教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.97-98

自慢せず、高ぶらず

97. 自慢する者は他の人より自分が誇ることができ、高ぶって人が圧倒されるようにします。愛する者はあまり自分について語らないし、相手を中心にして自分を中心にしないのです。

なお、愛は高ぶらず というと、愛は傲慢でないということです。背伸びしません。自分のよい特質をみせようとせず現実の感覚を失いません。自分が他の人より知識人や霊的な人だと思い込んでいません。

「知識は人を思い上がらせ、愛は人をつくりあげます」 (1 Co 8,1). 高ぶる人は自分型の人より偉大で、より知識人で他の人を従わせたいのですが、愛のある人はむしろ人を理解し、世話し、弱いものをまもります。こうした愛の態度においてこそ人の偉大さがあります。 (cf. 1 Co 4,18―19を参照。:「思い上がっている人々の言葉ではなく、力をたしかめさせてもらいましょう」.

98. こうした謙遜な態度をキリスト者の家族生活の中で実践し、信仰の弱い者や信仰教育が足りない者や確信がぐらつきやすい者を特に大事にしたいものです。ときどきその逆のことがみられます。家族の中で一番養成されている者は傲慢になってしまいます。愛には謙遜の態度がともないます。人を理解し、人を許し、人に心から使えるためには傲慢を避けて謙遜にならなければなりません。

「 偉くなりたい者は、かえってみなのしもべとなりなさい」 (Mt 20,26). キリスト者の愛に生きようとする者は自分が人の上にいると思わないで、人に自分の権力を感じさせるのではなく、「第一となろうとする者は最後になるようにしなさい」 (Mt 20,27).支配や競争ではなく、愛の道理こそ家族生活を導なければなりません。支配や競争の原理は愛を窒息させます。「互いに謙遜の特を身につけなさい」 (1 P 5,5).

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.99-102

愛され易い者、親切な者

99. 愛することは愛されやすい者になることでもあると言えます。「愛は礼を失わないし」〔または「親しき仲にも礼儀あり」と訳されうる)asjemonéi という言葉に留意したい。愛する者はずけずけと干渉しない、失礼なことをしない、硬くて扱いにくい接し方しない。振舞い方、話し方、身振りなどは快適で、はださわりがざらざらしていない、硬くない。愛は相手を悩ませたくない。礼儀は「自己中心でない感受性」をわたしたちに学ばせ、「心と感覚を相手に向けさせ、感じること、話すこと、沈黙することを教えてくれる。(Octavio Paz の引用、107]. キリスト者にとって親切であることは選択枝ではなく、放棄できない愛の要求です。「どの人間も周りの者に対して親切でなければならない」。たとえ相手は自分の人生の連れ合いあった場合でも、「他者の生活に立ち入ったらデリケートな気遣いを必要とし、攻撃的であってはならないし、信頼と尊敬は日々あらたにされなければならないのです。愛は親密で深ければこそ、相手の自由を尊重し、相手が自分のこころの門を開いてくれるのを待つすべを知る」のです。

100. 他者との出会いのため自分をととのえるには、親切なまなざしで他者を見る必要があります。しかし悲観主義的・否定的な態度でものごとを見るとき、親切なまなざしで他者が見られなくなります。他者の間違いなり欠点が浮彫にされるのです。ときには、そうするのは自分の劣等感を無意識のうちに隠すためかもしれません。親切なまなざしで他者を見たら、その方の限界ばかりにとどまらずに、その方を受け入れ、自分とは違う者であっても共通な計画で一致することができるであろう。親切な愛は絆を造り、結びつきを育て、人が互いにつながるようにし、しっかりした社会関係を確立します。そうすることによって愛は自分自身を守ります。帰属感なしに、他者のためになる生き方は長続きできなくて、そのうちに各人が自分の都合よいことを求め、ともに生きることが不可能になってしまいます。反社会的な人間は他の人が自分のために存在するかのように見てしまい、自分のニーズに答えるのは他者の義務だと思ってしまうので、親切な愛と親切な言葉を受け入れるための余地がありません。真の愛がある者は人をはげまし、力づけ、慰め、よい刺激を与えることができます。その例としてイエスの言葉を思い起こしたい。「子よ、安心しなさい」(マタイ9,2)。「婦人よ、あなたの信仰はりっぱだ」(マタイ15、28)。「少女よ、起きなさい」(マルコ5、41)。「安心しなさい」(ルカ7,50)。「恐れるな」(マタイ14,27)。これらの言葉は人を侮辱せずに、屈伏させず、いらいらさせません。家族の中でこのようなイエスの思いやりのある話し方を学びたいものです。

自我への愛着からの脱皮

101. 人を愛することができるように、まず、自分を愛せねばならぬと言われるが、これは自己の利益ばかり求めよという勧めではありません。自分を愛することができない者は他人を愛することを難しく感じるでしょう。愛の賛歌でパウロが勧めている愛は、自己の利益ばかり考えないことであり、何が他者の為になるかをいつも考えていることです。(ピリピ書 2, 3-4) で、はっきりと言われているように、「対抗意識をもったり、みえをはったりせずに、へりくだって、互いに相手を、自分よりすぐれたものと思いなさい。おのおの、自分のことだけではなく、他人のことにも目を向けなさい」。

102. トマス・アクイナスが説明している通り「愛してもらうよりも、愛することを求めることは愛徳の基本であり、」…「一番よく愛する者は母親です。母親たちは愛されることよりも、愛することを求めるのである」。そのために愛はただで愛し、単なる正義のある関係を超えるものです。そして「何もあてにしないで、貸してやる」ものです(ルカ 6,35)。最高の愛は人の為に命を与えることです(ヨハネ 15,13). ただであげること、最後まで自分を与えること。このようなことをする自己愛着なしの愛は今でも可能でしょうか。福音はそれを求め、勧めています。「ただで受けたものだから、ただで与えなさい。」(マタイ10,8)。

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.103-108

心の内部に暴力をなくそう

103.(愛は怒らず〉と訳されているparoxinétai (パロシネタイ)というのは心の中で抱かれる憤慨を抑えることを指しています。言葉や表情などで表現するのを抑えても、心の中で強い反感を感じているからわたしたちは相手に対して警戒する姿勢で向き合い、相手を避けて通りたい障害物や敵対関係にあるものとして見てしまいます。これは、おもてには現れない内部の暴力とでも言えるでしょう。このような攻撃性を養いたくありません。この攻撃性は、何の役にも立たないし、私たちを孤立にさせ、病気にもさせてしまうのです。健全な憤慨の仕方もあるのです。たとえば、大きな不正なことに対して反応しなければならないとき当然怒るでしょう。しかし、憤慨する心は他者に対する私たちのすべての態度や振舞いに浸透させるのは健全ではありません。

104、こうして怒らないように聖書で勧められています。「まず、自分の目から丸太をとりのぞけ」(マタイ7,5).「悪に負けてはいけない」(ローマ書12,21).「うまずたゆまず善を行いましょう」(ガラテイア6,9).自分の内部からあの攻撃性が沸いてくるのを感じることが避けられないでしょうが、それに同意することを避けたいのです。「あなたがたが腹を立てている間に日が沈むことがあってはなりません」(エフェソ書4,26)。一日の終わりに家族の中で仲直りしましょう。そのためには簡単なひとことやちょっとしたこと、言葉なしの愛撫でも足りるでしょうが、とにかく、和解せずにお休みにならないようにしましょう。人から迷惑をかけられたら心からその人を祝福しましょう。相手の為に祈り、相手の善を願い、神がその人の心を変え、解放してくださるように祈りましょう。そして神がその人をいやすように願いましょう。「兄弟愛と慈しみのこころをもち、謙虚で、悪をもって悪に、ののしりをもってののしりに報いてはいけません。かえって祝福をもって報いなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」(1ペトロ3,9)。

ゆるし合い

105.人に対する悪い感情をわたしたちの腹まで入るのをゆるしてしまえば、その内部に根をおろすでしょう。「愛は人の悪事を数え立てない」と訳される5節 のoú logízetai to kakónは〈ねたみを抱かない〉という意味です。言い換えれば、仕返しをするために相手の悪事の記録を心に刻みたくないのです。そればかりか、相手をゆるす積極的な態度を取ろうとし、相手の弱さを理解し、相手の悪事を大目に見てやれるために言い訳を見いだすほうがよいでしょう。イエスは、十字架に付けられるとき、言いました:「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分らが何をしているのか、わからないのです」(ルカ23,34).しかし私たちは度々相手の過ちを根ほり葉ほり探り、相手の悪い志を憶測で考えたり、その悪いと思われるところを大げさに捉えたりします。そのために恨みが大きくなり、ますますこころに根を下します。ちょっとした過ちや落ち度がきっかけとなって愛の絆と家族の安定が動揺します。ときにはすべての問題は同じ程度の重要さとし受け止められてしまいます。そうすると、わたしたちは人の失敗に対して残酷な態度をとりがちになります。自分の権利を主張するのも当然ではあっても、そのやりすぎは自分の尊厳を守らないかわりに、たえざる復讐の精神を育ててしまいます。

106.人から傷つけられたり期待を裏切られたりしたとき、許し合いが望ましいです。ゆるしし合いは可能ですが、簡単ではありません。家族内の一致の絆を保つためには、譲り合いの精神が働く必要があります。相手を理解し、寛容をもってゆるしあい、和解を求める必要があります。どの家族もわかるように、エゴイズムや不一致や緊張や葛藤対立が避けられずに、ときには致命的な傷を与えてしまうことがあります。家族の生活の中でたびたび多くの分裂が起こります。

107.人をゆるすことができるように私たちは、まず、自分自身を理解し、自分自身をゆるすことを学ばなければなりません。多くの場合、自分自身の過ちの為、または、愛する人への批判的なまなざしのため、自分自身を大事にすることを見失ってしまうことにもなりかねないのです。したがって人に出会うことから逃げることがあります。人間関係において多くの心配や恐怖に襲われることがあります。失敗を人のせいにすることは似非の慰めになるかもしれません。私たちは自分の歴史を振り返って祈る必要があり、自分を受け入れ、自分の限界を認め、自分自身をゆるすことさえも学ぶ必要があります。そのようにしてはじめて人をゆるせるようになるでしょう。

108.しかしこのことを可能にするためには、神から私たちはただでゆるされており、聖なるものとされている経験がなければなりません。私たちに先立って私たちのメリットなしにただで神の愛の対象になっています。神の愛はいつも私たちに新しい機会を与え、いつも励ましてくださり、良い刺激を与えています。神の愛は無条件だと受け止めましょう。父の愛はお金で買えないし、お金で返せないのです。このことがわかってはじめてわたしたちはすべてをこえて愛することができるようになり、私たちを不正にあつかった者さえもゆるすことができるでしょう。そうでなければ家族生活は愛し合い理解し合う場ではなくなり、同伴と励まし合いの場ではなくなり、相互の罰や緊張した関係の場になりかねないでしょう。

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.109-113

喜ぶ人とともに喜ぶ

109.<愛は不正を喜ばない>と訳されているoú hairei epí ta adikía, (ウ・ハイレイ・エピ・タ・アディキア)はこころの内部に隠れている悪さの根を指しています。それは毒とも呼べる恨みであり、悪事や不正の被害者になっている人の痛みをあわれむどころかそれを喜ぶということです。この否定的な態度とは違って聖書は勧めます、<愛は人とともに誠を喜ぶ〉というのです。これはつまり人の身によいことが起こることをこころから自分も喜ぶということです。喜ぶ人とともに喜ぶというのは人の尊厳を認め、人の能力を評価し、人の良いことをみて喜ぶことです。しかしいつも人と自分をくらべてばかりいれば喜ぶ人とともに自分も喜ぶことができなくなります。常に自分が背伸びするか卑下するかということだけにとらわれており、配偶者に対してさえもその人の失敗をみて心のなかで喜ぶということまで恨みをいだいてしまうことがあります。

110.愛する人は愛している人のためによいことをすることができるとき喜びます。愛する人は愛している人の人生は充実していることを見て喜び、相手の生きがいを喜び、神に感謝します。「快く与える人を、神は愛してくださる」(1コリント9,7).人のしあわせを喜ぶ者を主は評価します。人の善を喜び、人の善を楽しむ能力を養わずに、自分のニーズばかりを満たすことだけしか考えなければ、自分自身の人生を喜ぶことができなくなるでしょう。イエスが言うように「受けるより与えるほうが幸いです」使徒伝20,35.
すべてをゆるす

111.7節では「すべて」という強調のしかたではじまる四点が指摘されます。「愛はすべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ・と言っております。このように愛の活力が強調されています。愛の力は愛する人を逆行に泳がせ、逆境を乗り越えさせ、どんな障害物にも立ち向かわせることを可能にします。

112.愛はすべてをこらえるといっています。Panta sutegeiはすべてのミスには弁明の余地があると思うことです。先の5節に出た「悪を数え立てない」とはニュアンスが違います。すべてをこらえると言う言い方には沈黙と関係があり、相手のよくないところに関して黙っておくことという意味もほのめかします。いいかえれば判断を抑え、きびしくて容赦のない断罪をしないということです。「人を罪に定めてはならない。そうすればあなたがたも罪に定められないであろう」。ルカ6,37.み言葉がすすめます。「兄弟のみなさん、たがいに悪口を言い合ってはいけません」ヤコブ4,11.相手のイメージを傷つけることによって自分のイメージをよくしようとするときわたしたちは自分の恨みや妬みを吐き出してしまい、どんなに害を与えているかを気にしないのです。名誉棄損は大きな罪になりうることを忘れてしまうことがあります。名誉棄損は修復しにくい害を与えるのです。み言葉は厳しくこのことを戒めています。「舌は、体の器官の中で、不義の世界を代表し、全身を汚します…舌は死をもたらす毒に満ちています…この舌をもって、神にかたどって造られた人々を呪います」ヤコブ3,6−9 愛は人のイメージを傷つけないように気を使い、敵の名誉さえもきずつけないのです。神のおきてをまもるときこの愛の要求を忘れないようにしましょう。

113.互いに愛し合い、属し合う夫婦は配偶者の悪口を話さずに、相手の弱さと過ちを超えてよいところを浮彫にします。とにかく相手のイメージを傷つけないように気を使ってだまっておくことがあります。これは外的なジェスチャではなく、こころの態度です。もちろん相手の欠点を見ていないというナイブな態度のことではないのですが、相手の弱点を広い視野の中に位置づけられ、そうした欠点は相手のすべてではなく相手の存在のすべてではないことがわかります。ちょっとしたいやなことが二人の関係を傷つけても、それはその関係のすべてではないのです。わたしたちはみな光と影の複雑な混合であることを受け入れましょう。相手の中で私に迷惑をかけるそのことは相手のすべてではないのです。相手はそれ以上の者です。だから相手の愛を評価するときその愛は完全であることをもとめません。相手は自分自身のあるがままに見せて私を愛し、自分の限界の枠内でわたしを愛しており、その愛は不完全ではあっても似非の愛でもなく、真の愛の現実です。相手の愛は現実ではあるが、もし私はできる以上のことを相手から要求すれば、相手は何らかの形でそれは無理だとわからせてくれるでしょう。相手は神のような者でもなければ私のすべてのニーズにこたえる者でもないのです。愛は不完全性とともに共存することができ、それを大目に見て、愛している者の限界がわかって黙っておくことができるのです。

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.114-115

信頼

114.すべてを信じる、panta pisteuei パンタ ピステウエイというのはすべてにおいて信頼するということです。ただ単に相手はうそをついていないかと疑わないだけのことではなく、もっと基本的な信頼のことです。基本的な信頼は神が相手のこころの中につけた光を見抜き、闇の中で隠れており、杯の下によこたわっている下火を認めることができます。

115.こうした基本的な信頼は愛し合っている者どうしの関係において自由が失われないことを可能にします。相手をコントロルする必要がありません。自分の手から離れられないように相手を引き留める必要がありません。愛は信頼し、相手を自由にし、相手を支配せずに、相手を所有しようとしません。こうした自由は自律の場を認め、世界への開きや新しい経験への開きをみとめます。そうすることによって二人の関係がより豊かになり、閉じた自分たちだけの世界にとじこもらせないのです。配偶者それぞれの活躍の場から帰った時家族の外で受けたものや学んだものを家族の中で分かち合ってよろこびます。それと同時に前述した信頼と自由があるところに誠実と透明が可能となります。相手が私を信頼しており、わたしの根源的な良さを認めていることが分かるとき、安心してあるがままの自分をさらけ出すことができます。しかし相手が私を疑い、無条件に信頼していないと察知したら自分の秘密を隠し、自分の失敗や弱さを見せないで猫をかぶってしまうでしょう。それとは逆に愛情のある基本的な信頼のある家族ならどんなことが起こったにしてもいつも信頼をあらたに取り戻すことが可能でしょう。そのとき家族の各員の真のアイデンティティが現れ、おのずと嘘やごまかしや偽りが入る余地がないでしょう。

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.116-119

希望

116.すべてを希望する(panta elpizei、,パンタ・エルピゼイ)とは未来に対して絶望しないことです。相手にはいつも変わる可能性があると知っている者はあくまでも相手が成熟し、おもいがけないうつくしさが芽生え、隠れていたよい種が成長するのを希望します。もちろんこの世ではすべてがかわることがなかなかできないとわかりますが、いろいろなことは思う通りにはいかないにしても、曲がった道でまっすぐな歩みを導く神を信頼してこの世で相手が乗り越えることができなかった悪から良いことが生まれるようにするかもしれないとでも思うことができるでしょう。


117.そこまで希望を持つと、この世を超える希望に頼るということになります。つまり死のかなたに希望することです。さまざまな弱さをもっている人は、天において充実した生を生きることに呼びかけられています。そのときキリストの復活の栄光に変容させられるだろうその人の弱さや闇や病理が存在しなくなります。そのときその人の真の美しさと善が輝くでしょう。このことを思えば、今この世の苦しみの中でその人のことを希望の光に照らしてみることができ、今、見えないのに、天の国で見えるようになるだろうその人のうつくしさに希望をかけることができましょう。

118.すべて耐え忍ぶ。Panta hypomonéi (パンタ・ウポモネイ)は思う通りにはいかないすべての不愉快なことを積極的に受け止めることができるということです。周りの環境は敵対であっても、しっかりとがんばります。この耐え忍び方は、ただ単にじゃまになるものに対してがまんするだけではありません。より積極的なことです。たえず抵抗しなければならないところに抵抗することでもあります。どんな挑戦課題とも取り組むことです。愛することは、要するに、いろいろなことが愛さないように招くにもかかわらず、それでもなお愛することです。すべての否定的なことに直面しても、愛は頑固に善を選ぶことを止めないのです。Martin Luther Kingの言葉をおもいだします。「一番あなたを憎んでいる人や国は何かの良いことを心の中に持っています。いろいろなことがあるにも拘わらずその人を愛することができます“。

119.家族の生活の中でこの愛の力を育てたいものです。その力をもって家族生活がおびやかされている悪とたたかうことができましょう。愛は恨みに負けません。愛は人を軽蔑せず、憎まず、人から犠牲の償いをもとめません。キリスト者の家族内の愛は何と言ってもいろいろなことがあるにも関わらずということがあっての愛です。私は感心した素晴らしい模範を見たことがあります。ある人は自分を虐待していた配偶者から別れざるをえなかったにも拘わらず、のちに相手が病気や困難や苦しみに合った時、元配偶者だった方に対する愛徳をもって良いことをすることができ、世話までしたことがあります。その時自分の感情を超えて夫婦としての愛をもってかかわることができたその方は「にも拘わらず」という愛の仕方を実践していたと思います。