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2018-02-09

[][]岡田暁生クラシック音楽とは何か」(2)

 

 今、われわれが自明のものとしているさまざまな価値観は結局のところ西欧に由来しているのだと思う。それは突き詰めれば「個人」というものにいきつくような何かで、現在の中国あるいはロシアがどの程度「個人」を尊重しているのか大いに疑問はあるにしても、それらの国でも公然とは「個人」を否定することはしない。

 小説という形式が近代の西欧において発達したということとそれは無関係ではない。小説とは小人の話であり、英雄譚の対極にあるものである。市井の凡々たる人間の生にも英雄の生涯に勝るとも劣らない価値があるという信念が、それを支えている。

 岡田氏によれば、ベートーベン交響曲は200年前に書かれた「We are the World」であり「頑張りソング」である。

 わたくしは非常に知識がかたよった人間なので、この「We are the World」という曲について今日の今日まで何も知らなかった。それで、ネットで調べてみたら、そして you tube で聴いてみたら、たしかに「歓喜の歌」とどこかつながるような曲のようではある(ベートーベンのほうの歌詞はシラーだけれど)。

 第九交響曲は1時間20分ほどの長さなので、それだけで一日のステージとするのはいささか苦しい。それであまり長くない曲を前座で演奏するのが通例であるが、どういう曲を選ぶかはなかなか難しい問題で、それぞれの演奏団体が苦労するところとなっている。それならいっそ「We are the World」を最初にやるというのはどうだろうかといった馬鹿なことを考えた。舞台の上には合唱のスペースもあることだし。そうすると第九交響曲相対的に見えてきてなかなか面白いのではないかと思う。

 実は、この「We are the World」という曲を今度はじめてきいて、真っ先に思い浮かべたのが「文学者反核宣言」なのである。あるいはわたくしが若いころに聴いた「We shall overcome」とか「友よ!」とかの歌である。

 岡田氏は、ベートーベン交響曲の多くは「進め! 明日をつかめ! 必ず希望は見出される!」というメッセージをふくむという。確かに「We are the World」も「We shall overcome」もそうである。つまり、ベートーベンの音楽の少なくとも一部は「We」の音楽であり、「I」の音楽ではないということである。それに対してモーツアルトの音楽で「We」を想起させるものはほとんどないと思う。(オペラの一部はそうでもない?)

 第九交響曲というのは、音楽的にみればかなり問題の多い曲で、何より音楽だけではいえないことがでてきて、言葉を持ち込んだという点が問題であるが、1から3楽章までの音楽を4楽章で否定しているようにみえる点も大問題である。それまでの3つの楽章を聴いてきた聴衆こそいい面の皮である。この交響曲は当初器楽だけの曲として構想されていたというが、そのような曲として完成していれば、ずっと曲としての結構が整ったものとなっていたであろうと思われる(「I」の音楽として完結していた)。しかし現行の第4楽章となることによって、3楽章までの「I」と第4楽章の「We」が分裂する。しかしベートーベンとしては分裂を覚悟してでもメッセージを送りたかったわけである。

 そして、問題はベートーベンという壁に囚われ続けたその後に続くロマン派が、徹底して「I」の音楽、自己の心情にこだわる音楽しか書けなかったという点にあるのだと思う。ベルリオーズの「幻想交響曲」は自分の話である。

 ベートーベンが「We」の音楽を書いた(書けた)ということは、自分の書いた音楽が聴衆に通じる、伝達されるということを信じることができたということである。しかし、ここで後期のベートーベンの問題が生じてくる。後期のピアノソナタ弦楽四重奏曲は何か自分のためだけに書いているような、伝達を期待していないような曲である印象が強い。倉橋由美子風にいえば「わたしのなかのかれ」にむかって書いている音楽、あるいは「自己内対話」の記録としての音楽である。

 岡田氏によればベートーベンの後期はウィーン会議の時代のフランス革命への幻滅の気分を反映したものである。ごく普通に考えれば、老境にいたって若い時に信じた理想がもはや信じられなくなったというだけのことかもしれないが。

 竹内靖雄氏が「世界名作の経済倫理学」でいうように、「西洋の近世に入ると、その一神教の神をないものと仮定しても差し支えないのではないか、つまり人間は人間だけでやっていけるのではないかという考えが主流になった。神のかわりに「理性」というものを持ち出して済ませる立場も有力になってくる。といっても、中世までさかのぼると、この「理性」ももともと神が人間に与えてくれたものだということになっていたのだから、それを人間がもっていると考えることは、人間が神であるつもりになって生きることを意味する。欧米の個人主義でいう個人とはこのような強力な個人であって、これも日本人にはなかなか理解でいないものである。」 「とにかく、自分が神であるつもりの個人というものが登場すると・・作者自身が神の向こうを張って、「創造」の仕事に挑戦したりすることになる。・・それは「芸術作品」という独立した世界を、言葉、音、絵の具その他を使ってつくりあげる仕事になる。それをめざす人間が「芸術家」である。」

 われわれが「芸術家」ということで思い浮かべる顔はまず第一ベートーベンなのではないだろうか? 「英雄」交響曲というのがどこから出てきたのか? それはハイドン交響曲モーツアルト交響曲からは決して生まれてこないものであるし、ベートーベン第一、第二交響曲ともつながらない。そこで何か奇跡的とでも呼ぶほかない何かが創造されたとしか思えない。そして、そこで創造されたものが音楽の内部での何かなのか? 音楽の中に音楽以外の何かを持ち込むことで可能になった何か?であるのかが問題となる。

 

クラシック音楽とは何か

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世界名作の経済倫理学 (PHP新書)

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