著作権、という権利と責任

権利の裏には義務がある。責任、と言い換えても良い。権利を行使することは責任を背負うということだ。自分が権利を守る分だけ、他人をそこから下がらせる、そのことによってその場所をどう維持・運営・管理するのかという責任を人は背負うことになる。権利だけを主張するというわけにはいかない。もしどうしても責任を背負いたくなければ、権利を放棄せざるを得ないだろう。
夏目房之介さんのブログの記事を読んで思ったことである。

基本的に「漱石」はすでにこの国の共有財産のような文化記号になっており、いかように利用されても、そのことに遺族が何かいうべきでもないし、そもそもいうべき責任を負えるものではないと思う (上記リンクより引用)

しかしここには二種類のステートメントがあるわけだ。つまり
 「共有財だから、遺族が独占すべきではない」…A
という意見と、
 「多様化する現状に対して、責任を負いきれるものではない」…B
という主張だ。この二つは非なるものである。前者は一つの見識であるが、後者は一つの諦めであり無念であり残念ながらという宣言ではないのか。そのことを我々はいかんともしがたいのだろうか。
確かに、漱石のイメージを色々にいじって貰って漱石は全然構わないかもしれないし、遺族もまた構わないのかもしれない。しかし漱石が「共有財」であり誰もが権利者だというならば、文句を言うのが誰であってもまた構わないのではないのか。我々もまたそれを「共有」している以上は、「ある任意の改変に対して文句を言う権利」を持ち行使できるはずではないのか。従ってそのことに対して過剰な「責任」を負わせるという考え方は、どこかが間違っているのではないのか。本人も遺言しておらず遺族も文句がないならば、何をしてもいいのか?あるいはこんなニュースがある。
ニュース:モリゾーとキッコロ 店が無断で客寄せに利用

◇万博協会「閉幕後使用、禁じたのに…」
 愛・地球博愛知万博)閉幕後、「森に帰った」(万博協会)はずの公式キャラクター、モリゾーとキッコロの着ぐるみが30日、名古屋市港区の家電量販店の新装開店イベントに出演した。万博協会は、万博閉幕後の着ぐるみ使用を禁止しており、「良心に委ねるしかないが……」と困惑している。
 この日、着ぐるみは計3回、登場した。各回30分間、親子連れらが長蛇の列を作り、イベントは万博会場さながらの盛り上がりを見せた。
 協会によると、モリコロは万博閉幕日の9月25日のフィナーレで、会場近くの「海上(かいしょ)の森」に帰ったという設定。以来、約140組あったとされる着ぐるみは、地元自治体やパビリオンに出展した地元企業などに保管され、静かに“休眠”している。学校や自治体、百貨店などからの「イベントで使いたい」との要望も、すべて断ってきた。
 店側はチラシなどで「モリゾーキッコロが森から帰ってくる!」と宣伝していたが、毎日新聞の取材は拒否。登場した着ぐるみがどこのものかは不明。万博協会は「自粛をお願いするしかない」(広報報道室)と話している。【桜井平】
毎日新聞) - 10月31日11時39分更新

こういうことを『やったもん勝ち』で無制限に許してよいのか。本当に「自粛をお願いするしかない」のか。そういう国が文化的な国家だとは私にはどうしても思えないのであるが。
これは「現行の法規でどうであるか」という話ではない。これからの社会をどうデザインしていくかという話である。一応念のため。
(付記)
更に誤解を避けるべく付記したい。
夏目房之介氏の(特に「遺族が独占すべきでない」という)見識は立派だと思っている。併せて「独占できるものではない」という見解にも同調しつつ『しかしだからといってそれは、何かあった時にも、誰も何も言えないということなのであろうか?それは何かが間違っているのではないのか?』という問題提起をしてみたかったのである。「漱石が泣いている」的批判の声が正しいとも間違っているとも思わない。特に夏目氏がそういう批判の声などの中で深く傷つかれたかもしれないことには、深く同情する。問題は、社会の仕組みに対して我々個人が余りにも小さいこと、そして余りにも早く我々が変わりつつあることにあると思うのである。

(付記2)カルスト氏のコメントに
コメント&TBありがとうございます。
「現行の法議論」をするならば、「著作権」が切れてる以上仰ることは正しいと思います。が、それだけですむことならそもそも「遺族に独占する権利はない」云々を話題にする必要もないわけで、夏目氏のブログの記事自体が『仮に著作権が存在するとしても自分は主張しないし、すべきでないし、できない』という文脈で書かれているように私は読み取りました(たとえば後半で「漱石『のようになった存在』の世間での流通」云々という話をしている所など)。その上で私が問題にしたかったのは、まさにその主張のうちの「できない」の部分です。そして理屈として「できない」ということはもちろん前提とした上で、あえてそこを問題にしたいと思っているということです。
漱石の話に限定し、また「著作権」というタイトルでなく「故人の名誉権」に関する問題(「落日に燃ゆ」事件等)として話した方が、あるいは良かったのかもしれません。*1結局私は、同日に眼にした二つのトピックに感じた「ある無念」に無理矢理共通性を見いだそうとしているだけなのかもしれません。それでも私があえてこの二つに触れずにおられなかったのは、先日来大きく問題となっていた「avexのまネコ問題」において現行法の知財保護のあり方、あるいは広く「『みんなのもの』をどうやって守るのか?(共有財をいかに保護するのか?)」という問題に強い関心を持ったからです。ただし私の関心は上にも述べているように「法解釈それ自体」にあるわけではありません。
たとえば自然景観などという文化的共有財をどうすれば保護できるのか、という問題について「シンポジウム『自然という文化』の射程」において加藤尚武氏がしたこんな基調提題があります。「ゴッホの絵は所有者が燃やしていいのか?」「富士山を所有する人間がもしいたら、それを爆破していいのか?」「ある土地の所有者は、『景観』に顧慮すべきか?」「マクドナルドはどの街でもあの看板を掲げて良いのか?*2」…法解釈論だと多分これらは「全然別の事例」ということになるのでしょう。しかし、これらの問題の根底にあるのは、やはり上と同じ「『みんなのもの』をどう守るのか?」という問題なのではないかと思うのです。そういう関心で夏目氏のあの記事を読んだとき、納得もする一方で、
「本当にそれが正しいのか?
 いや、我々の社会に於いて正しいのだ。
ではそもそも我々の社会は正しいのか…?
…という疑問を感じずにはおれなかったということなのです。

(付記3)
さらに、夏目氏の記事のコメントにレッシング氏の講演記録を見つけたのでリンク。
ローレンス・レッシング教授「Free Culture」
引用してる「KenSuzuki」氏は、メールアドレスを見るに鈴木健氏@GLOCOMではないかと思われます。鈴木健氏のブログはこちら
なおローレンス・レッシング教授については、著書「CODE」CODE―インターネットの合法・違法・プライバシーなどを参照のこと。…といいつつ私はこれ読んでないので、相当なモグリ野郎(?)です。ハイ(ーー;)

*1:その意味で、場合によっては「正当な批判も十分可能である」という主張は仰る通りだと思います。

*2:10年ほど前までは、たとえば京都の街中に出店したマクドナルドは、看板の色を渋い海老茶色にしていました。そこには『環境という共有財への配慮』が感じられました。しかしこの10年ほどの間にそのきまりは無くなってしまったようで、今はあのべったりした真っ赤な看板になっています。我々自身も急速に変化している…とは、たとえばこういう事態をイメージして書いています。