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2011-02-22

マレーの分割統治

デバイド・アンド・ルール。

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 現在のマレーシア、シンガポールは英国の植民地時代には分割統治方式をとっていました。マレーを三つに分割し、シンガポール、ペナン、マラッカの三州をイギリスの直轄植民地としました。もう一つは王国の形態を残した保護国を作りました。これをさらに二つに分割し、マラヤ連合州と非マラヤ連合州を作りました。土地だけの分割統治ではなく、マレー人は土着意識が強く、反抗心があるので、錫(すず)の鉱山開発やゴム農園といった重要な産業からは遠ざけ、僻地農村へ閉塞させました。そして同じ英国の植民地である香港から支那人を移住させ、鉱山開発に使います。そしてインド人を移住させて天然ゴムの栽培に使いました。英国はインドやビルマで成功した民族による分割統治、民族同士を反目させ、その上に君臨する方法を持ち込んだわけです。この分割統治は大変な後遺症となりました。

 分割統治の弊害はマレー人と華僑の衝突があり、1964年(昭和39年)に暴動に発展します。そして1965年(昭和40年)に両者の融和は不可能と判断され、シンガポールが独立しています。1969年には5月13日事件というマレー人と華人の衝突があり、暴動発生後の数日間で死者196人、負傷者439人の犠牲者を出す大惨事となっています。

 ジャーナリスト高山正之氏がクアラルンプールへ行ったとき、古本屋に漫画が積んであり、その中に英国のプロパガンダ漫画がありました。ビルマ戦線を舞台にして日本軍は悪逆非道でイギリス軍は強くて美男で優しく、ビルマ娘を助けるというストーリーだったそうです。その中のセリフで日本兵「リトル・イエロー・モンキー」と書いていたのですが、マレー人も有色人種ですからプロパガンダもうまくいくはずがありません。高山氏は古本屋の中華系マレー人に「リトル・イエロー・モンキーという呼称をどう思うか?」と聞いたところ、ものすごい目で睨んできたそうです。そこで「デバイド・アンド・ルール(分割統治)」を英語で教え、「中国系の人はマレーでは公務員になれないだろう?」というと、ようやくわかってくれたと言います。

 こうした分割統治はインドやビルマでも後遺症を残し、スリランカでも後遺症が認められます。スリランカはタミル人2割、シンハラ人7割、ムーア人1割という民族構成になっています。イギリスは少数のタミル人を使って多数のシンハラ人を支配させました。スリランカが独立した後、シンハラ人は仏教を国教化するなどシンハラ人優遇政策を取りました。このためヒンズー教徒のタミル人は激しく反発し、民族間抗争に発展して暴動や内戦がおこり、現在でもテロ事件が続いています。

 こうした白人の分割統治は日本でも戦後占領化でGHQが朝鮮人、台湾人を三国人と称して、朝鮮人が極悪非道な行為をしていくのをいくらか黙認していたことからも伺えます。この3民族が白人に牙を向いたのが、大東亜戦争ですから、3民族を離反させたほうが都合がいいわけです。さらに朝鮮半島を独立させて抗日組織を政府に当てました。韓国反日化を目論んだわけです。また、沖縄も日本民族とは別という意識を持たせようとしました。本土復帰まで、琉球政府というように「琉球」と言う言葉をよく使っているでしょう。この後遺症は沖縄のマスコミを見れば一目瞭然でしょう。



参考文献

 「日本人よありがとう」土生良樹著

 「日本はどれほどいい国か」日下公人高山正之 共著

 桜の花出版「アジアが今あるのは日本のお陰です」

参考サイト

 WikiPedia「シンガポールの歴史」「5月13日事件」

添付画像

 マレーの義勇兵1941年10月(PD


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2011-02-15

シンガポールへ、シンガポールへ

合言葉はシンガポールへ、シンガポールへ。

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 昭和16年(1941年)12月2日、大本営から山下兵団に「ヒノデハヤマガタ」の暗号電文が到着。12月8日、日本軍はマレー半島の東海岸、タイ領のシンゴラ、タベー、バタニ、そしてマラヤ領のコタバルへ上陸しました。日本軍は破竹の快進撃により1月31日にはマレー半島のジョホールバルへ突入し、占領。そして最終目標のシンガポールを目前とします。

 山下兵団長は北東からシンガポールへ上陸すると見せかけ、2月8日にゴム林に隠しておいた兵団に北西からシンガポールへ上陸させました。11日には本軍はブキッ・ティマ地区を、連合軍の弾薬・燃料の貯蔵のほとんどとともに占領します。また水源地も確保しました。しかし実は日本軍は弾薬がつきかけており、山下兵団長は2月15日にすべてをかけます。

 上陸した島田戦車隊

「乗員たちは3日の絶食と、睡眠不足と暑さと、砲弾に閉じ込められて、早く死んだほうがまだ、ましだ、と生きる苦しみから逃れようともがいていたのだ」

「今日は2月14日だな」「攻撃はまだですか。これではどちらが攻撃しているのかわかりません」

 2月15日払暁、遂に攻撃開始。墓地高地で激戦となります。ところがしばらくして敵はあっさり白旗をあげました。前線の兵士は「何だ今更」と怒りを表すもの、「万歳」を叫ぶもの、死んだ戦友を思い、涙を流すもの、様々いたといいます。この後、山下将軍が敵将パーシバルに「イエス」か「ノー」かと突きつける有名な会見となります。

 この山下将軍の「イエス」か「ノー」かとういのは倣岸に見えますが、日本軍には弾がないという事情がありました。しかも、日本軍は3個師団の4万弱であり、シンガポール防衛軍は10万。さらに英軍の増援部隊が到着するという情報もありました。英軍のパーシバル将軍は会見時間18時から30分も遅れて到着し、会見では無条件降伏を承認しながら「停戦時間を明日まで待ってくれ」と言うのです。これでは信用できません。

 山下将軍

「英軍は日本の兵力を5個師団以上と過大視していた。だからそんなことで時を費やし、味方の劣勢を気づかれてはと思うと、私は正直なところ気が気ではなかった。私としてはどうしてもあの場で、即時、無条件降伏させねばと思った」

 会談後に山下将軍が副官に漏らした言葉。

パーシバルがあまりにも青白い顔つきで気分もすぐれないようなので、最後に分かれの握手をしながら、何か一言いたわりの言葉をかけようとしたのだが、自分は英語が話せないし、第三者を通したのではこちらの真意が通じないと思ってやめた」

 山下将軍は入城式は行わず、シンガポール陥落4日後の2月19日に慰霊祭を行い敬虔な慰霊の辞を述べています。

「敵味方の戦死者と戦争に巻き込まれて死去された市民の霊に申し上げます」

 山下・パーシバル会見の場面は、シンガポール沖のセントーサ島にシンガポール政府が開設した戦争博物館に原寸大の精巧な日本製蝋人形で再現されています。この蝋人形は靖国神社の遊就館にあったもので、シンガポール政府観光開発局が昭和56年に歴史資料館でぜひ飾りたいといって譲ったものです。机は対談の時に使った実物でオーストラリア軍の寄贈だそうです。



参考文献

 「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター編

 「日本人よありがとう」土生良樹著

 「サムライ戦車隊長」島田豊作著

添付画像

 山下・パーシバル両司令官会見(PD

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敵軍遂に白旗揚ぐ

http://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI

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2010-12-16

神兵、東方より来る

予言どおり神兵がやってきた。

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 昭和16年(1945年)12月8日から始まったマレー攻略戦は鯉兵団が主力となります。鯉兵団は大日本帝国陸軍の広島を衛戍(えいじゅ)とする師団です。「日本一の機甲兵団」とも言われ、マレーでは自転車を連ねて走り「銀輪部隊」とも言われました。このほか18師団、近衛師団が参加しています。日本軍の進撃を見たマレー人にはマレーに伝わる伝説を思い起こさせました。

 ジョヨボヨの神話 

「マレー人を苦しめる白い悪魔を、東から来た黄色い軍神が打ち破り、ジャゴンの花が咲くまでの短い期間だけこの地にとどまり、やがて東へ引き揚げるが、そのあとに平和なマレー人の国が建設される」

 もうひとつ神話があります。

「マレーの神は、二人の兄弟を生みたもうた。兄は暴れん坊で弟は大人しかった。兄は国を捨てて海原遠く乗り出し、いまではますます強く、性格は激しさを加えている。弟はいよいよ大人しく、やがてその国は他人から奪われる。そして、弟はますますおとなしさを加えた。弟がほんとうに困ってしまえば、いつかは強い兄が助けに来てくれると弟は思っているのだ。その弟がマレー人なのだ」

 マレー人は東方から神兵、もしくは兄がやってきたと歓喜し、日本軍の戦車が来るとバナナやパイナップルやパパイヤ、ドリアンなどを投げて込んで歓声をあげました。

 タイ・マラヤの国境から約30キロの地点、ジットラに「ジットラ・ライン」がありました。英軍は日本軍の進撃を3ヶ月は食い止めると豪語していました。日本軍は豪雨を突いて佐伯中佐率いる捜索第五連隊(軽戦車部隊)が敵陣へ突入します。敵陣中なので孤軍奮闘し、翌日になっても友軍がやってこないので、戦車隊は全員死を覚悟しました。その晩、河村旅団が夜襲を敢行し、敵が退却。戦車隊は生き残りました。ジットラインはわずか2日の攻撃で突破しました。

 

 藤原少佐(F機関長)

「武運があった、神助があった。民衆が我々の絶対の味方だった。天、地、人、みな味方だった」

 

 そして日本軍はアロールスターを占領。ペナン島を無血占領します。英軍は橋を落としてたくみに退却し、時間稼ぎをしていましたが、スリムの戦闘では島田戦車隊が破天荒な戦車隊による夜襲作戦を敢行し、わずか12両の戦車で敵中深く突破し、救援に駆けつける敵部隊を次々撃破し、さらに敵中進入し、敵陣後方の野営地から砲兵部隊、司令部まで撃破しました。敵衛生隊にまで遭遇しています。このため軍司令部では島田戦車隊は全滅したと勘違いしたほどでした。英軍の陸軍史には「戦史上、最大の敗北」と記載されているそうです。

 さらに日本軍は休む間もなくクアラルンプールを占領し、ゲマスで勇猛なオーストラリア部隊と戦い突破し、1月31日にはマレー半島南端のジョホールバルへ突入しました。わずか55日の快進撃です。そしてシンガポール攻略戦となり2月15日に英軍が降伏します。

 

 後にシンガポールの首相となったリー・クワンユーは戦後、自衛隊の陸将となった元F機関長、藤原岩市氏に次のように訊ねています。

「英、豪、印連合軍は非常に多く、兵器は近代的であったのに、地下足袋を履いて、宮田自転車に乗った貧弱な日本兵に完敗した。日本軍の銃と砲は骨董品のような明治38年式なのに、なぜ勝てたのか」

 

 藤原岩市氏はこう答えました。

「絶対多数のマレー人と、インド人と、タイ人が全部我々の味方でした。反対に民衆を敵に回したイギリス軍華僑の連合軍は少数派だから完敗したのです」



参考文献

 「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター編

 「日本人よありがとう」土生良樹著

 「サムライ戦車隊長」島田豊作著

参考サイト

 WikiPedia「第5師団 (日本軍)」

添付画像

 マレー作戦で使用された自転車(PD)

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RisingSun また日は昇る 〜緒戦の快進撃〜

http://www.youtube.com/watch?v=p3uDIKUKouk

2010-04-16

マレー半島・シンガポールへ

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 昭和16年(1941年)12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、昭和17年(1942年)1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入しました。この快進撃を支えたのは現地の人たちです。

「星港攻略記」筑紫二郎著 昭和17年5月(GHQ焚書図書開封より) 占領した飛行場の修理の場面

 私達にはいつも味方があった。それは住民である。ジョホール・バールからやってきた避難民の住民たちがわれ先と集まってきて手伝ってくれた。彼らは一様に「早くシンガポールを陥してくれ」という。人力もなかなか馬鹿にならない。二日経つと何とか飛行機が降りられるようになった。

 日本軍は住民の支援を受けながら快進撃しましたが、ゲマスという山岳地ではオーストラリア部隊と一週間の激戦を行っています。

現代シンガポールの社会経済史(シンガポール中学校の教科書1985年版)

 オーストラリアの兵達の勇気は、日本兵、特に彼らの指導者によって称賛された。敬意の証として、彼らは、ジェマールアンのはずれの丘の斜面の、オーストラリア兵二百人の大規模な墓の上に一本の巨大な木製の十字架をたてることを命じた。十字架には、「私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために」という言葉がかかれていた。

 昭和17年(1942年)2月8日、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸。主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入、15日日本軍の砲弾が底をつき、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、英軍は降伏しました。

 このシンガポール陥落はイギリス軍史上最大規模の降伏であり、世界に衝撃を与えました。

フランス ド・ゴール将軍2/15の日記

「シンガポールの陥落は白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」

米歴史学者 ヘレン・ミアズ

「アジア大陸及び英仏蘭の植民地における日本の最初の勝利は、土着民の協力者達の活動によって獲得されたものである。二,三の著しい例外はあるが、日本の緒戦の成功は、ほとんど戦いらしい戦いをせずに獲得された。アジアにおけるヨーロッパの『所有主』達は、日本の軍隊に追われるというよりも、むしろ土着民の敵愾心に抗しかねて引き上げた。われわれは『解放』の戦とよんだが、アジアに於ける戦争はヨーロッパのアジア再征服 − (恥ずべきことには)アメリカの援助を伴った − の戦であることが判明したのである」

マラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏

日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです」

マレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏

「これまで独立なんて考えたこともなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年と8ヶ月の経験でした」

 マレーでは英にくっついて商売していた華僑日本軍が来るのを喜ばなかったため、ゲリラとして日本軍に抵抗しています。「マレーに進軍した日本兵が、赤ん坊を放り投げて銃剣で突き刺した」という反日プロパガンダもあります。なんと日本人がマレーに調べにきたことがあったようです。

ラジャー・ダト・ノンチック元上院議員

「先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、『日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ。』と言っていました。私は驚きました。『日本軍はマレー人を一人も殺していません。』と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。」



参考文献

 「GHQ焚書図書開封」西尾幹二著

 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編

参考サイト

 教科書が教えない歴史

   アジアにおける日本と大東亜戦争 マレーシア編 http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_3.html

 WikiPedia「マレー作戦」

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 クアラルンプールに突入する日本軍部隊(PD)

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2010-04-15

マレー沖海戦

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 昭和16年12月10日、マレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘で日本軍はイギリス海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈し、「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることはできない」との常識を覆し、世界の海軍戦略である大艦巨砲主義に影響をあたえました。

 ちょうどGHQ焚書図書開封3に「空の少年兵戦記」(昭和18年10月)で戦闘に参加したパイロットの話を紹介していました。

 敵は真下だ。艦橋や甲板の上から、見張り員が眼鏡で上を見ている。我が機が爆弾を投下したと見れば、大急ぎで変針して避けようというのだ。

「用意、打テッ!」

 指揮官機から命令が来た。窓から見ていると、爆弾は黒い尾を引いて刻々に小さくなりながら、敵艦に吸いつけられていく。敵艦はジグザグに蛇行しながら逃げ回る。

 弾着を見届けなければならない。敵の戦闘機、そんなものはお構いなしだ。俺は窓に頭を突っ込んむようにして覗いていると黒い煙が上がった。艦尾の左舷に命中したのだ。

(中略)

 俺たちが第二撃目に移った頃は、すでに味方の雷撃隊が肉迫していて、敵は気息奄奄(きそくえんえん)と言った形だった俺たちが帰途についた時だ。レパルスだか、ウエルズだかわからなかったが、戦艦が一隻、我が雷撃隊の挟撃を受けていた。雷撃隊は右から左から左から右から、入れ代わり立ち代り攻撃していた。

(中略)

 魚雷は白い航跡を描いて追いかけている。中(あた)るか?中ってくれ!ひやひやしながら見詰めていると、水煙があがった。黒煙もあがった。一緒だったかもしれぬ。はっきりと命中するのが見えたのだ。思わず喝采を叫んだよ。

 今は戦争の話というと「悲惨さ」を伝えるものしか見せないようになっているので、私は大人になったときたまたまマレー戦の戦記ものマンガを読んだとき、描写と人間模様に新鮮さを感じたものです。これを見せたからといって戦争を美化することにはならないし、戦争がおこるとは思えない。今の世はおかしな思想に歪められていますね。

 マレー沖海戦では不沈といわれた英新鋭・戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスを撃沈しました。このことは戦略的なもののほか精神的な面でも世界に大きな衝撃を与えました。

英首相チャーチル

「12月10日、私の部屋で電話が鳴った。それは軍令部長であった。彼の声は変だった。咳をしているようでもあり、こみあげてくるものをこらえているようでもあり、はじめは明瞭に聞き取れなかった。『総理、プリンス・オブ・ウエールズとレパルスが、両方とも日本軍に沈められたことを報告しなければなりません・フィリップス(極東艦隊司令長官)は水死しました』『その通りかね』『全く疑う余地はありません』私は受話器を置いた。私はひとりきりであることが幸だった。戦争の全期間を通じて、私はそれ以上の衝撃を受けたことがなかった」

インドの元大統領であるラグ・クリシュナン 1969年時

「(イギリスの植民地であった)インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは、想像もできなかった。それを、我々と同じ東洋人である日本が見事にも撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって、東洋人でもやれるという気持ちが起きた」

イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビー 毎日新聞1968年3 月22日付

「英国最新最良の戦艦二隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナムに明らかである」

 歴史の真実ですね。



参考文献

 「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二著

 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編

参考サイト

 WikiPedia「マレー沖海戦」

添付画像

 日本軍機の猛攻撃を受け轟沈するプリンス・オブ・ウェールズとレパルス(PD)


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