Hatena::ブログ(Diary)

こころはどこにゆくのか? このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-06-12

定期アゲ

久しぶりに日曜。相方はジャム作りが一段落した模様。暑そう。

ネットの匿名性と顕名がまた議論になっている模様。Twitterは今の落としどころなのだろう。

関係あるようなないような話だが、「株主」に「経営権」は、絶対に必要なものなんだろうか? 馬券の投票と一緒で、金は出すけど走るのは馬と騎手…という具合にはできないものか? 金だけ持った素人が経営に口出ししてくるとか、諸悪の根源すぎる。

2016-02-14

才能は沈まない(押切蓮介「HaHa」(1)を読む)

HaHa (モーニング KC)

HaHa (モーニング KC)

押切蓮介。改めて思う。何と言う才能か!



よく言われる言葉がある。「画力はマンガ家に必須の能力ではない」「問題は面白いマンガが描けるか否かだ」といった言葉だ。だが残念ながら、道具や手法の今日的な進化を見るとき、なかなかその言葉に説得力を感じることは少ない…だって、今やその辺の素人さんでも充分に絵は上手いんですもん。プロで一見「下手」を売りにしてる人も、相当絵が上手い。いや、そんなことないよと思う人もいるかもしれないけど、そんなことなくはない。「そういう絵を描く人」本人に聞いても、おそらく自分の絵が下手だとは思ってないよ、多分。それは、基礎としての画力がすごくあるという意味でもそうだし、それを見苦しくなく仕上げる力があるという場合もある。両方の意味で。で、その両方が「相当できる」という人は確かに少ないかもしれないけれど、どちらかができればそれなりの作品は作れるし、見せられる。そういうマンガが面白いかというと別なんですが、少なくとも商品としてのマンガとして成立してる。その意味で、2chのまとめサイトを見ていたときに、「ハイスコアガール」を見たときには、クビをひねった。

さすがに「下手」の部類だろ、これは。しかしやたら表示されんなコレ。面白いの?そんなお薦め?…それで、ネットカフェで手に取り……あっさりハマった。



ハイスコアガールの面白さは、まあもちろん懐かしのゲームネタとか、クスグリとかいろいろあるんだけれど、一つあげろと言われればやはり『ここまで喋らないヒロインをここまで魅力的に描く』という不可思議な説得力だ。押切のストーリーの構成力、描写力、絵柄、テンポ、ドライブ感、そういうマンガとしてのトータルの魅力にやられないマンガ読みなんて、いるのか?そうして、もう一度冒頭の言葉の真実を悟ることになった。いや、マンガとして面白ければ、コレで全然アリなんだよね、やっぱり。マンガはやはり絵じゃなくて、マンガなんだ。*1



だから、ハイスコアガールがあんな形で打ち切りになったときは本当にショックだった(http://hbol.jp/4953)。そんな彼が、こんな素晴らしい形で復帰してくるなんて!



この人が、「HaHa」で切り開いた境地というのはいくつかあるのだけれど、とにかく、普遍的に共感を得る「普通の人間、普通の人生」を描いたこと、それでいて彼のマンガのもつテイスト(気怠さ・怨念・バイオレンスを笑いに昇華し、その合間にふとした瞬間の情感を鮮やかに描き…etc)を一切失わず、むしろ純化され高めてきたことは、もう掛け値無しに本当に凄いと思う。しかも、長い下積みを経てようやくマンガ家として高く評価された作品を生み、アニメ化の話が出た!瞬間に、起訴、書類送検……というショックな出来事、普通なら心折れてもおかしくないその状況から、もちろん充分に心折れつつも、そのこと自体をネタにして自分と自分のルーツを見つめ、上質のマンガを生み出すというこの流れ。本当に大した作家魂だ。こういう人って、本当に、マンガ描いてないと死んでしまうんじゃないかと思う。描くことと生きることが良かれ悪しかれ一つになっている、そう感じる。



そんな彼のマンガを、リアルタイムに読めることの幸福を、今は本当に喜びたい。これからも、ガンガン描いていって欲しい。そう言われなくても、彼はきっと描いてしまうんだろうけど。

余談

先日から、今更のように「江口寿史の正直日記」を読んでいて、数年前の「江口寿史による写真背景批判」事件(http://matome.naver.jp/odai/2132265467798621101)のことを思い出し、改めて江口寿史の言いたかったことを咀嚼したりしている。日記に散見される、江口寿史の「絵を描く人間」としての、線に込める思い、線を引くことで世界が広がっていく悦楽とか、そういった手描き・アナログな感慨を踏まえて一連の会話を見ると、あの江口の発言は、何も「マンガとしてアリかナシか」とかそういう話だったのではなく、「オレは『線』が好きなんだよ!線が死んだらマンガも死ぬんだよ!」というただソレだけの話だったのだろうし、そしてそこが(マンガ家同士なら)通じると考えていた江口と、通じなかったという現実*2の差が生んだ悲劇だったんだろうなぁと思う。どっちの気持ちも分かるだけに、辛いところだなあ。

*1:ここまで書いてなんだけど、別に彼の絵や画力を貶したいわけではないのです。なんというか、相対的な問題で、「あの絵が描けるか」と言われたら別に描けなくはないと思う。それに比べると、「じゃあ、あのマンガ描けるのか」と言われたら、200パーセント無理だわ三回生まれ変わっても描けるイメージがしないわと即答する、という、そういう意味です。彼の画力に比べて彼の「マンガ力」は、あまりにも圧倒的すぎる。いわゆる「その心余りて言葉足らず」という奴です。

*2:「現代マンガが分からない老害」呼ばわりだったものなぁ。

2015-11-08

教育についての問い

<試験に絶対出る教育問題>

以下の問題に答えよ。制限時間なし

1 欧米に日本のような予備校や塾はない。

  なぜ日本ではダブルスクール化が進んでいるのか。

2 社会に出て必要な「法律」も「経済」も教科にないのはなぜか。

3 「受験」と「教育」と「学問」の違いについて述べよ。

4 「受験秀才」とは揶揄か褒め言葉か。その理由も述べよ。

http://watto.hatenablog.com/entry/2015/11/07/233134

元ネタは(http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20151106)とのこと。



まず、当然のことながら、同じような仕組みと働きをもち、場合によっては成り立ちが同じである組織でも、異なる文脈に置かれれば、ことなった有り様や働き方を見せることは不思議ではない。分かりやすい例としては、「BaseBall」と「野球」がそうだろう。両者は、よく似たルールにより、よく似たような方法で人間をある形に育成するスポーツであり、実際統一ルールにより試合をすることが可能な程度には「似ている」。だが、社会的な位置付けや、それをめぐる育成の在り方、生み出す文化などは全く違う。長い歴史の中で、それは次第に違うものに変化してきたのだ。むしろ、そのような変化を遂げることこそが、それらが社会に根付き、文化そのものとなる過程だったとも言える。

「School」と「学校」も、また、それと同じ位に違う。そして、「学校」を生み出したのも、まぎれもない日本の社会そのものだ。このことを、まず第一に抑えておきたい。



1〜4の質問が意図するところ、そしてid:wattoさんの言うところは、『社会で役に立つ力を身に付けさせる』という意味での教育が、日本の学校で尊重されていないのはなぜか、ということなのだろう。気持ちは大変よく分かる。

そして、現在、学歴社会+センター試験という、まさしく科挙そのものだったと言える大学入試を変えようとして、教育改革の動き(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo12/sonota/1354545.htm:高大接続改革実行プランについて(文部科学省)])がある。硬直化した知識偏重の「教育」を、これからの国際社会で役立つ力の育成へと変えようという動きだ。だが、三者のいずれもが考える「社会で役に立つ力」とはどういう意味か。それは、本当は「社会『の』役に立つ力」ではないのか? ……それは本当に教育の目的なのか?



「教育」の理念を、上の言葉を用いていうと、それは「私『の』役に立つ力」を育てることにある、というのが一番適切ではないだろうか。そして、日本社会の中で教育行政は、まさにその理想そのものを実現しようとしてきたのではないかと思う。日本の学校で「(社会の)役に立つ力」を育成しようとするとき、必ずある抵抗は、「学校はそのようなことを教える場ではない」といったものだ。そのとき、背後にあるのは、余りにも純粋な教育への理想論だ。

私は、その理想が間違っているとは必ずしも思わない。理想はとても大切だし、それを見失うことで壮大な無駄を生じる恐れもある。だが、理想を唱えていれば理想が実現するというものではない。日本の教育行政には、理想を実現するための具体的な方法論があまりにも欠けている。

日本の教育行政は、つまりとても純粋なのだ。純粋ゆえに無力であり、純粋ゆえにズレている。さらに、社会はそのズレをつきつつ、果てしない「実学」の幻を追おうとする。そういう二重の悲劇がそこにはある。

「私」の在り方にそれほど多様性がなかった時代には、そのズレはまださして大きな問題ではなかった。だが、「私」の多様化した近代後期に当たり、「学校」の在り方はとても難しいものになってしまった。このような時代の中で、「学校」を理想的な「教育」の場とする教育行政の夢は、ますます実現から遠ざかるばかりだ。

現在の教育改革の動きも、実は大きな意味で言えば『実学』の幻を追っているに過ぎない。従ってそれは、「社会の要請」には応えるものになるかもしれないが、「教育の理想」を実現するものではない。*1

以上を踏まえて、1〜4への回答は、以下のようになる。



1 日本と欧米は違うから。ただ、欧米が正しいとは特に思わない。

2 質問者の望む形ではないと思うが、中学校社会の公民分野では法律も経済も教えるし、高等学校公民の必履修科目である「現代社会」(または「政治・経済」)でも同様である。「役に立つ法律学」や「役に立つ経済学」を教えていない、という現状は、現在進行中の教育改革で変わる可能性がある。*2

3 「受験」=レース。

  「教育」=俗に躾。本来は人間性を完成するための支援。

  「学問」=趣味。

4 黙々と自分のレースを走る者にどう声をかけるのか。マラソンランナーに「一銭の得もないのに懸命になってご苦労さん」と言うか? 『あなたは優秀なランナーだ』という言葉は、揶揄でも過剰な賞賛の意を込めたものでもあってはならず、ただマラソンにおいて走ることが速いという以上の意味ではない。マラソン以外でも、ひょっとしてその人は短距離走でも速いかもしれないが、絵を描くのは不得手かもしれない(忍耐強く描き続けなければ完成しない絵があれば、いくらか違うかもしれないが)。だが、それはそれだけのことだ。

*1:ちなみに、欧米の学校をはじめ、世界のどこにも未だかつてそんな理想的な「学校」が実現したことはないだろう。神話の中以外には。

*2:そして、それが適切な変革であるかどうかは疑問である…のは言うまでもない。

2014-12-31 一年の終わり

尖閣の棚上げ合意に関するニュース

尖閣「現状維持」の合意明かす 82年、鈴木首相が英首相に(共同通信 2014.12.31 02:00)

1982年9月、鈴木善幸首相が来日したサッチャー英首相(いずれも当時)との首脳会談で、沖縄県・尖閣諸島の領有権に関し、日本と中国の間に「現状維持する合意」があると明かしていたことが分かった。英公文書館が両首脳のやりとりを記録した公文書を30日付で機密解除した。

リンクは魚拓です。そちらに記事日時がないようなので、記録する意味でメモ。

日本政府は現在、尖閣諸島問題について「中国側と棚上げ、現状維持で合意した事実はない」と主張、暗黙の了解も否定している。

この日本政府による二つの「否定」は、その間の「暗黙ではないが公式ではない合意のようなもの」の存在には触れていないわけなんですよね。



外交上に言う「合意」と「暗黙の了解」の間には、たぶんそういうワン・ステップ*1があって、そうなるとつまりこの件は、そのレベルで動いたということなのでしょう。「古い人間」である自分から見ると、そういうので外交が動くのは、おそらくかつてはそんなに悪いことではなかったのだろう…と思いますが、それが通じないのがいかにも現代だなあ、という感慨。



いわゆる「歴史による判断」というのはもう少し時間が経ってからのことであり、この件についても現時点であれこれと判断できることではないと思います。そういう意味で、記憶にのみ残すのがよくてニュースとして論評すべき内容ではないのでしょうね。多分。



ただ、こういう件について、関係者の「善意」にのみ期待するのもまた危険な話で。だから、こんな風にちらちらと漏れ出してくるぐらいが一番よいと思います。

*1:「表向き無いことにするために紙(合意文書)としては残さないが、互いにそれがあるものとして振る舞うことにしよう、という明確な(暗黙ではない)了解」というもの。「口頭による了解事項」としてメモなりを残す場合も。その後はお互いの合意文書の中で「さらっ」と触れるだけの内容になるもの。本当は、もっと多くのステップもあるのでしょうが、これ以上複雑になると「守った/守ってない」の判断が難しくなりそうですね。

2014-11-22 このエントリーを含むブックマーク

ふと気づく。

最後の記事から一年経っている。

よいことなのか、そうでないのか、よく分からない。

忙しい、だけでなく、いろいろ充ちているからなのか。仕事上。良くも悪くも、ネット上で言葉を紡ぐ余剰が出てこない。実生活で、完結してる。リア充? 消耗してるだけ?

先週まで、例によって(この季節)特に忙しくて、相方には「何か、先週は、性格の黒い部分が漏れてた」と指摘されたので、今週はちょっと修正を試みたり。しかし、やり過ぎるとかえって嘘くさくて余計黒くなってしまいそうだ。ほどほどに。

まあ、元気です。一応。

2013-08-06 文学

これは文学

回転寿司の手を洗うお湯熱すぎ



このタイトル、評価する。

伊藤園俳句大賞なら優勝レベル。

2013-07-07

神話を製造しない

「神話」というのは、人間の深層心理と関係が深い。実際の事件を描く際も同じですが、結局のところ歴史というのは人間がものごとをどのように見ているかということの現れなので、同じ出来事でも見る方向が変われば記述は変わります。まして、記号化された歴史、すなわち「神話」の場合、そこには、それを描く人間の心理の根底に横たわるものが現れているのでしょう。その事情は、インターネットの世界に多数現れる「神話」についても、多分同じなのだと思います。



先日、フィギュアスケート安藤美姫選手の妊娠・出産について、いろいろな意見が出た中で、彼女を批判するいくつかの記事に対して強い批判を向けた記事がありました。

「安藤美姫選手に対する常軌を逸した集団マタニティ・ハラスメントについて(人権は国境を越えて)」

記事の趣旨については、何の異論もありません。というより、積極的に賛成。TV画面越しの「応援」とかいうお気楽な立場にいる人間が、アスリートの人生の選択について、保護者気取りでああでもないこうでもないと言うのは、余り見られた構図ではありませんね。もし、実際の保護者が言うのなら、(見られた構図でないことは変わらないにせよ)愚痴の一節くらいには付き合う義理もあるか…と思うところですが、それにしたって、それだけです。他人の人生に何の責任も取らない人間は、他人の人生に口を出すべきではない。ですから、それらの行為を「常軌を逸した」と批判されるのは全く当然です。ただ、その一部に、インターネットにおける「神話」のことを考えさせる一節があったことが、とても気になりました。



ブログの書き手伊藤和子氏は、この集団的なハラスメントについて、こう書いています。

ネット上では最近、これに限らず炎上騒ぎがひどくなってきているが、日本はどんどん不寛容になっていると思う。

人々がつながってプラスのエネルギーを作り出せるはずの、大手メディアとは違う表現手段として新しい可能性を秘めているはずのSNS、ネットが、社会の不寛容を増幅し、心無い誹謗・中傷となって表れているように思う。健全なネットの使い方になっていないのもとても悲しいことである。

おそらく、ここは彼女の主張の中心ではなく、単にちょっとした実感、感慨を書き留めただけのことだろうと思います。が、個人的には、とてもガッカリしてしまいました。ああ、またか。ここにもまた「日本の道徳は低下した」神話がでてくるのか。こうして神話が再生産されていくのか、と。



「日本の道徳は低下」したのでしょうか?

明治、大正、昭和の新聞や雑誌を、仕事柄ずっと眺めた経験で言いますと、日本人はこの間何も変わってないというのが偽らざる実感です。そして、むしろそのまったくの「変わらなさ」こそが、道徳心とかそういうことよりずっと問題なのだと思っています。

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けれども、そういう「物語」は、どうやら余り好まれないようです。一般に「変わらない」ということは「問題がない」ことだと思われています。そして「低下した」と言えば、それが問題化できるように。ですが、「低下した」ことへの対策として行われる施策は、「変わらない」ことへの対策としては、大抵の場合有効に機能しないのです。

特にこの「日本の道徳は低下した」という神話は、「もともと日本人の道徳心は高かった」「戦後教育により低下した」「だから道徳教育を…」云々の言説と結びつきやすいという意味で、問題が大きい。実際のデータで、犯罪率の低下、特に若年層における低下(「低下する前」のはずの高年齢の方々の犯罪(粗暴犯)率の高さ!)などの実証が示されても、それらの主張は揺るがないのです。きっと、元の「神話」がある限り、主張者の心の中には、データよりも人々は実感として自分たちの主張を否定しないだろう、という安心感があるのでしょうね。



そりゃあ、まあ、そうでしょう。

『日本人は、もともとお調子者でその日暮らしで、西洋的な意味での道徳観や倫理観は持ち合わせてこなかった、ぶっちゃけ野蛮人でした。』

といった主張をすとんと飲み込むのは、苦労がいります。自分たちの親、祖父母、曾祖父母の世代を素直に尊敬し、祖先を敬愛し、だからこそ、素晴らしい人たちであったと信じたい、という気持ちが溢れていれば、こういう言説に耳を貸したくはならないでしょう。

こういう言葉に耳を貸すのは、現実を憎んでいる人や、ニヒリストや皮肉屋、あるいは「西洋的な道徳・倫理が全てじゃない」ということを論理的・実証的に理解し納得した人たちしかいないのでしょう。そしてそれは、残念ながら、そう多い数ではありません。*1ですから、大多数の人にはそういう意見は届かない。



こうして、犯罪を低下させ粗暴な行為を減らし人権感覚を広めてきた*2有益な教育は改められ、よくて無益、悪く言えば行き当たりばったりで有害な教育施策が一段と進み、そして有益な改革は一層後回しにされていきます。そして、「道徳」と名付けられたある種の歪んだ「伝統」的価値観の押し付けが一段と強化されます。*3

これは大げさな話ではありません。現に今、起こっていることです。

そして、現に起こっているそれらを押しとどめる方法が、多分ない、その絶望的な事実が、私にこの記事を書かせています。本当に、悲しいくらい、どうしようもない。



インターネットの「神話」からほの見えるのは、私に言わせれば、まさに大昔から何一つ変わらない日本そのものの有りようです。私たちは、昔から何一つ変わらない。変えることができていない。それが、私たちを惑わせている問題の根源であり、安藤美姫選手への批判も結局はその現れの一つなのだ、と私は思います。*4



追記

コレを書いたあと、こんな記事が…

東京都内、高齢者の万引増加 初めて少年上回る

いや〜。

もう、なんというか。

*1:書きながら、自分はどれに当たるのか考えたが、おそらく2番目であり4番目なのだろうと思います。日本人は西洋的に言えば「野蛮人」でしょうが、それは西洋が日本の「文化」を理解できなかっただけです。けれど、今や日本人ですら…特に「日本の伝統ガー」と言う人が、日本の「文化」を西洋の目を通してしか理解しようとしておらず、それ自体が問題だ、と私は考えています。

*2:それらは、洋の東西を問わず広められ行われるべき、というコンセンサスを、人類はこの間広げてきました。

*3:安藤選手への一連の批判は、「母親」神話に由来するという意味で、明らかに明治以前の日本の伝統そのものではないと思います。例:「江戸時代、子育ては母親の主たる役割でなかった。」良妻賢母の光と影など

*4:思わせぶりな言葉で誤解させたくはないので書いておきますが、これは、安藤選手への批判が些少なことだと言いたいのではありません。安藤選手への批判を批判するなら、自らのもつ同根の偏りに、一層敏感になる必要がある、という話です。