D・J・レヴィティン「音楽好きな脳」

    白揚社 2010年3月
    
 音楽と脳について書いてある何かいい本がないかなと思っていたところ、丁度、そういう本をみつけた。感想は「そんなことまでわかってきたのか」というのと、「まだそれしかわかっていないのか」が混合した奇妙なものであった。わたくしが一番知りたいと思っていたのは、人間以外の動物が音楽にどのような反応をするかということなのだが、それについては、あまりいい情報はえられなかった。
 著者はアナチュアの演奏家でロックバンドを組んだりしたあと一時音楽のプロデューサーをした経歴のひとで、音楽についてもっと知りたくなり神経心理学を学んだらしい。音楽と脳(認知)について研究しているひとは世界で250人ほどもいるらしい。専門分化の勢いというのはおそろしい。
 
 《ピッチ》:(著者によれば)「音の高低は揺れる空気分子の振動数に関連する、完全に心理的な現象」である。それは「人の頭の中だけにあって、外界にはない。」 われわれが色を感知する場合と同じであり、ニュートンが指摘したように「波自体には色はついていない。色というのはわれわれの脳内でうまれるイメージである。林檎は赤くみえるのであって、林檎自体が赤いのではない。味は食べた時だけ生じる。著者もいうようにこれはバークリーの観念論に通じる議論であり、誰もきくものがいないところで倒れた木は音をたてない、という例の議論である。この議論については昔から納得ができないところがあって、林檎は赤いのではないかとずっと思ってきている。林檎からの波長がわれわれの網膜から脳になにかをおこす、それが一対一に対応しているならば、それは「赤い」のではないだろうか? もちろん、色弱のひとが見ている世界は違う。われわれ以外の動物がみている世界はさらに違う。しかし、それは客観的な世界があり、それがわれわれにどうみえるかということなのではないかという疑念がきえない。このことは量子力学の観察者問題とも関連しているのかと思うが、そう思うのは「客観性」の擁護者であるポパーの信者できたためであろう。著者は振動数は客観的な事実、ピッチは主観的な現象という立場である。
 振動数は連続的なものである。それならピッチは連続的か? 大半の人間は半音のおよそ十分の一以下の違いをききわけることはできないのだそうであり、またさまざまな文化で、半音より小さい差を音楽で用いているところはまずないのだそうである。
 内耳の基底膜には振動数に対応する有毛細胞があり、それは一定の範囲の振動数にだけ対応する。基底膜には異なるピッチの地図がある。聴覚皮質にも周波数対応の地図がある。つまり脳にも異なるピッチの地図がある。
 音楽の基礎は相対的な音高の関係なのだが、脳は絶対的なピッチの値をまず感じている。440Hzの純音をきかせると、聴覚皮質にはその周波数ぴったりで電気を流すニューロンがあり、440Hzの電気を発する!
 振動数が2倍あるいは半分の音は元の音と驚くほどよく似た響きをもっている(と著者はいう)。著者によればピッチは主観的な現象である。よく似た響きというのは、そうであれば主観的な感覚のはずである。それを似ていると感じるのはなぜなのだろうか? いずれにしても、この振動数比に由来するオクターブはどの音楽文化においてもその基礎をなしている。一部の動物(サルやネコ)もオクターブ違う声で鳴く。
 ピッチに対応する脳の部分はわかっているが、ピッチの関係を感得する神経的な基礎はわかっていない。CとE、あるいはFとAをともに長3度と感じることの基礎はわかっていない。またひとがなぜ一部の音程だけを協和していると感じるのかの神経的な基礎もよくわかっていない(脳幹と背側蝸牛神経核が協和と不協和を区別できることだけは判明している)。
 どのような音程を協和と感じるかについてはオクターブ・完全5度など振動数比が簡単な整数比であるものであることがわかっている(平均律では、微妙なずれが生じるが、脳の中でピュタゴラス律と同化されてしまうので、大きな影響は生じない)。
 西洋音楽で一番よく使われる長音階(ドレミファソレシド)は、ミとファ、シとドの間が半音でそれ以外は全音と不等分であるが、このような不等分な音階でつくられたメロディのほうが覚えやすいという実験があるのだそうである。
 音階の感覚は生得のものではなく生後経験によって身に付けていくものである。また通常の音楽では主音や導音あるいは属音など役割があり音階のなかの音の重要性が異なるが、それも個別の音楽文化にさらされることにより後天的に身につくものだのそうである。また通常もちいられるコード進行も5歳の子どもでもそれにかなったものとはずれたものを区別できるようになっているそうである。
 ある物体が振動すると、その振動の整数倍の振動が同時に生じる(倍音)。その倍音を同時に鳴らすと(協和音)、それに対して脳は神経の発火で反応する。また人工的に基音を除いて、2倍音・3倍音・4倍音・・・を鳴らすと、われわれはそこに基音を聴いてしまう(失われた基音の回復)。この基音の回復は人間以外の動物でも認められている。
 
 《リズム》
 リズムの基礎は小脳にあり、また大脳基底核もそれに関係している。この場合も小さな整数比のほうが脳が処理しやすい。ただ正確な整数比で音楽が進行することはない。ある程度の不均衡なものを脳は量子化してうけとる。
 
 《脳》
 自分とは軸索と樹状突起とイオンチャンネルの集まりにすぎないのだろうか? 多くのひとはそうではなく、自分とはそれ以上のものだと感じているけれども、多くの科学者や哲学者はそれを受けいれている。
 音楽体験には脳のほとんどすべての領域が関係している。音楽を担当する固有の脳の領域といったものはない。リズムは小脳のタイミング回路、歌や演奏には前頭葉、運動皮質、、感覚皮質、さらに楽譜を読むのに視覚領域、歌詞と関係して言語中枢、音楽に接したときに生じる感情は小脳虫部や大脳の扁桃体などなど。
 音楽と言語は脳の局在においてどちらかといえば対立する。言語は主に左脳を音楽は右脳を用いる。もちろん主にということであり、両方を用いるのであるが。メロディーの把握は右脳である。曲の構成を理解するのは前頭葉の左側で、音楽の意味は両側の側頭葉の後ろのほうが担当するらしい。音楽の訓練をつみ音楽を理論的に理解するようになると、音楽処理の一部は右脳から左脳に移っていく。
 言語と音楽は別々の部分であつかわれるが、生後すぐには共通していて、次第に分離してくるという見方もある。
 音楽を聴き、その構造上の特徴に注意すると前頭皮質の左にある眼窠部が活性化する(ブロードマンの47野)。ここは耳の不自由なひとが手話で会話するときに活動する領域とまったく同じなのだそうである。
 鼓膜がある音をきくと音はピッチごとに分解される。音楽の回路は信号を、ピッチ、音質、メロディ−、リズムを個別に分析する。その結果は前頭葉のある領域に送られる。そこでは時間的パターンの構造や秩序を見いだそうとし、海馬や側頭葉の一部にアクセスし、記憶のなかから、その信号の理解に役立つものを探そうとする。
 扁桃体は音楽には反応するが、ただの音やでたらめな音には反応しない。また小脳も音楽を聴いているときには反応するが、雑音を聴いているときには反応しないそうである。
 
 《期待》
 音楽を音楽たらしめるものは、期待とそれに対する心地良い裏切りである。ある音の流れを聴くと無意識に先を予想する。あまりに予想通りに進むと単調に感じられてしまう。シェーンベルクなどの現在音楽はそもそもわれわれに期待をさせない。期待のもとになる主音や解決という概念を放棄してしまったから。
 
 《カテゴリー》
 アリストテレス以来停滞したたこの領域に新しい発展をもたらしたのはウィトゲンシュタインである。カテゴリーのメンバーであるかどうかは、定義によってではなく、家族的類似性によって決まるとした。それなら「音楽」の定義は?
 
 《記憶》
 構成主義:記憶は主として関係を記憶する。細部ではなく要点を記憶する。
 記憶保存説:経験したことを正確に忠実に覚える。テープレコーダーかヴィデオカメラのように。もっとも、この説はあらゆる経験が脳に痕跡や何かのかけらを残すとするものであり、その痕跡をたよりに記憶が甦るとする。
 それぞれを裏づける証拠がたくさんある。
 現在では、それらを統合した多痕跡記憶モデルといわれるものが正しいと考えられるよになってきている。われわれは詳細もまた文脈も記憶しているのであり、あるものをつねにカテゴリーわけをしている。
 異なるピッチで歌われた歌が同じ歌であると感じられるのはなぜか? という問題を提起したゲシュタルト心理学構成主義派である。
 側頭葉の背側に「メロディー計算センター」があり、ピッチとピッチの音程の差を計算し、ピッチをとりのぞいた純粋なメロディーだけのテンプレートをつくるらしい。
 音楽を聴いているときと音楽を想像しているときの脳波は区別できないのだそうである。
 
 《絶対音感
 絶対音感を持ひとは少ない(一万人に一人)。しかしそれは440HzをAと呼ばせるという人工的な操作をするからで、440Hzをエセルと呼ぶとか、あるいはAを緑、Hを赤、Cを黄色とかすれば、かなりのひとが絶対音感をもつことができるのだそうである。またあるひとはある曲をいつも同じキーで歌う傾向がある。そうであればわれわれはピッチもまた長期保存していることになる。
 
 《専門家》
 どんな分野でもエキスパートといえる専門技術レベルに達するには一万時間の練習が必要なのだそうである。一日3時間、週に20時間を10年間。
 
 《音楽の進化的根拠》
 それは性淘汰で役にたったというダーウインの仮説を著者も支持する。ある進化的な変化がどこかにあらわれてからヒトゲノムの大半にひろまるまでは大体5万年かかる。音楽は5万年前のヒトの進化に何かの寄与をしたのだろうか? 性淘汰以外に社会的な団結を高めたという説明もある。また認知を促進したという考えもある。
 
 わたくしが「音楽と脳」ということで第一に関心があるのは、西欧音楽が現在世界を席巻しているのには何か脳の構造の裏づけがあるのだろうかということである。
 空気の振動周波数というのは連続的なものである。しかし内耳の基底膜の有毛細胞の数は有限であるから、ピッチは離散的なものにならざるをえない。もちろんそれは半音の間隔よりもずっと細かいものであるであろうが、本書によればわれわれは半音の十分の一以下のピッチの差は区別できないということである。またさまざまな地域で半音以下(四分音とか)の音程を用いた音階を使っているところはないということなのだから、A音が440Hzであることにはなんの根拠もなく、それが438だろうが、442だろうが任意であるとしてもいいのだとしても、音同士の相対的な関係については何らかの生理的な根拠を持つとしていいのであろう。われわれはオクタ−ブという音程を特別なものとして認識する構造を脳の中に備えているらしい。それはたまたま物理学的には振動数が倍の関係にある音である。それは同時に鳴らした時に濁りを生じない。しかし濁りというのも外界にあるものではなくて、脳の中で生じる主観的なものであるはずである。だが、それは同時に音響物理学的な特性をももったもののはずである。主観をはなれて客観的にもそれは特別な音程関係であるはずで、それは人工的な音であるということではないだろうか? 自然の状況においてある音が単独で聞こえる。あるいは同一の音程が同一の間隔で聞こえるなどということはまずないはずである。外界はさまざまな音が充ちているが、さまざまな音程の音がさまざまな間隔ででたらめに生じていてそれも雑音であるはずで、楽音ではない。楽音は道具をつくる存在となった人間だけが発することができるものである。とすれば、楽音がきこえるということは、外敵の襲来でも天変地異でもない安心できる音であることになる。だからそれが特別の音として認識されるようになってきたということはないだろうか?
 さらに倍音の問題がある。オクターブの次に倍音であらわれるのは五度音程である。本書にもあるように倍音列は長音階と親和性が高い。ドの上の五度音程はソ。ソの上の五度はレ。ところが沖縄音階(ドミファソシド)ではレの音をすでに欠く。レの上のラもない。そうすると沖縄音階は倍音列との親和性が低いことになる。また沖縄音階では属調に転調するとその五音が音階上には存在しないことになる(転調というのがすでに西洋音楽の概念であるのかもしれないが)。また日本の呂旋法はリデイア旋法と、律旋法はドリア旋法と一致するのだそうであるが、そこで用いられる和音は機能原理をもたない。例えば、乞という笙の和音は下からAEAHEF♯(重複する音を省けば、AEHF♯)であり、3音を欠き、5度音程と2度音程でできている(松平頼則氏の「近代和声学」による。)。これは響きなのであって「洗練された音色への色彩的感覚」を表すものではあっても、その場にとどまるものであって、音楽を先にドライブさせる力をもたない。
 問題は機能和声である。機能和声は西欧でもたかだか数百年の歴史しかもたないからそれがわれわれの遺伝の中に組み込まれているはずはない。問題は西洋音楽がわれわれの脳に組み込まれている何かを一番賦活させるやりかたを発見したのだろうかということである。
 西洋音楽での協和音は脳を発火させるらしい。しかし、それは西洋音楽の環境の中で育ったひとの場合にだけおきることであり、その環境になく育ったひとの脳は発火しないのかもしれない(前に川田順造氏の「無文字社会の歴史」だったかで、それを示唆する話を読んだことがある)。とにかく西洋音楽は機能和声と12平均律により、「洗練された音色」とは異なるある種の音楽の力を得た。それはたまたま西洋が世界の覇権をえたということとは独立した、何か音楽の普遍とでもいうべき力を見つけたののではないかと思う。しかし、本書を読んでも、それをとく鍵は見つかっていないようである。
 一方、西洋の音楽の歴史はリズムという点ではみるべきものはあまり残してこなかったようにみえる。わたくしは西洋音楽のリズムの単調というのは、対位法音楽の発達の犠牲なのではないかと思っているのだが、どうなのだろう。
 現代のメインストリームの音楽は西洋以外からさまざまなリズムを輸入している。西洋古典音楽が生んだ機能和声と西洋以外からのリズムが合体して、現在の音楽マーケットを制覇している楽曲はできあがっている。
 現代「クラシック」音楽はポピュラー音楽に比べれば聴く人はほとんどいない、と著者はいうが、その一つの原因としてそこにはほとんどリズムが感じられないということがあるのではないだろうか? そもそも現代「クラシック」音楽はアレグロの音楽というのがあまりないような気がする。アダージョばかりという印象である。もちろんそれは多くが無調の音楽であるということも大きい。
 本書の記載によれば、全音と半音による音階の旋律はたとえば全音音階(CDEFisGisBC)などにくらべても記憶に残りやすいことには生理的根拠があるらしいから、まして無調音楽の主題?などが記憶できるはずもない。音楽は期待に依存するものであるとすれば記憶がなければ期待もないのであるから、それは少なくとも西洋の歴史が生んできた音楽とは違う何かになってしまっているのであろう。前に進んでいく音楽ではなく「洗練された?音色」といったものを求めるものへと変わってきているのかもしれない(一時期の現代音楽にくらべ、最近の現代音楽は随分と保守本流に回帰してきているように思う。だが、その保守本流である「クラシック音楽」が保存すべき文化財的なあつかいをされるようになってきているのだから、少々の本流回帰でも聴衆がそれほど増えるとは思えない)。
 本書によれば、音楽の好みが生まれるのは十代のころらしい。そして好みは二十歳くらいまでには固まってしまう、と。著者はスキーマということをいう。枠組み、様式感というようなことであろう。われわれは新しい体験をすでに作ったスキーマに当てはめて理解していくのだと。マーラーの第五交響曲はある種のスキーマをもっていないと理解不能であり、交響曲の様式やソナタ形式といったものがスキーマとして理解されなければいけないのだ、と。
 ここでマーラーの第五がでてくるのがよくわからない。この交響曲は通常の4楽章の交響曲の前に葬送行進曲をおいたような形式になっていて、第二楽章以下はソナタ形式楽章、スケルツォ、緩徐楽章、フィナーレの通常の交響曲形式であるが、マーラーでのソナタ形式というのはベートーベンのような再帰感、構成感はもたず、強いて分析すればそういえないこともないという程度のものである。古典派からロマン派にかけての求心的な原理としては働いていなくて、拡散しようとしていくものを何とか無理につなぎとめておくための手段とでもいった感じである。音楽の中に本来は音楽で表現することは困難である何かを強引に持ち込もうとする誇大妄想的な気分、「俺の音楽の中に世界のすべてがある!」あるいは、「世界はこんなにも狂っている!」とでもいったような、ベートーベンが音楽に持ち込んだ害毒を煮詰めて濃縮して極彩色にしたようないやらしさが魅力といえば魅力である。つまりスキーマから外れたところが魅力なのである。もちろんスキーマがあるからこそスキーマからはずれていることもわかるのであるが。
 西洋音楽はその歴史のどこかで本書で著者が論じようとしている音楽という範疇からはずれた何かを取り込んでしまった。竹内靖雄氏がいう「神の向こうを張って、独立した作品世界を、言葉、音、絵の具その他を使ってつくりあげる「芸術家」」という、キリスト教の伝統のうえに成りたつ西欧以外ではなかなかお目にかかれないタイプの音楽家がそこに出現する。グルーブ感や乗りがどうこうという世界とはいささか次元の違う話である。
 わたくしは中学のころからクラシック音楽を聴くようになって、そこで好みが固まってしまったので、いわゆるポピュラー音楽がみな同じにきこえる。というか、それは基本的に歌であり、歌詞に頼った世界で、歌詞をのぞいて旋律とコードだけをとりだせばみな似たりよったりではないかという偏見から逃れることができない。おそらくポピュラー音楽の側の人からはクラシック音楽というのはみな一律同じにきこえてしまうのだろうと思う。ジャズというのもあまり聴くことがないが、おそらく本書で著者が音楽という言葉でイメージしているものに一番近いのだろうと思う。わたしからみるとそれは“生理”に働く。一方、クラシック音楽というのは、偏見では“精神”に働く。作曲する時に作曲者の“精神”が働くからそれがきいているわれわれの“精神”をも動かす。“精神”などというのは普段はあるかないかわからないものだが、それが“運動”するときに、その姿をあらわす。その“精神の運動”が演奏のときに再現され、それがきいている聴衆の“精神”をもまた動かす。ジャズなどでは演奏の時に奏者の“肉体”が運動し、それが聴いているひとの“肉体”をもまた動かす。最終的には両方とも聴衆の脳を動かしているのだが、その脳の部分が微妙に異なるのではないかという気がする。
 つまりクラシック音楽の場合はどちらかというと没頭するというよりも分析するというほうが勝っているように思う。劇がもたらすカタリシス、もっと一般的には物語がわれわれにおよぼす効果、それに近い何かがそこでおきているように思う。つまりクラシック音楽では音楽固有でない脳の部分がポピュラー音楽にくらべてはるかに多く動員されているのではないかと思う。そして、それにかかわる脳の研究は、音を聴かせて脳波やfMRIをとるのにくらべてずっと難しい研究になるだろう。それは脳の研究のなかでももっとも困難な部分になるのではないかと思う。
 

音楽好きな脳―人はなぜ音楽に夢中になるのか

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近代和声学<松平>

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