎などは、私の首に両腕をまわして、『ニッポンもアメリカも心は一つ』という意味の言葉をくどくどと繰り返していた。こんなふうに酔っ払って抱きつかれたせいで、私のおろしたての肩章は台無しになってしまった」

「翌日、条約調印前の最後の詰めのために条約館で会ったとき、この老紳士は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。艦上で羽目を外したのがきっと決まり悪かったのだろう」

ペリーの松崎満太郎評は「この人物については、わが国のだれかれとひき比べるのはやめておく(とても美男子とはいえないので)。ただ、そっくりな人物を知っているとだけ書いておこう」となっており、抱きつかれて随分迷惑だったかも知れません。

 こうして嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約を締結。200年以上におよぶ徳川の鎖国時代は終焉を迎えました。



※1 ヘロデ王・・・ユダヤの王でイエス・キリスト誕生当時の専制君主

※2 レヴァディ・ジョンソ・・・アメリカの弁護士上院議員。駐英公使となりイギリス外相クラレンドンとの間で、ジョンソン・クラレンドン条約の交渉を行った。

※3 南北戦争直前の第十五代アメリカ大統領


参考文献

 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)

 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)

 小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)

添付画像

 伝来した機関車模型嘉永年間渡来蒸気車(PD

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2013-01-24

ペリーとの交渉で通商回避を成功させた林大学頭

優れた交渉術だった。

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 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。このときは国書を手渡しただけでしたが、翌年再び来航し、条約交渉が始まりました。アメリカ側は「親睦」「通商」「石炭等の補給」「アメリカ人漂流民保護」を目的としていました。日本側はまずは戦争にならないようにし、「通商」を避けたいと考えていました。交渉にあたったのは幕府応接掛で筆頭は林大学頭(はやしだいがくのかみ)(林 復斎(はやし ふくさい))で林羅山から数えて第十一代にあたります。儒学者、朱子学者でもあります。このほか、井戸対馬守、鵜殿鳩翁(うどの きゅうおう)、儒者・松崎満太郎が任命されました。林大学頭朝鮮通信使の応接にあたったり、オランダ国王の新書に漢文で返事を書くなど外交に携わっていました。

 さて、日米和親条約には「通商」は織り込まれていません。林大学頭はどのように交渉したのか。

ペリー「わが国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交の無い国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら帰国は人命を尊重せず、日本近海で難破船を救助せず、海岸近くに寄ると発砲し、また日本へ漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国人民をわが国人民が救助して送還しようにも受け取らない。自国人民を見捨てるようにみえる。いかにも道義に反する行為である・・・」

大学頭「・・・我が国の人命尊重は世界に誇るべきものがある。この三百年にわたって太平の時代がつづいたのも、人命尊重のためである。第二に、大洋で外国船の救助ができなかったのは、大船の建造を禁止してきたためである。第三に他国の船が我が国近辺で難破した場合、必要な薪水食料に十分の手当てをしてきた。他国の船を救助しないというのは事実に反し、漂流民を罪人同様に扱うというのも誤りである。漂流民は手厚く保護し、長崎へ護送、オランダカピタンを通じて送還している・・・」

ここでまずはペリーは林大学頭の反論を受け入れ、自説を取り下げます。そして通商の話となります。

ペリー「では、交易の件は、なぜ承知されないのか。そもそも交易とは有無を通じ、大いに利益のあること、最近はどの国も交易が盛んである。それにより諸国が富強になっている。貴国も交易を開けば国益にかなう。ぜひともそうされたい」

大学頭交易が有無を通じ国益にかなうと言われたが、日本国においては自国の産物で十分に足りており、外国の品がなくても少しも事欠かない。したがって交易を開くことはできない。先に貴官は、第一に人命の尊重と船の救助と申された。それが実現すれば貴官の目的は達成されるはずである。交易は人命と関係ないではないか」

ペリーの人命第一を逆手にとった林大学頭の反撃です。これにはペリーは沈黙し、しばらく別室で考えた末に答えました。

ペリー「もっともである。来航の目的は申したとおり、人命尊重と難破船救助が最重要である。交易国益にかなうが、確かに人命とは関係が無い。交易の件は強いて主張しない」

通商の回避は成功しました。ペリー自身は大統領の国書のほか、政府指示としてコンラッド国務副長官からケネディ海軍長官宛の書簡も受け取っており、ここでは(1)漂流民と難破船の救助・保護(2)避難港と石炭補給所の確保(3)通商、となっており、「通商」は三番目だったため、譲歩したと考えられます。しかし、なんらかの手は打ったという事実を残したかったのかペリーは清国とアメリカの交易を定めた条約文を取り出し、林大学頭に参考にと渡しました。

 ペリーは大艦隊を率いてやってきたわけですから、その武力を背景の強硬に「通商」を迫ることはできたはずですが、幸いにもペリーは論理を無視してまで力ずくで要求を呑ませるという粗暴な人ではなかったようです。

 ペリー艦隊の日本の法律を無視する測量や、抜刀、小銃発砲などの挑発行為、勝手に上陸して日本の防衛砲台に入り込むといった横暴にも日本側は隠忍自重し、戦争を避け、林大学頭の優れた交渉術により「通商」を回避できました。未曾有の国難にあたり、日本側は当初の目的を達成したのです。




参考文献

 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)

 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)

添付画像

 黒船来航(PD

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2013-01-22

日本開国へむけてオランダはどういうスタンスをとったか

唯一西洋の通商国オランダはどうしていたか。

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 江戸時代、日本は鎖国をしていましたが、オランダ、清とは長崎で通商を行っていました。いってみればオランダは日本との通商を独占に近い形で行っていました。幕末日本が開国か、攘夷かに迫られたとき、オランダはどのようなスタンスをとったのでしょうか。

 19世紀になると捕鯨の船団が日本近海に現れるようになります。北海道方面にはロシア艦船のうごきがあり、アメリカは日本に興味を持っているという情報が入ってきます。こうなってくると遅かれ早かれ日本は開国をしなければならなくなります。ならばオランダはアメリカやその他の列強諸国に対して先導者としてリーダーシップを握り、優位性を確保しようとしました。天保14年(1844年)、オランダは国王の名前で江戸幕府へ開国すべきであるとの勧告書を渡しています。

 そしていよいよアメリカが日本へ艦隊を派遣するとなると、オランダは再び開国勧告を行うことにし、オランダの国益を守るために有能な人材を長崎へ派遣しました。ドンケル・クルチウスです。クルチウスはアメリカ艦隊の詳細情報を「別段風説書」に記載し、幕府情報提供しました。

 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖にペリー提督率いるアメリカ艦隊がやってきてアメリカ合衆国大統領の国書を江戸幕府へ渡しました。そして、来年返事を聞きにくるといいます。幕府はクルチウスから助言を得ようと考えました。長崎奉行の大沢安宅、水野忠篤がクルチウスを訪ねました。

奉行「日本の患(うれい)を除くために穏やかな方法で対処すべしと、昨年の書簡にあるが、それはどのようなことか?」

クルチウス「外国では最近、航海が盛んになり、カリフォルニアより中国、あるいはロシアのカムチャッカなどへの航路上に日本があるため、在米大使からの報告によれば、アメリカは日本に石炭置き場を設けたいと考えている。諸国のうちアメリカが第一番に実現を望んでいる。

 その要望を一切無視して考慮しない場合、ついには戦争になりかねない。しかしながら、御国法をただちに改める訳にはいかないだろうから、制限を緩めることが日本の安全の計策だと考える」

奉行「日本の法度に抵触しない安全の策というのは、どのようなものか?」

クルチウス「外国の考えは、外国船にたいして日本人と同様の計らいが欲しいということだが、これは日本の国法に適わないから、オランダ人や中国人への対応と同様に、場所を限定すれば良い。

 清朝では、外国人を一切拒絶したために戦争となり、その結果、広東など五港を外国人が勝手に出入りできるものとした。このように戦争になっては面白からず、そうならないための安全の策を講じるように」

アヘン戦争で清国はイギリスに香港を取られました。戦争になれば同様の事態を予想せねばなりません。

奉行「もともと日本は小国で人口が多いため、土地の産物も国民が使うには不足しないが、外国に渡す余剰はない。外国と交易することで『自国の用を欠き』、百年もつはずのものも五十年で尽きてしまう・・・」

クルチウス「・・・近年の時勢の変化からみて、このままでは済まされまい。外国も、もともと御国と同様であったが、積年の練磨により、次第に国法を改め、富福強盛となったもので、エゲレス(イギリス)、フランス、ロシア、オランダなども同様である。一挙に国を開くのは無理だから試みに一港を開くのはいかがか」

奉行は通商について懸念を示しています。江戸時代、日本は国内だけで循環させる経済を築いていましたから、通商を行うと物資が不足する懸念があります。実際、この後の安政五カ国条約で通商が始まると国内の物資が不足し、インフレに陥りました。通商については奉行とクルチウスはさらに突っ込んだ意見を交換しており、幕府としては通商はなんとか避けたいという思いが強かったことがわかります。ちなみにこの後締結した日米和親条約の交渉中、日本側がしつこく注文をつけてくるのをペリーは辟易(へきえき)したようで、「日本遠征記」に「例えば『商品』という語を『物品』に換えるというような、どうでもいいような言い換えをいくつもさせられた」と書いています。「商品」だと通商を意味するので幕府が神経を尖らせていたことがわかります。

 こうしたオランダのスタンスは他国には比較的歓迎されたようでイギリスの公使オールコックは「日本を西洋の通商のために開放するように努力する一般の期待を勇気付けたのは、オランダ政府である」と好評価しています。




参考文献

 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)

 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)

 小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)

 岩波文庫「大君の都」オールコック(著) / 山口光朔(訳)

添付画像

 ヤン・ヘンドリク・ドンケル=クルティウス(Jan Hendrik Donker Curtius、1813年4月21日 - 1879年11月27日)(PD

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2013-01-19

ペリーは恫喝外交をおこなったのか

平和的交渉とは言えなかった。

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 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の四隻です。大砲は計73門あり、情報では海兵隊も乗船しているといいます。江戸幕府黒船艦隊が来ることをオランダから情報を得て知っていました。平和的な目的で来日するといいます。黒船艦隊に応対した浦賀奉行所の与力・香山栄左衛門は、大統領書簡と信任状をいれた二つの箱を見て、こう述べました。

「たった二箱の船荷のために大艦隊を組んできたのか」

 時代背景を見るとアメリカは原住民(インディアン)を追い落とし、メキシコと戦争し勝利し、カリフォルニア地方を奪い取り、西海岸まで到達しました。アメリカは野蛮人たちに文明と呼ばれる生産技術とその成果としての製品を教えて、文明の恩恵に浴させ、キリスト教を広めることに熱意を傾けていました。「マニフェスト・デスティニー」といい、それがアメリカの使命だとアメリカ人は考えていました。

 ペリー提督が海軍長官あてに書いたメモ。(1852年)

「メキシコからカリフォルニア地方を獲得したアメリカは、西海岸を越えて太平洋における領土拡大競争の場へ突入する」

「神は、文明開化の方法によってであれ、その他の方法であれ、アメリカ合衆国に対し、この風変わりな日本人を万国(nations)の一員とする先導役を指名した」

ペリーは完全に上から目線で日本を見ていたわけです。そしてペリーは太平洋に蒸気船航路を確立し、太平洋における商業・貿易を軍事力で統制することを目指しました。ただ、アメリカでは宣戦布告は議会に権限があり、アメリカ大統領フィルモアはペリーに「発砲厳禁」を命じています。

 大統領の「発砲厳禁」の命令があったとしても大艦隊の威容は相当な圧力になります。礼砲を撃つだけでも威圧はかなりのものです。また、自衛のための発砲は許されています。ペリーは浦賀にやってくると海の深さを測定しはじめました。日本の法律では禁じているとあらかじめ通告したのにかかわらず挑発してきたのです。

 大日本古文書 幕末外国関係文書之一

「蒸気船一艘江戸の方へ向かい駆出す、先へはバッテイラ4艘もて、海の深浅を測量しながら行く、川越の手にて差留候処、剣を抜船ふちに顕れ、寄らば斬らんとする仕方を致し駆通り、或は剣付鉄砲に真丸を込、故方船の二三間先を頼りに打をとかし駆通候、川越人数怒りに不堪早船にて浦賀へ問合せ、只今乗込候異船軽侮の致方忍び難き儀也、切しつめ申すへきとの事、浦賀にて、御尤もには候へ共、御内意は何れにも穏便との儀に有之、且つ又彼一艘切しつめ候とも、事済候と申にも無之、諸家申合行届かす、粗忽に手出し致し、却って兵端を開候ては恐入候間」

川越藩のものが測量を中止させようとすると、剣を抜いて挑発し、小銃弾を威嚇のために撃ってきたのです。堪忍ならず、浦賀へ問い合わせたところ、手を出して戦争になるようなことがあってはならない、と隠忍自重を申し渡されたのです。軍事力では勝負になりません。堪えるしかなかったのです。

 ペリー自身が脅しをかけたこともあります。二度目の来航のときです。幕府の応接掛が来るのが遅いので苛立って浦賀奉行の黒川嘉兵衛に次のように言っています。

条約の締結が受け入れられない場合、戦争になるかもしれない。当方は近海に50隻の軍艦を待たせてあり、カリフォルニアにはさらに50隻を用意しており、これら100隻は20日間で到着する」

 ペリー日誌にも「脅し」とはっきり書いたところがあります。アダムス参謀長が浦賀の応接会場を視察したときのことです。

「アダムス参謀長の今回の訪問で、好ましい結果が得られるとはまず期待できなかった。そこで手っ取り早く成果を引き出すため、脅迫を実行することにした。参謀長が留守の間に、艦隊を湾の奥に前進させ、江戸がこの目で見える地点にまで達したのである。その夜は、市中で打ち鳴らされる鐘の音が、マストの先端からはっきり聞こえるほどだった」

 林大学頭との応酬でもペリーは「戦争」をちらつかせています。漂着した外国人の扱いが非人道的であると批判している話の中で次のように言っています。

「我が国のカリフォルニアは、太平洋をはさんで日本国と相対している。これから往来する船はいっそう増えるはずである。貴国の国政が今のままであっては困る。多くの人命にかかわることであり、放置できない。国政を改めないなら国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する準備を整えている。我が国は隣国のメキシコと戦争をし、国都まで攻めとった。事と次第によっては貴国も同じようなことになりかねない」

これに対して林大学頭は日本が非人道的であることは誤りであると反論しています。

戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言うことは事実に反することが多い。伝聞の誤りにより、そのように思いこんでおられるようである。我が国は外国との交渉がないため、外国側で我が国の政治に疎いのはやむをえないが、我が国の政治は決して反道義的なものではない。我が国の人命尊重は世界に誇るべきものがある。この三百年にわたって太平の時代がつづいたのも、人命尊重のためである」

このようにペリーは日本を未開の国と見下し、圧倒的軍事力を背景に恫喝と挑発を交えながら江戸幕府と交渉していったのです。




参考文献

 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)

 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)

 小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)

添付画像

 日本の版画に描かれたペリー 嘉永7年(1854年)頃(PD

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