Hatena::ブログ(Diary)

こころはどこにゆくのか? このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-09-16

体罰論…というか、どう見ても皮肉

体罰は教育でしょうか?

少なくとも、現在の法律下では完全に否定されている*1にも関わらず、歴然と現場には風潮として残されているのが「体罰」や体罰信仰です。だからこそ、引用先に引用されてるような信仰告白ブログ(「体罰の会」!)が登場したり、下の引用先(「女教師ブログ」"体罰は教育ですか?−オフコース、イエス!")のようにそれを皮肉ったエントリがいつまでも書かれることになるわけですね。

もちろん体罰には、すぐれた教育効果が存在する。殴られるのが怖ければ、必死で頑張る子どもがいるのだから。殴打の恐怖におびえながら百マス計算をものすごい速さでこなしていく子どもたち。なんてシュール。

ただし、最悪の事態(つまり事故)が起こってしまったら何の意味もない。そこで教育可能性は終わってしてしまうからだ。だから体罰をするときには「最悪の事態を回避するシステム」が必要となる。

そのシステムは、例えば、第三者が監視するとか、監視カメラを設置するとか、教室をガラス張りにするとか、いろいろな案が考えられる。しかし、コストが抑えられて、しかも「子どもの主体性」が養われるもっとも良い方法がある。

私は、子どもに自衛のための暴力を認めることを提案したい。

(「女教師ブログ」http://d.hatena.ne.jp/terracao/20090916/1253036450

引用一行目の「教育」には、カギ括弧がつけられた方が良い、と思います。けれど、言いたいこと自体は分かる気がします。ちょっと自分なりに言い換えてみますね。



つまり、体罰という現象において、殴る側は自分が殴られることを一切考慮していないですよね、ということを、女教師さんは脇から指摘したかったのだと思います。そこにはある非対称性がありますよね、という。そこを、このエントリは皮肉っているわけですね。というのは、体罰肯定論者の多くは、「反撃されること」を前提としていないから。

彼ら彼女らが、もし本当に(心の底から)「有形力の行使には教育的な力があります」と主張したいのならば、その人々はまず己自身にこそその「教育的暴力を振るわれたい」と主張しなければおかしいですよね。まあ、ご自分は立派な大人で、悔い改めることなど何一つなくて無誤謬で、そして他者から感化や示唆を与えられる可能性など皆無だ、とでも主張したいというならともかく。そういう人が、たとえば約束の時間に遅れた、子供との約束を破った、忘れ物をした…そういった時に「私を殴れ!そうでなくてはお前と抱き合う資格など私にはないのだ!」…って、まるでメロスのように叫ぶとすれば、一応そこには理屈が通っていなくはないのですが、まああまりそういう人を見たことがない。

とするならば、論理的に考えてそこには二つの可能性しかない。一つは彼らが「本当は体罰に教育効果なんてない」と考えている可能性。(それは、おそらくレアケースとしてのみ存在するでしょう。)そしてもう一つ…おそらく事象の大半を占めると思われるのは、彼らが半ば無意識に、そして半ば本気で、「私の体罰は良い体罰」と信じている、という可能性です。曰く、「大人が子供に対して行う場合体罰は有効」、曰く、「そこに心の絆があれば、体罰は愛の鞭となる」、曰く、「程度を知り、加減を知って、躾として行っているから、暴力ではない」…etc。

女教師ブログさんの皮肉が標的としているのは、まさにこの一派の人々なのだと思います。まさか言葉どおり、本気で「殴る教師vs武装生徒の仁義なき戦い」がベストだなんて思ってるわけないと思うのですが、どうもコメント欄とか見てるとその思いが揺らぎそうになるので、一応書いておきます。女教師さんが本当に問題にしたいのは、体罰肯定派の、その恐ろしい勘違いなのではないでしょうか。*2



これを踏まえて、体罰についての私見を少し書き留めておきたいと思います。お暇な方のみ続きをどうぞ。



………

……

本当に暇なんですね?



じゃあ書きます。

女教師さんは「ある種の人々にとっては大変残念なことかもしれないが、体罰やしごきと、ふつうの『教育』なるものは連続している。」…と書いておられますが、私は「ある種の人々にとっては大変残念なことかもしれないが、『教育』の本質と『暴力』の本質は相容れないものであり、そして『体罰』は『暴力』とのみ連続している」と考えます。

体罰という言葉が意味するものは、条件反射による動機付けであり、それは、事態の振り返り・ルールの内面化・道徳的反省、といった『教育』とは一切関係がありません。たとえば、昔読んだ『チョコレート中毒者の治療』なるもの……「口いっぱいにチョコレートを頬張らせ、チョコレートを食べている映像を見せながら、飲み込もうとしかけると微細な電流が流れ、最後にすべてのチョコレートをバケツに吐き出させる」といった方法……それはなるほど彼の行動傾向を変えはするでしょうが(心のそこからチョコレートが嫌いになる、といった形で)、このおぞましい治療を「教育」及びその「効果」と呼ぶのは正当でしょうか? 殴ったら、殴られた物が物理的に変形した……それを「教育」というなら、粘土でも立木でも空き缶でも、あるいは夜の校舎で窓ガラスを「教育」してまわったりすることもできそうですが、そういうものを普通「教育」とかその「効果」と言ったりはしません。



しかし、一方で、音楽を楽しみ人生を楽しむ両親に育てられた子どもが、自然と、人生を愛し音楽を楽しむ子どもに育ったとすれば、それは言葉の正しい意味での「教育」というべきでしょう。信頼、共感、尊敬、憧憬、人が人に自然と惹きつけられる気持ち、何者かになりたいと強く願うこと、努力すること、達成する喜び、動機の内面化、持続……etc。支配と隷属でなく、憧れと共感、信頼と協力によってのみ、人は自分一人では届かなかった高みに到達することができます。現実の教育が、常にそれら一切のものを含んでいるとは言いませんが、そこをベースにしていない教育は、教育に名を借りた洗脳、あるいは暴力に過ぎないと私は思います。



子どもの時の「体罰」体験を、美化して語る大人は沢山います。それらを嘘だとは言いませんが、私はそのほとんど全ては「体罰以外の部分による教育の成果である」として説明がつくと思います。曰く「○○先生は、やたらと生徒を殴ったけど、その分真剣に自分たちと向き合ってくれた」、曰く「○○先生に殴られた時、先生の目にも涙が浮かんでいた。それで自分はハッと目が覚めた」、曰く「悪いことを他の適当な大人の様に言葉でぐちゃぐちゃごまかすのでなく、バシっと殴って注意してくれたことが、自分の心に沁みた」……etc。私は確信を持って言いますが、これらの先生はたぶん殴らなくてもそもそも良い先生なのであって、殴ったから良い先生なわけではない、と思います。

簡単に思考実験をしてみましょう。あなたが学生時代に一番嫌いだった先生を思い浮かべてみてください。別にその人が体罰教師であってもなくても構いません。そして、自分が何かして、その先生に自分が体罰を振るわれた、という情景を想像してください。さて、そのことであなたには、その先生への信頼感が湧いたりしますか?その先生のことが好きになったり、この人の言うことは大切だという思いが湧くとか、そういうことが、本当に想像出来ますか?

その上で、再度考えてください。体罰そのものに教育効果があるという考えについて、あなたはどう考えますか?



良い先生が振るうのは良い体罰で、悪い先生が振るえば悪い体罰ですか?



私は、体罰を振るうけれども生徒に信頼されている『良い先生』のほとんどは、実は体罰など振るわなくても十分生徒に信頼される『良い先生』なのだろうと思います。逆に、何かが足りない『少し駄目な先生』が、体罰を振るったところで魔法のように良い教育力を発揮したり、生徒が見違える様に言うことを聞いたり…なんていうことも無いと思います(それどころか、生徒が表面上言うことを聞くせいで向上心を失ってどんどん本物の『ダメ教師』になってゆき、ますます生徒の信頼を失っていくケースの方が多いのではないかと思います)。



私が教育現場で唯一許されると考えている「有形力の行使」は、「それ以上の物理的な暴力から子どもを守る緊急の必要性がある場合」くらいです。*3まして、「罰」として有形力の行使を用いる、なんてことをすべての教師に許容すべし、などという暴論には、おそろしくてまったく賛成できません。いくら基本的には人間を信じてる私でも、そこまで教師一般を信じられるほど脳天気なお人好しにはなれそうもありません。



体罰それ自体の「教育効果」は、たぶんゼロどころかマイナスだと思います。まあ、マイナスどころか絶対零度みたいな教育しかできない教師が、体罰をすることでどうにかドライアイスくらいの教師をしている……というケースも、一応想像できなくはないですが(その場合、そもそもそんな人間の採用に関わった人間が、速やかにその責を負うべきだと考えますが)、普通の場合、体罰は百害のみあって一利もない、体罰によってできることで体罰以外の手段で達成できないことはなく、体罰によることで失われるものは遥かに大きい、体罰を明白に禁止している現行の法律は、まったく正しい、と考えています。

(以上)




追伸

ちなみに、先にお詫びを申し上げておきますが、最近諸事情により余りネットにアクセスする時間が取れません。ご意見には可能な限り速やかにお返事したいとは思っていますが、思いがけず時間がかかっても怒らないでください。



追伸2

ブクマコメントにお返事。

「では電車で騒ぎまくる幼児を暴力抜きでおとなしくさせる方法を教えてください。」

そういう状態にならないように普段からきちんとコミュニケートしルールを共有するというのが教育なのであって、気分次第で殴ったり甘やかしたりしてさんざん手の施しようもないほどひどい状態にしてから「さあ躾けろ」と開き直る態度というのはいかがなものかと思いますよ。



と返すのもあんまりなので、答を一つ。

連れて電車降りたらどうですか?

で、好きなだけ騒がせたあとで、コミュニケートが取れる状態になってからゆっくり話す、と。

「そんなことしてる暇ねえ」とか「忙しい」とか言うのは単なる大人の側の都合なわけで、そうやって自分の都合だけ押しつけるんだったら、結局やってることは子どもと同じということにならないですか?

*1:「学校教育法」第11条:校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

*2:まあ、こんな風に解説されてしまうのはむしろ不本意であるかもしれないし、そこは申し訳ないと思いはするのですが。

*3:まあ、たとえば窓枠に乗って遊んでる子どもがいたら、強引に手を引っ張って引きずり下ろしても可、というレベル。

reds_akakireds_akaki 2009/09/17 06:12 元の引用元をリンクするべきではないでしょうか。女教師さんが体罰を肯定支持しているのではないかと勘違いします

jo_30jo_30 2009/09/17 20:11 仰ること、分かります。
もう少し誤解を生みにくいように修正しますね。
コメントありがとうございました。

matcho226matcho226 2009/09/19 09:10 こんにちは。よろしければ少し質問をさせてください。

ひとつのケースとして,複数の生徒が集団で特定の生徒を精神的に追いつめている(つまりいじめ)ような状況を思いうかべてください。そしてその被害生徒がノイローゼ気味・不登校になってきたとします。しかし加害者側は攻撃の手を緩めません。担任の指導も聞き入れません。加害者の親は自分の子の非を認めません。管理職や行政も見て見ぬふりをしたとします。
このような場合に,担任が己の正義感から感情的になってしまい暴力をふるいました。(問題の解決にならないことは分かっていたが,生徒たちが許せなかった。担任として手をこまねいていることしかできない自分に腹が立った)

この担任はどちらかといえば教師として不的確者だと思いますか?また,いじめが起きてしまったこと自体に担任としての責任はどの程度あると考えますか?(懲戒・不的確教師として研修・自主退職など)


話は変わりますが,正義が悪をくじく話が体罰を肯定するよう世論を誘導する影響はあると個人的には感じます。(水戸黄門・タイムボカン・ちょっと違うけどあしたのジョーや巨人の星)それは体罰を容認するメタファーを発信します。表現の自由とも関わるのですが,一般的にフィクションと現実をまぜこぜにしてしまう人も少なくないとは思います。

jo_30jo_30 2009/09/20 21:51 >matcho226さん
できるだけ誠実にお答えしたいと思い、実際に長文を書いたのですが、むしろシンプルに答えた方が良い気がしてたのでそうします。
(1)教師として適格か?
「担任として」不適格です。担任としてすべき仕事が全然できてない。あまつさえ感情から生徒に暴力を振るうのはいいわけが聞きません。
ただし「教師として」失格かというと、書かれた内容だけでは判断できません。
(2)いじめが起きたこと自体の責任は?
一般論として、どんな担任の下でもいじめは起こりえます(ウチの子に限って…は、ただの盲信)。ですが、いじめが起きたらそれは100%自分の責任だ、と思える人でなければ、担任は務まりません。
ですから、担任が「私の不徳の致す所です」というのは正しいですが、担任を懲戒しても余り意味がないと思います。ただ、このいじめの場合、対処がかなり良くないと思いますので、対処の悪さについては研修が必要であると思います。


あと、いじめに関する私の考えは、2006.11.7付け、あの「自殺予告手紙」騒動に端を発するカテゴリー「いじめ」の記事
http://d.hatena.ne.jp/jo_30/searchdiary?word=%2a%5b%a4%a4%a4%b8%a4%e1%5d
にあります。場によって成立する「いじめ」、おっしゃるようなメディアの影響、加害者と被害者の微妙な共犯性、必要な対策…といったことについての私なりの考えがそちらに述べてありますので、よろしければご覧いただければ幸いです。

matcho226matcho226 2009/09/22 10:52 トラックバック先も読ませていただきました。ご回答も併せてありがとうございました。長文まで推敲していただいたようで恐縮しております。
お返事をいただき,体罰といじめを分けて考えたいと思ったので,ここではもう少し体罰のことについて発言させて下さい。私が今回提起したケースについては,(時間がかかるかもしれませんが)「いじめに対する担任の責任」として後ほどトラックバックさせていただきます。その際(いじめを中心に考えるという意味で)いくつか条件を変更・追加させていただく予定です。詳細は後ほどということでお願いします。

体罰関連で私が抱いている疑問は,本旨からは外れるかもしれませんが「雷親父型の教師は存在意義があるか,それとも学校には必要のない存在か」です。

例えば,「担任の(社会的道義上一般に)正しい指導に対しあからさまに反発,それを繰り返す相当な荒くれ者の生徒」に対して担任が責任を果たすためにできることとはどんなことなのでしょう。
「当人と信頼関係構築を模索しつつ指導(当人の行為をいけないことと指摘)を繰り返す以外にない。それで事態が改善しなかったとしても,担任にできることはそこまで。(法律上もさることながら,体罰は,事態が改善する可能性もあると同時に事態がより悪化する可能性もある)」が解でしょうか。

確かに反発している当人に対してはそう割り切ることもできそうですが,その反発者が「頻繁に」他の生徒に迷惑をかけ授業を妨害し,担任の指導に従わないとしたら,どうすべきでしょうか。(管理職や教委が頼りにならないとして)

もし「担任正義・不良悪・その他の生徒は善良な市民」という単純化で物事を捉えてしまったら(それは往々にしてあることだと思いますが),「ヤッターマンがいる限り,この世に悪は栄えない」というフレーズさながら,担任による生徒への正義の鉄拳肯定イメージが,担任や被害者の保護者の脳内に発生はしないでしょうか。(多くはタツノコプロに洗脳された結果だとも思いますが。もしくは自分たちが若いときはそうだった:こちらが主流か)
さらにもう少し言うと,体罰否定メッセージの副産物的イメージとして「怖い大人(教師)は必要ない」というメッセージは,生まれてくると思いますが,それは方向性としては正しいと思いますか?荒くれ生徒には対処できないような気もするのですが・・・
(そうはいっても,確かにへたれ体罰教師も居るので一概には決め付けないことは確かです)

御意見をいただけるとありがたいです。

jo_30jo_30 2009/09/22 12:08 お話されること、小学校、中学校、高校で、それぞれ違う答になるところがあると思います。かといって、個々のケースに余り深入りするともはや「(記事への)コメント」の域を超えてしまう。その場合は、できれば、ご自分のブログで記事を書いてTBしていただくのが適切かと思います。
とりあえず、今回も、できるだけシンプルに回答します。
(1)「雷親父型」教師は必要か?
「殴る」教師という意味なら、全く必要ありません。
「殴らない」が「雷親父『的ポジション』にあることのできる」教師なら、必要です。生徒指導部長、あるいは学年主任などが、これにあたります。このポジションに座るためには、別に暴力は必要ありません。重要なのは『説得力』です。「背中で語る力」と言い換えても良い。殴ることで生まれる「怖さ」なんて、軽い。
たとえば父親の背中を見て、尊敬する、憧れる、というのは、父親が殴れば生まれるというものではないでしょう(それを勘違いしている親も多そうですが)。黙々と生きている毎日のその姿があればこそ、子どもだって心打たれるんです。毎日自分は酒浸りで、何かあると偉そうに怒鳴り殴る、そんな親なら、子どもだって心から尊敬したりなんてしないですよ。「殴る」という手段は、そういう「最低親」が「子どもに文句言わさないために調教する」ためには有効な手段かもしれませんが、最低の手段であることにはかわりありません。
殴られなくても、「この人の言うことは聞こう」と思わせる……『説得力』というのはそういうことです。それは決して特別なことではないんです。
(2)荒くれ生徒に対する担任の責任
いきなり4月、担任をして、そして信頼関係云々以前にどうしようもなく荒くれて周囲に迷惑をかけて……そういう場合に担任のすべきことは、「速やかな隔離」です。その子は24時間荒れ狂っているのでしょうか?とりあえず他の生徒と隔離し、その子が「荒れ狂わずにいられる時間/状況」の中で、その子と話をするべきです。もし24時間荒れ狂っているとしたら、それは確かに病院か警察の領域であって教育の領域の話ではなくなりますが、そうでない限りは教育にもできることがあると思います。
これはいささか予断ですが、一般化して「集団に入ることに困難がある」生徒と言い換えれば、これは決して珍しいケースでもなく、類似の状況には全国の教師が直面しているのではないでしょうか。そしてその際、ほとんどの担任は、そういう状況を上のような対応を中心にさばいたり、あるいはそういうクラス運営を見たり聞いたりした経験があると思います。私の言っているようなことは、確かに決してニュースになったり報道されたりはしませんが、別に取り立てた理想論というほどの話ではない、今日の教育現場ではごくごく普通の風景だと思いますよ。

matcho226matcho226 2009/09/22 15:37 ありがとうございました。最期のコメントにします。

jo_30さんがここの記事に書かれていることは正しい,正論だと私は感じますが,「理想論というほどの話ではない」とは思いません。
残念ながら,生徒指導部長や学年主任全てが背中で語れる域に達しているかといえばそうではないと思います。

私が知人から聞いた,荒れた中学校の話ですが,荒れた生徒が5〜10人で勝手に教室を飛び出し構内を徘徊,その都度職員室の教師で教室に連れ戻すそうです。(戻る場合と戻らない場合がある)学年関係なく他の生徒に因縁つけたり嫌がらせもするそうで,周りの生徒は怖がって関われないそうです。その生徒たちのバックグラウンドまでは分かりませんが,先生たちは日々対応するだけで精一杯のようです。

おそらくそれが,荒くれ生徒がいる一般的な学校の姿ではないでしょうか。(オカルトじゃなく)背中からオーラがでるハイパーな教師が事態を収束させていくことの方がレアなケースだと思います。

また背中で人生を語るにはその個人の人生観が(いびつでなく)確立されていなければならないし,修羅場への心構えも修得していなければなりません。私の知る限り,教師を養成する課程でそのようなことを身につける機会があるとは思えませんし,教師個人の努力の領域をでないでしょう。

そのようなスペシャルな教師が学校に散りばめられれば,きっと今の教育問題は半分くらい解決するでしょう。

jo_30jo_30 2009/09/22 21:14 >matcho226さん
ひとつだけ。ちょっとだけ誤解があると思うので。
私は、体罰を「使わなくても事態が収束する」と主張したわけでも、したいわけでもありません。
私は、
・「体罰には何の意味もない」
・「〜というケースにはこう対処するべき(するしかない)」
…という話です。
matcho226さんがご自分のブログで例にあげておられたスクールウォーズの話で本当に見習うべきなのは、体罰でなく、『その後、彼らと真剣に向き合って生活の全てをかけて彼らとつきあったその指導姿勢』です。それがなかったら、どんな指導も成功なんてしません。
私が言っているのは、つまりそういうことです。

はてなユーザーのみコメントできます。はてなへログインもしくは新規登録をおこなってください。