教皇フランシスコ『愛の悦び』 Amoris laetitia 第8章 (つづく 293-295)
293.司教たち(synod fathers、世界代表者会議・シノドス参加者の司教たち)は〔信者同志の〕民法だけによる結婚(merely civil marriage)または事実結婚(simple cohabitation)−この二つの結ばれ方の間にしかるべき区別をつけた上で=の特定の状態に焦点をあわせて次のように指摘した。「そのように結ばれたカップルの結合(union)は法律上認められた〔公的なきずなの〕特定の安定性を備わっており、親密な愛および子どもに対する責任および試練を克服する能力によって特徴づけられた場合、司牧的な配慮をする機会になりうる。 こうしたカップル〔の状態、あり方〕は結婚の秘跡〔の実現〕のほうへ向かっていると言えて、その途上の上で、彼らの歩みに同伴する好機と見ることができる。(注315 Relatio Synodi 2014, 27)
一方、最近、結婚の制約に対して多くの若者たちが不信を抱いていることを懸念し、また多くの信者が、引き受けた婚姻の絆を性急に断絶した暁に、すぐ新たなきずなを結ぼうとするのだが、わたしたちはこの現実に対して心を痛めている。というのも、その若者たちは「教会の一部をなすこれ信者であり、〔個々の状況を十分に〕識別した司牧的な関心とあわれみ、そして励ましを受ける必要があるからである。(注316: Ibid.26)。
司牧者の役割はキリスト教の結婚観を促進させるだけではなく、「この〔結婚に理想を〕現実に合致しない状況の中で生きている多くの人を助けること」でもある。「キリスト教の結婚を宣言し、促進する一方で、シノドスは、もはやこの現実を生きていない多くの人々の状況について、司牧的な識別がなされることを奨励する。(注317 Ibid. 41 )この人々の生活の中に、結婚の福音の十全性に対する、より開かれた態度へ導く要素を発見するため、彼らとの司牧的な対話に入ることが重要である。司牧者たちは、福音化と人間的・霊的成長のためになるような要素を見いだしていかなければならない」。(注318 Ibid. )
294.「民法上の結婚または、他の場合、同棲関係だけに留まることを選ぶのはしばしば秘跡的な結びつきに対する先入観や抵抗の為ではなく、種々の文化上の偶然の理由の為である」。(注319 Final Report 2015, 71 )これらの状況において、「神の愛を何らかの形で映しうるしるしを評価できよう」(注320 Ibid.)
周知のとおり「長期間にわたって同棲した後で、教会での結婚を求める人々の数が増え続けている。単純な同棲は、しばしば、制度や絶対的な制約に対する漠然とした反感によることも多い。しかし生活面での安定(雇用や定期的な収入)を確保するまで待っているということもある。またさらに他の国々では、事実婚が非常に多くなっているが、これは家族や結婚の価値の拒否ばかりでなく、社会的状況の中で結婚は金銭的負担が多すぎると考えられているためであり、物質的な貧困が人々を事実婚に押しやっているという状況も存在する」。(注321 Relatio Synodi 2014, 42)
しかし「すべてのこうした状況に直面して、建設的な仕方で対処しなければならあい。これを、福音の光によって結婚と家庭の完成に向けて歩み始める好機に変えていかなければならない。それはこうした状況を忍耐と微細さをもって受け止め、ともに歩んでいくということである。(注322 Ibid.43)これこそサマリアの女性に対してイエスがとった態度(ヨハネ4、1−26参照)であり、真の愛を求めていた彼女に言葉をかけ、その人の人生を暗くしていたすべてのことから解放し、福音の真の喜びに導いた。
295.この意味で、聖ヨハネパウロ2世は「段階性の原則」(the law of graduality、段階的に人を導くこと) を提言し,つまり、「人間は成長するにつれて道徳的善を知り、愛し、それを実現する」(注 323 Familiaris consortio 34)。それはいわゆるgraduality of the lawつまり、法則そのものにおける段階ではなく、法の客観的な要請を十分に理解し、評価し、実践する条件に置かれていない人の自由な行為の実践のしかたにおける懸命な導き方である。法もまた神の賜物であり、道を指し示すものである。この賜物はすべての人のためのものであり、恩恵の助けによってその要請に従って生きることが可能である。ただそれぞれの人は異なった「成長段階をたどって進み、故人と社会の生活の中で神の賜物を段階的に生かしていき、神の決定的で絶対的な愛の要請に答えていくのである」。(注 324 Ibid. 9)