E・ヴォーゲル「トウ小平」 講談社現代新書

  
 今読んでいて近々感想をアップする予定のC・カリルの「すべては1979年から始まった」では、1979年にE・ヴォーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が刊行されたことを著者は日本語版の序文で書いている。このヴォーゲルの本は日本でもベストセラーになったはずで、わたくしも名前は聞いていたが、まだバブルの中で浮かれている日本人に胡麻を摺って一儲けしようとする、目端の利くジャーナリストが書いたいかがわしい本のようになぜか思い込んでいて、手にとろうとは思わなかった。
 カリルの本は、トウ小平、ホメイニー、ヨハネ・パウロ二世、サッチャーの4人+アフガニスタンイスラム教徒が20世紀末から21世紀への世界を根本的に変えたということをいっている。中国についていえば、トウ小平がいなければ現在の中国は存在しなかっただろうと。
 カリルの本を読んでまず感じるのは1979年という時点では共産圏・東側というのが現実の存在としてあり、それが10年後にはベルリンの壁がなくなり、その後すぐにソ連という国家も消滅するだろうとはほとんど誰も思っていなかっただろうということである。そしてソ連の崩壊が事実としておきると、しばらくするとみな当たり前のことがおきたような顔をするようになり、マルクス主義というものも過去のものになっていってしまったということである。
 それならば、今の中国を支配している共産党マルクス主義とはどのような関係にあるのだろうか? マルクス主義とは何の関係もない単なる独裁政権があるだけということになるのだろうか? トウ小平は、中央から指令する計画経済の方向を否定し、市場経済化のほうに舵をきることにより現在の中国の繁栄をもたらした人であるとともに、天安門事件の弾圧の当事者でもある。中国共産党創設当時からの古参であり、毛沢東の同志でもある。それならばトウ小平マルクス主義者だったのか? それ以前に毛沢東マルクス主義者だったのか?
 まだ流し読みであるが、ヴォーゲルトウ小平マルクス主義者である以上に愛国者であったという立場のようである。中国には強力な政権が必要であると信じていた、と。
 とすると天安門での若者たちの反乱を許容することは政権の弱体化をもたらし、国の混乱と破壊につながるものであると確信するのならば、あの弾圧は正当化されるのかという疑問が生じる。あの弾圧があったからこそ今日の中国の繁栄があるということがあるのだろうか? あの弾圧がなく、それゆえに東欧やソ連のように中国の共産党一党独裁政権が崩壊していくことがもしもおきていたら、今、中国はどうなっているのだろうか? 混乱と無秩序?
 わたくしに疑問なのは、天安門事件への政権の対応こそが東側でのそれまでの反政府の動きへの古典的な対応であり、東欧やソ連の崩壊で軍部とか秘密警察とかいったものがほとんど表にでることがなかったことのほうが不思議ではないかということである。まるで溶けるように国家というものが消えていった。
 というような疑問に本書は答えてくれるのかもしれない。
 わたくしの思い込みとは異なり、ヴォーゲルタルコット・パーソンズに学んだきちんとした学者らしい。2011年に大部の「トウ小平」という本を出している。2013年には日本語訳も出ているらしいが、上下二巻で計1200ページ、極めて堅実な学術書、客観的合理的な実証研究で、決して読みやすい本ではないらしい。そこで橋爪大三郎氏が聞き手になってこの大部の本のエッセンスを伝えることを目指したのがこの本ということである。橋爪氏のお師匠さんは小室直樹氏で、小室氏はパーソンズに師事していたひとだと思うので、ヴォーゲルと橋爪氏はもともとつながりがあり、ハーバード大学を通じての交流が以前からあったらしい。