戦後国語改革のもたらした問題

・当用漢字字体表

当用漢字表が公布された翌年(1947年)7月15日、「活字の字体を整理統一する具体案を求め、教科書に用いるものを統一するだけではなく、一般社会において用いられるものもこれにならうようにすすめて文字教育の効果をあげ、教育上の負担を軽く」するという目的のもと、新聞・印刷・官庁関係者20数名からなる「活字字体整理に関する協議会」が設置され、同年10月までに小委員会9回、総会8回を開いて原案を作成した。その原案を土台に、国語審議会内に設けられた「字体整理に関する主査委員会」が、翌1948年5月までに16回の会議を開いて「当用漢字字体表」を作成し、6月1日の第14回国語審議会総会の議決を経て答申。翌1949年4月28日、文部省の内閣訓令・告示により「当用漢字字体表」は公布された。

 「当用漢字字体表」とは、それまで日本で用いられてきた漢字の中でも比較的複雑であったり、多様であったりしたもの(所謂「旧字体」。以降本論では「正字」と記述する)を簡略化する目的で作成されたものである。今日一般的に使用される漢字の印刷字体(以降「戦後新略字」とする)は同表に拠るものである。

 さて当用漢字字体表では、その簡略化の過程において中国の簡体字のように漢字の構成要素ごとに体系的に変更を行なったわけではなく、戦前の日本人が手書き文字で慣例的に用いていた「筆写体」に基いて個別の文字を部分的に略字化した。以下にその具体例を示す。左側の少し大きめに記述された字が「戦後新略字」、右側の字が「正字」である。


(1) 点画の方向の変った例

(2) 画の長さの変った例

(3) 同じ系統の字で、又は類似の形で、小異の統一された例

(4)一点一画が増減し、又は画が併合したり分離したりした例

(5) 全体として書きやすくなった例

(6) 組立の変った例

(7) 部分的に省略された例

(8) 部分的に別の形に変った例

青空文庫サイト内【当用漢字字体表】より引用、http://www.aozora.gr.jp/kanji_table/touyoukanji_jitaihyou/

 言うまでもなく、「筆写体」に用いられる略し方は各人各様であり、統一字体があるわけではなかった。しかしそういった事実への配慮は当時の目まぐるしい国語改革の風潮の中でおざなりにされ、委員会はただ無節操に漢字の簡略化を図ったのみであった。そのため、正字の段階で存在していた漢字の組織体系や文字の成り立ちが、簡略化の過程において著しく損なわれてしまい、かえって我々が漢字を理解する際の妨げとなっているのである。

 例えば「漢字の組織体系」を乱した例として、「売」という文字が挙げられる。この戦後新略字は同表の「部分的に別の形になった例」に該当するもので、正字では「賣」であった。この字の構成要素である「貝」はもともと「貨幣」を意味する部首で、他に「買」「販」「購」といった漢字にも利用されている。しかしその中で「賣」だけが同表の基準により「売」と簡略化されてしまったため、その瞬間他の文字との縁が切れてしまい、意味の体系が乱されてしまった。

 また「文字の成り立ち」を損なった例として、「器」という文字が挙げられる。この戦後新略字は同表の「一点一画が増減し、又は画が併合したり分離したりした例」に該当するもので、中央の「大」は正字では「犬」となっていた。「器」は、もともと神への祝祷を入れる箱である『サイ(「U」の真中を横棒で塞いだような字形。これが「口」という字形に変化した)』をならべ、犬を犠牲に用いて清めた祭器を指す字である。そうした本来の字義が、新字体からはもはや推察できなくなってしまっている。

戦後国語改革の頓挫

 しかし、音標文字化に向けた国語改革の気運はその後急速に衰弱していき、最終的には頓挫してしまう。戦後の混乱も治まり、極端な進歩主義的風潮が落ち着きを見せると同時に、ことの重大さにようやく気づいた知識人たちがまとまって国語改革に反対し、その撤回を要求し始めたからである。しかしその時点で国語改革がおこなわれてから既に十年以上の年月が経過しており、もはや「当用漢字」「現代かなづかい」は撤回不可能なほど日本の言語文化に深く浸透してしまっていた。そのため、彼等の主張がいかに論理的に文部省を打ち破っても、いかに当該政策の継続が日本の文化にとって致命的であると論証しても、せいぜい音標文字化の進行を食い止めるぐらいの成果しかあげることができなかったのである。

 そういったわけで、日本語は「当用漢字」「現代かなづかい」以降急激な変化を一度も迎えることなく、かつて音標文字化を主張した人々にとっても、またそれに反対した人々にとっても到底納得のいかない形状を呈したまま、今日まで引き継がれている。国語審議会は現在も惰性的に存続してはいるものの、かつてのように理想の実現に向けて邁進するような気力はもはや持ち合わせておらず、さりとて戦後の改革を根本的に再検討するつもりもさらさらない。今やごく微温的な、無力なものに成り下がってしまっている。

「当用漢字」「現代かなづかい」の公布

 1946年9月21日、主査委員会により制定された「現代かなづかい」は国語審議会第11回総会に提出され、過半数の賛成を得て可決・答申。さらに同年11月5日には「当用漢字表」1850字が国語審議会第12回総会に提出され、こちらも過半数の賛成を得て可決・答申された。そして早くも同月16日、「当用漢字表」と「現代かなづかい」は内閣総理大臣吉田茂の名前で内閣訓令・告示公布されたのである。

 かくして文部省、国語審議会積年の悲願であった国語改革は、敗戦直後の進歩主義的風潮、そして占領軍の後押しという絶妙のタイミングがあいまって、初めて「国策」として日の目を見たわけである。ただ、前述の通り彼等は日本語の全面的な音標文字化(漢字全廃)を最終目標に掲げていたわけで、彼等にとって「当用漢字」とはその名の示す通り「当用」のものにしか過ぎず、この先の長い道筋における一里塚でしかないという認識であった。

「当用漢字」「現代かなづかい」の制定

 漢字主査委員会は前述の通り「標準漢字表」2528字の再検討を行った。1945年12月17日から翌年4月8日までの間に14回の会議が開かれ、そのなかで「標準漢字表」2528字を1295字にまで縮減、これを「当用漢字」として決議発表した。「当用漢字」では、使用頻度の低いとされた漢字が徹底的に排除され、公式文書やメディアなどで用いるべき漢字の範囲が示された。

 以下は同時に発表された教科書局長有光次郎の談話である。

『頻度数を標準にして選定したもので字画の難易には関係なく、その意味で完璧なものではない、国語の仮名書化ローマ字化なども前提として美しい耳だけでわかる日本語を完成せねばなるまい、いづれにせよ国語のゆくべき方向へこの1295字はまづ数の第一次制限を果たした点では大きく一歩前進したのである。 』

 しかしその後、無理な漢字制限は実行できないという意見があがったため、委員会内で18人編成の小委員会を組織し、その中でこれを再検討することとなった。この委員会は1946年6月4日から同年10月16日までに23回の会議を開き、最終的に当用漢字1850字を選定した。

 また現代仮名主査委員会は、1946年6月11日から同年9月11日までに12回の会議を開き、「現代かなづかい」を制定した。今日我々が日常的に使用しているかなづかいはほぼこれに準拠している。

G.H.Q.の後押し

 1946年3月5日、G.H.Q.の招きで来日したアメリカ教育使節団は、到着からひと月も経たない3月31日に報告書を提出し、その中で学校教育における漢字の弊害とローマ字の便を強調すると同時に、第二章「國語の改革」内で日本政府に漢字の廃止とローマ字の採用を勧告した。

 以下に報告書の本文を引用する。

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「日本の國字は學習の恐るべき障害になつてゐる。廣く日本語を書くに用ひる漢字の暗記が、生徒に過重の負擔をかけてゐることは、ほとんどすべての有識者の意見の一致するところである」

使節團の判斷では、假名よりもローマ字に長所が多い。更に、それは民主的公民としての資格と國際的理解の助長に適するであらう」

敗戦のもたらした進歩主義的風潮

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し連合軍に無条件降伏、以降1952年までG.H.Q.の統治下に下ることとなるが、こと「敗戦」という事実が戦後の日本に与えたショックは非常に大きかった。そしてそれはとりもなおさず、日本における進歩主義的風潮を煽る大きな原動力となったのである。

 当時の気運を知る上で有用となる主張を以下に2つ引用する。

 漢字を廃止するとき、われわれの脳中に存する封建意識の掃蕩が促進され、あのてきぱきとしたアメリカ式能率にはじめて追随しうるのである。文化国家の建設も民主政治の確立も漢字の廃止と簡単な音標文字(ローマ字)の採用に基く国民知的水準の昂揚によって促進されねばならぬ。

 私は60年前、森有礼が英語を国語に採用しようとしたことをこの戦争中、度々想起した。若しそれが実現してゐたら、どうであつたらうと考へた。日本の文化が今よりも遥かに進んでゐたであらうことは想像出来る。そして、恐らく今度のやうな戦争は起つてゐなかつたらうと思つた。我々の学業も、もつと楽に進んでゐたらうし、学校生活も楽しいものに憶ひ返す事が出来たらうと、そんな事まで思つた。

 そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。60年前に森有礼が考へた事を今こそ実現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。森有礼の時代には実現は困難であつたらうが、今ならば、実現出来ない事ではない。

 この2つの主張から読み取れるのは、「これまでの日本はその一切が邪悪であり間違っていた、だから敗戦したのだ」という劣等意識の表出が、政治的・経済的議論の場のみならず、文化、とりわけ国語を巡る議論の場にまで広く及んでいたという事実である。欧米列強に追いつくためには全くの白紙状態から『新日本』再建を模索しなければならない、その際文化の根幹を成す「言語」を欧米のそれに近づけることこそが、文化的な国家をつくる上でなにより必要な要件となる、などといった極端な進歩主義的論調が、「敗戦」という圧倒的事実に依拠する形で俄然説得力を伴って罷り通り、当時の日本を代表する風潮として全国に蔓延したのである。

 当然、かねてから日本語の音標文字化を悲願としてきた文部省と国語審議会は、この風潮に大きく勢いづけられた。敗戦直後の1945年11月、さっそく文部大臣田中耕太郎が国語審議会に対して「標準漢字表」の再検討に関し諮問、「(標準漢字表再検討に関する)漢字主査委員会」が設置されたのである。(「標準漢字表」とは1942年、国語委員会が文部大臣に答申したもので、「常用漢字」1134字、「準常用漢字」1320字、「特別漢字」74字、計2528字よりなる。同表は「常用漢字」をもとにして、公文書、教科書などで使用する漢字の範囲を定めようという目的で決議されたものの、結局採用されないでいた。)また、音標文字化に向けては漢字だけでなくかなづかいの平易化も必要であると考えられ、のちに「仮名遣主査委員会」も設置された。(それ以外にも「漢字に関する主査委員会」「当用漢字音訓整理主査委員会」「義務教育用漢字主査委員会」「活字字体整理に関する協議会」「字体整理に関する主査委員会」「中国の地名・人名の書き方に関する主査委員会」「外国(中国)の地名・人名の書き方に関する主査委員会」「国語審議会の組織運営等の刷新に関する委員会」「国語審議会改組小委員会」が戦後相次いで設置されるが、「活字字体整理に関する協議会」と「字体整理に関する主査委員会」については後述、それ以外については本論での説明を割愛する。)