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タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会

この会では、タイで育つ日本にルーツを持つ子どもたちの幸福を、子どもを取り巻く全ての大人たちが、それぞれの立場から「ことば」を切り口に考えていきます。
ことばの力とは、自分を理解し、人を理解し、社会との関係を拓いていける力のことです。その力を育てるために一人でも多くの方々と一緒に考え、活動していきたいと思います。

2018-07-18

第14回セミナー「言語活動実践報告―体験とことば―」第2部 講師からのコメント

みつめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実

 子どもを育てる、ことばを育てる
 ―複数言語環境で育つ子どもが自信を持って生きるための言語実践―

2018年3月18日に終了した第14回セミナーの3回目の報告をします。前回の報告から随分時間がたってしまいましたが、今回は、第2部の実践報告に対する講師お二人のコメントをお送りします。

2部言語活動実践報告―体験と言葉実践報告 
●インター校高等部の実践「映像から学ぶ日本語」大倉尚己(NIST International School)
●親が創る日本語教室の実践「対話を起こし、体験を繋げる幼児部の活動報告」
  ケウホワサイ美穂子・高見志津・青木有里香・番場亮・鵜野晋(バイリンガルの子どものための日本語教室)


池上先生と石井先生からのコメント

《池上先生》f:id:jmherat:20180718150035j:image:w300:right
先ほどいただいた質問(自信について※)はこの会のテーマでもありますし、日本語教育を私は専門にしていますが、日本語教育の大きなテーマでもあります。まず、実践報告の意義というのを考えながらお話できたらいいなと思います。
※前回報告の最後に書いた保護者からの質問。

実践を語る意義
このセクションでは2つの実践報告がありました。ここでは、実践を報告するということの意義について考えてみたいと思います。2つの実践はとても面白かったです。思わずもっとメモを取ればよかったと後悔しながら一生懸命見てしまったんですが。特徴も対象も方法も違う実践が2つ並んだと思います。私たちはその実践を見る時には、どんな状況でどんな対象にどんな内容をどんな方法で行ったのか、というのを見ていくんですが、そしてさらにその結果はどうだったのかということも考えると思います。その結果はどうだったのかというのは、例えばNISTの大倉先生の資料にはクライテリア(評価基準)も載っていました。評価をするということももちろん必要になってくると思いますが、もうひとつ大きいのは、実践そのものが実践者である私たちと、それから一緒に実践を行った子ども達、その双方にどういう影響を及ぼしたのかというのを見ていく必要があると思います。それが実践の目的や意義ということにつながっていきます。

大倉先生の実践−どう理解させるかではなく、一緒に解釈し一緒に再構築し表現につなげる実践
NISTの大倉先生の実践は私には絶対作れない凄い映像だなと思って楽しく見ました。大事なことはスキーマを子どもたちが共有しているのかということをまず確認しながら、もし、していないとしたら支援者はどうするかということを考えていく「読み」を中心にすえた実践なのかと思います。ただしやっぱり文学作品を扱うということにどういう重き、意味を持たせるかということがとても大事になっていて、それはテキストというものを解釈するということをどうやって(子どもたちが)一緒にやっていけるかということを考える、そういう実践だというふうに私は意味付けました。つまり日本語で書いた文章というものをどうやって理解させるかとか、どうやって読み解くかリコードするかという話ではないんですね。テキストというものが持っている意味世界をどうやって子ども達が解釈をして、それをどうやって再構築して表現につなげていけるかということをなさっていたと思います。

バイリンガル教室の実践―複言語・複文化理念の実践
一方でバイリンガル教室の可愛らしい実践は本当にその場にいたかったですね。映像をもっと見せてほしいと思いながら見たんですけれども。明確な教室目標がありまして、そこでは親が作る教室、そこにある資源というものを非常に十分に活かして活動のデザインを行っているということが伝わってきたと思います。今日のテーマでもありますが、複言語環境で育つ子ども達が、(バイリンガル教室という名前がついていますけれども、)複言語・複文化の子どもたちがどうやって育っていくのかということを複言語・複文化の理念によって行なっている、そういう実践だと思います。NISTの実践はテキストをどう読み解くかではなく、読んでどう解釈するかというコアな内容だったと思いますが、バイリンガル教室の方では、小さな子ども達ですから絵本を媒材に持ってきて、(NISTで中心になった)読むという活動で言えば、読み聞かせという活動を持ってくるという構成がされていました。
さらにそこでは工作、ダンスや歌という子ども達の体を使った実体験を積ませていって、絵本の意味世界に、そこに何が展開されているかというのを伝えていく。説明にもありましたけれども、一言一句よりも、そこで何が言われているのか、世界として展開されているのかをやり取りを重視しながら意味として子ども達がとらえられるようにやっているということがありました。
そういうふうに考えていくと、対象も違いますし出てきているプロダクツというものも全く違う実践ですが、随分共通して言える意義というのがあるのではないかという風に思いました。

2つの実践に共通する3つの意義
・1つ目の意義―ことばと体験をつなぐ活動
私なりに3つ考えてみたんですけれども、1つはことばと体験をつなぐ活動をやっています。2つの実践は。言葉を体験をベースに考えたり発展させたりすること、それを表現として表す、そういう活動になっているということです。その中で言葉が深まっていくということもありますし、私は日本語教師なので言葉の教師ですからつい、発信、表現と言うと、ターゲットになっている言葉、日本語であれば日本語で、出さなければいけないとか日本語で書かなければいけないというふうに考えてしまいがちですが、表現というのはどんなものであっても構わない。その表現を作っていくプロセスに言葉のやり取りが深く深く埋め込まれているはずだと実践を見て思いました。2つの実践はそういう実践になっている。それが1つ目の意義です。

・2つ目の意義−子ども達が持つ資源を総動員させた表現活動
2つ目の意義ですが、そういうところに子ども達生徒たちを導くために、子ども学習者の持っているリソース資源、日本語だけではなくて例えばITリテラシーであったり音楽のセンスであったり、ああいった意味解釈ができるだけの、そこまでに色々なものを見てきたり感じてきたり体験したりしてきた経験というものも子供達の資源。そういったものを総動員させて表現させているというところです。子ども達幼児の場合はそれが工作の時の手作業であったり歌やダンスであったりという表現方法になっているんじゃないかと思いました。

・3つ目の意義−子どもの自信につながる実践:プロセスに込められている自己肯定感
3つ目については、プロダクツというものを作品を創作するというプロセスにおいていったいぜんたい、込められているものは何なのか、それを私たちがじっくり考えると、どういう風なことを行っていけば子供が自信を持てるか。私はキーワードは自己肯定感だと思います、自己肯定感を持って言語活動や、もっと言うと言語生活、言語世界の中で自分として生きる、活動していけるかというところに繋がっていくという風に思っています。それをこちらの方で豊かな言葉のやり取りがあるということを見てあげて、それを引き出していくというのを支援として構築できればいいのではないか。

支援する側の意図を超えたものが出てくる実践の意味
まさに2つの実践は、全く違う実践というように見えるかもしれませんが、実践というのはそれをそのまま行うことに意義があるのではなく、いったんその実践の意味は何だろうと私たちが考えて、その意味について今度は自分の目の前の子どもにどうやって具体的な展開に持っていけるのかを考えることになると思いますので、そのプロセスに込められているものは何かということを考えていくことがそこにつながる、そういう実践であったと思います。ここは実は質問したかったところでもあるんですが、映像作品を生徒たちが作ってきた時に先生の想定を超えるものだったんじゃないかなどうでしょうか。(大倉:「はい」)そうですよね、教師、支援をする側の意図や想定を超えるものが出てくる。「ねこのピート」の方もそうじゃないかと思います。あと宿題の自由スペースに書いてくることも、多分私たちの宿題のイメージとか、教室と家庭をつなぐと言った時に家庭でどんなことが言葉のやり取りが行われているんだろうと思った時の想定の域を軽々超える物を子ども達が紡ぎ出しているということがわかりましたし、そういうことができる実践を組んで行ければ価値があるかなと思います。

実践を語る意味・聞く意味
実践報告をまずするということ、その意味は自分の実践を振り返って、今私は私の視点で意味づけをしましたけれども、なさった実践者が意味づけをして、今度はそれを報告するわけですから、実践を共有していない者に私たちに届くようにどうやったら表現ができるのかということを考える。そして私たち聞く側は、それはうちの子どもは歳が違うからできないとか、うちの学校はその設備がないからできないとか、クラスサイズが違うから無理だねとか、もちろん個別具体はそうなんですがそうではなくて、その実践の意義というものをとらえ、その意義をどうやったら現実にできるのかということを見ることによって、自分の実践を開いていく、そして実践を行っていくことで、実践報告を行ったり聞いたりするということの意味づけを一緒に行っていければいいのではないかと思いました。こういうことを考えることができる実践報告をバンコクに来てまた聞くことができて私は本当に幸せだなぁと思っています。ありがとうございました。



《石井先生》
f:id:jmherat:20180718150031j:image:w300:right解釈のプロセスがある素晴らしさー2つの実践に共通するもの
両方ともすごく魅力的な活動で、最初に思ったのは私高校の授業でああいう授業を受けられたらどんなによかったかなと。私実は高校の時に現国の先生と大喧嘩をしたことがあって、文学作品を読んだ時にこういう解釈だと言われたんですね。で私はそうは読まないんだけどということをでもこういう風にも考えられるんじゃないかって言ったら、多分先生としてはこう読ませなきゃいけないというゴールがあったみたいで、そこで大喧嘩をしました。まさにある素材をどう解釈しているのかということを互いに吟味ができるそのプロセスがあるということの素晴らしさを強く感じました。おそらくそのことはバイリンガル教室の実践とも非常に重なるものだと、やっている事柄とか扱う素材のレベルは違っても本質的に非常に近いことをやってらっしゃるなと思って考えていました。

ことばをとりこむプロセス
ひとつは言葉というものを自分の中に取り込んでいくプロセスというものは非常に抽象的なことで、例えば親が子どもを見ていてもこの子が分かったかどうかというのは本当はよくわからない。実際に誰かが言ったことがその子にわかったかというようなことというのは頭の中身開けて見るわけにもいかないですし、わかったような顔をしていてもどう分かったのかというのがわからない。2つの実践、実際に映像化するあるいは絵本を読んでそれから湧いた自分の書きたいことを書いていくとか、そういう、受け止めたことを自分がそれをもとにしてプロダクトとして出すという循環にその人が受け止めた言葉あるいは物語とかそういったもののどこをまず取り出したのか。そしてそれについてどういう解釈をしたのかというのが具体的な形で出ていくので、他の人がそのことにコメントできるんですね。「わかりましたか」「はい、わかりました」というやりとりほど無意味なやり取りはない。でも意外と教育の場であるいは親子間でも、「わかった?」というような確認ということをするわけですけれども、でもそのわかったということに中にもどうわかったのか、おそらく同じものを見て考えた人達はそれぞれに「わかった」と思うけれどもそこにはいろんな違いがある。それが具体の形になった瞬間に今度は初めの素材についてもそうですしその解釈についてもお互いが吟味できるというその素材が提供される。それが特に今回の絵で表すとか自分で好きなものを書いてくるというようなそういう作業の中では、言葉のいわゆる日本語力の優劣というものを越えて、自分なりに受け止めたことを表現するとそこで他の人たちが本気で相対するという素材が別の手段で言葉だけじゃなくて出てくるそこがすごく大きい。

100%の力ってなんだろう
それからさっき質問のところで(子どもさんの)日本語が100パーセントじゃないし何も100%じゃないしという言葉があったんですけれど。100%の力っていうのはどんな力なのでしょう。誰もが少しずつ違う力を持っているわけですね。日本語ネイティブでも。例えばここで育ってらっしゃる複数の言語に囲まれている人達は日本語で経験したことは、日本社会でどっぷり日本語につかって日本文化の中でいろんな経験をした人とは比べると量的に少ないかもしれない、知らないこともあるかもしれないけれども、逆に別の言語で日本では経験できないようなこととかを持っているわけですよね。そのことが映像とかそういった別のメディアを使って表現するという段階で、例えば日本語で読んで、日本語を中心に獲得したことで表現するということが基本にはなるかもしれませんが、間違いなくそのことだけではなくて別の言語で別の作品を読んだり映画とかそういったものに触れたり、別の言語で持ってきた財産をそれを解釈する時に使ってるはずなんですね。

解釈のプロセスで育つことば−背景の多様さは解釈の多様さ
こういう描写はこういう意味になるという風になってしまいそうな部分が、その子たちのバックグラウンドが多様であるからこそ、日本人がそれを読んだ時にこんな風になってくるって統一的になっちゃいそうなところを、非常にいろんな角度からいろんな切り口で提示される。そういったものが生まれてくる魅力があるという風に思いました。同じようにバイリンガル教室の方も子ども達が何を捉えたかということが周りの人達によくわかって、そこに新たな刺激が反応として現れる、そういうことこそがまさに言葉を理解していくということ。

解釈されることでことばになる
言葉が切り取られ、自分の実体験と違うところで提示されて覚えなさいと言われた言葉と違って、一生懸命自分が表現したことを自分の言葉では言えなかったけれども絵としてかいたことを、これはこうなんだねという風に言ってくれると、そういう言葉で自分のこの気持ち自分のかいた絵が解釈されるということで実感になる。多分両方とも同じことが起こっているんだと思います。

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池上先生と石井先生から2つの実践のコメントをいただきました。実践のコメントの中で、本セミナーのテーマでもある自信を持つことについても触れられていましたが、子どもの資源を生かし、やり取りや映像化の表現のプロセスを共有し、解釈していくこと。そういう関わり方をしていく教師、仲間、大人がいるということが子どもの自信を育てる実践(教育実践、子育て実践)なのではないかと思いました。この回は実践を語る意義についてもお話がありました。実践するだけでなく、実践を語り、意味づけ、共有することが次の実践を生むことを改めて考えました。

タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会(JMHERAT)
運営委員