イカに苦言part2〜がんばれ『中の犬』さん

先日1/13日付けで書いたエントリ竹熊ブログマンガの件

「中の犬」というHNの人がコメント欄で文句を付けているけど、正直賛成。

おもしろがって「深読みしてあげる」親切なひとが、まだたくさんいることにびっくりです。いや逆に「深読みしたい」のかな。
そうであるならば「深読みしたい」と思わせることができれば作品としては「勝ち」なのかも。

中身がどうであれ。
       名前: 中の犬 | 2006年1月13日 午後 02時09分
はい。たけくまメモ恒例の「とりあえずシニカルにふるまってみる中年」さんからヒトコトでした。
       名前: 外の犬 | 2006年1月13日 午後 02時58分

外の犬さん
いや、純粋に不思議だからそう言っているのですが。
そういうのをあえて「おもしろがる」のは終わってると思うのは歳のせいなのでしょうか?

それとも、外の犬さんも含め、みなさんベタに「おもしろい」と感じているのですか?

自分は、いわゆる「動物化」が足りんないんでしょうか?犬なのに(笑)

       名前: 中の犬 | 2006年1月13日 午後 03時27分

わかるよ、『中の犬』さん。でも「新しい/古い」というより、我々が「少数派」なんでしょうよ、多分。本当はこういうエントリ(中の犬さんの「後の説明」も多分)書かなくても分かって欲しい部分が共有されていない時代なのだと思う。精一杯抑えて書いてるけど、文句言いたい…という率直な気持ちがヒシヒシ伝わってきます。中の犬さんが「深読み」とか「親切な人」という言葉に込めた皮肉以上に無念感は、多分上に引用した私のエントリと同じことを言おうとしているのだろうということも。
このあと

外の犬さん
私には過去の表現の形式の上手な組み合わせ(萩尾望都風の絵柄、舞台、登場人物と不条理な展開)としか感じられず、その背後に特別ななにかを感じることができませんでした。
で、この作品に「感動」している人と私の何が違うのか色々考えたのですが、たけくまメモでも取り上げられていた、伊藤剛さんの『テヅカ・イズ・デッド』の中の「キャラ」と「キャラクター」の分別の問題と同じような感じがしたのです。
一言でいうと、この作品自体(登場人物がではなく)が「キャラ」的で、私はいわゆる「キャラ萌え」できなかったということではないかと。

朝日新聞中条省平さんによる『テヅカ・イズ・デッド』書評から引用します
>キャラクターとは、絵の背後に人生や生活を想像させ、内面を感じさせる人物像である。ひと言でいえば、物語性を生きる存在だ。これに対して、キャラは、固有名をもち、人格的な存在感ももつが、人生や内面をもたない。だから、これまでのマンガの読者はキャラに同一化することができない。にもかかわらず、現在のマンガを支える読者は、現実的な身体性を欠いたキャラに強く感情的に反応する。読者のかなり一方的なこの感情的反応が、「萌(も)え」と呼ばれる。
ttp://book.asahi.com/review/TKY200511150265.html

「キャラは、固有名をもち、人格的な存在感ももつが、人生や内面をもたない。」という定義の
「人格的な存在感ももつが、」という部分は、外の犬さんが言う
>表現されたものそのものに力があるかどうか
に対応し「人生や内面をもたない。」は
>あなたは作品に対して、まず「中身」があって、それがなんらかの方法で「表現」されたものという二項対立
と中身の曖昧さについては暗に認めていることが、対応しているのではないでしょうか。
さらに、未完成で一部抜粋という、作品自体の情報が不足している(=まさに現実的な身体性を欠いている)にもかかわらず「感動」(=強く感情的に反応する)できるということも「キャラ」的です。
つまり「感動」しているみなさんは、この作品自体に「キャラ萌え」しているのではなかろうかと。

うまく伝わらないかもしれませんが、私が感じているのはそのようなことです。そして「キャラ萌え」できない私は確かに旧世代なのかもしれないなと。

        名前: 中の犬 | 2006年1月14日 午後 03時55分
中の犬さん

最初からそれを書けば良かったのではないでしょうか。
回りくどい言い方で、正直「不快」でした。
そういう書き方はやめていただけないでしょうか。

横レス申し訳ありません。

        名前: だいすけ | 2006年1月14日 午後 04時17分

で、向こうのコメント欄に書こうかなと思ったけど、小心者なのでやめた書き込みがコレ。

どっちかというと私は中の犬さんの最初のコメントの方を「素直な感想」だと取りました。あとの説明の方が遙かに皮肉だな、と。まあ『私も旧世代なもので(皮肉)』。
私はこの作品を、絵とテキストがいかに上手でも残念ながら「良い作品」とはならないことの好例だと思います。
私は人間の人間による表現しか人間の感動たりえないと思っています。残念ながらこの作品には「登場人物の人間性」も「作家の人間性」も無いようにしか感じられません。絵は綺麗でテキストや構成は凝っている、でも「それだけ」だと思います。
この作品を、皆さんはたとえば「普段マンガ読まないが、審美眼などは信用できる友人」に奨められますか?仮に奨めたとしてその人は「良い作品だね」と言ってくれるでしょうか。私としてはどちらも「否」としか言えません。
それが答だと私は思います。

しかし、これを書き込んで喧嘩に持ち込む程の根性も暇もなく(十分暇だという説もあるが…体調とか含めてね)…。で、改訂版コメントがこれ。

絵は綺麗でテキストや構成は凝っている。でも「それだけ」だな、と。

魂は震えませんでした。

中の犬さんの最初のコメントに私は特に不快を覚えませんでしたよ。それも人それぞれ。
        名前: j | 2006年1月18日 午前 09時17分

「中の犬」さんが指摘している通り、今回の話は確かに「(東浩紀が言う)動物化」や「萌え」、すなわち先日私が別エントリで触れた「オタクの定義」にかかる質問/回答と明らかに関係があると言うべきでしょう。
それは『全体性を志向しない、細部への極私偏向的愛情現象』とでもいいましょうか。
たとえばまともな文学作品が読まれず「相田みつを」が受けたりする、「生きる力」と言っても誰も理解せず「学力低下」という子供のごく偏向的な一面だけをとらえて右往左往する、まともな政策方針もなくワンフレーズ・ポリティクスを多用する人を首相に抱く、そんな、この現代日本における一現象に過ぎないということです。