14(おしまい)

 今日の毎日新聞「今週の本棚」欄に張競氏の北方「水滸伝」評がでていた。これが何がいいたいのかよくわからない文章。というかいいたいことはあまりないのに無理に引き伸ばしたような文章であった。「文明批評の視点から見ると、作家の無意識の地平において、おそらく二つの可能性が指摘できよう」という文章のなんという腰の引けかたであろうか。「文明批評の視点から」という意味不明の限定、「おそらく」という留保、「作家の無意識の地平」というわけのわからない言葉。それで二つの可能性というのが「古典小説を支配する価値体系の転覆(っていうのは、要するに、現代の価値観で理解できる小説としたというだけのこと)と現代人の精神性に対する審美的な判断(読者にお前らの生きたかはそれでいいのか、といっているということ)なのである。これらが作者の第一の意図であることは誰もが読んですぐにわかる。とすれば、それが作家の無意識の地平であるはずがないではないか?
 これまで読んだ批評はハードボイルド作家からの仲間ボメであるとは思ったが、彼ら仲間は北方流男の美学に本気で涙してはいるのである。出世や金儲けに背をむけて、弱きを助け、強きを挫き、勝算のない闘いに身を投じ、格好よく死んでいく英雄豪傑たちの姿に涙するのである。たとえ時代遅れといわれようとも、これがオイラの生きる道なのである。
 ところが張氏は、自分はその反動に加担することはしなくない。それで、現代の勝ち組志向のなかで一服の清涼剤みたいなことをいうだけである。あっちにいい顔、こっちにいい顔である。
 そんなことをしていると阿川佐和子に笑われてしまうぞ、である。本当に男って可愛いわね、というようなものである。
 張氏の相当な枚数を費やして(400字5〜6枚?)何もいわない技術というのは、それなりに大したものではあるが、いいたいことがなければ、書評をひきうけなければいいのにと思う。いろいろと義理やなにやかやあるのかもしれないが、「水滸伝」の英雄たちに笑われるぞ。
 北方「水滸伝」は3巻で止まったままである。はじめ19巻もあるから、なんだかだと3ヶ月くらいは書いていけるかと思ったが、ネタが尽きた。また別の話題をみつけたら、日記を再開とすることとして、この話題はこれでおしまい。


水滸伝 1 曙光の章

水滸伝 1 曙光の章