Hatena::ブログ(Diary)

こころはどこにゆくのか? このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-03-08 考えること

[]考えることと時間について。そして石川淳について。

むかし石川淳について調べ物をしたことがあるのだけれど、文林通信に内田先生が書いたような一節があったことは全く記憶の外にあった。

翻訳についての二つの対話(内田樹の研究室)

今手元で調べ直してみると、どうやら文林通信(昭和四十六年五月)に、件の紹介があるようだ。ただ、石川は、内田氏の引っかかった所に必ずしも引っかかっているようでもない。それは彼がそこで述べているように、かつて日本語と韻の不適合*1について考えたからだろうと推察する。

さて、いまものすごく直感的な言い方をするが、石川という作家の性質とこういった時間論の間には何か根底的に相容れないものが存在するような気がする。そしてそれは石川という作家の性質と深い所で関わる問題だという気も。このことについてちょっと書いてみよう。

内田先生の言う「時間をフライングすることについての時間論」についてだが、これは先日増田で紹介されたテッド・チャンという作家の人文科学SF

がまさにそれにあたるだろう。未読の方のために少しだけ内容を紹介すると(ちょっとネタバレ気味)『人類を代表してエイリアンと交渉する係になった比較言語学者が、彼らの言語の非時間的な構造をつきとめ使いこなせるようになるうちに彼らの非時間的世界認識感覚をみにつけるようになってしまう……』という話だ。

この作品が問いかける問題――欧米系の言語が持つところの『時間』的線条性は我々の西洋的『時間/世界』認識とパラレルであり、従って非時間的な性質を持つ言語の使い手はそれとは異なる『時間/世界』認識を持ちうる――はそれ自体大変興味深くまた説得力深かったし、仮にこれをソシュールが読んだら手を打って喜んだだろうと思う*2。言語−認識−時間−存在といったテーマが一つに繋がるとなるほどこういう話になるだろうなと思うし、それを形にしてみせた所が手柄だ。

だが同時に、石川はこれを読んでもあまり喜ばないのではないだろうか、と漠然と思ったのだ。確かに石川の作品だって多分に幻想文学的であったりはするのだが、彼にとって幻想とは次々に生起するものでは有り得ても開始の時点で一望できる何かではなかったのではないか。若い頃から何度も繰り返し『運動』という言葉に格別の愛着を持って使い続けた石川は、常に『運動を成り立たしめている時間=今、流れている時間』にのみ興味がある人だった。その際「未来」や「過去」という言葉は『現在ではない何か』として一つであり、だから「狂風記」のように過去と未来が一つに溶け合うような構想も生まれてきたりするが、それは「今ここに流れる時間が全て」という彼の観念を揺るがせはしない。

だから、石川は内田先生の言うような、現在と未来を一望し一瞬に/同時的に感得するような時間観、すなわち「流れない時間」観を受け入れることはあり得ないのではないか?……もとよりこれはどちらが優れているとかいないとかいう話ではないし、またとても個人的な感想に過ぎないのだが。

とりあえず、内田先生があの一節から『これはソシュールだ』と連想を走らせた飛躍には及びもつかないが、わたしは『ああこれはテッド・チャンの話だ。けど石川はテッド・チャンを読んでも「それは文学とは縁のない話だ」と片づけそうだな』と思った。石川の感想が果たして妥当か否かも、今のところよく分からない。とりあえず、鑿を当てにくい岩の塊のような作家には、そういった邪道な方向からいくつも鑿を当てておくのも無駄ではないだろうと思う。

また考える暇があれば考えてみよう。

*1:「日本語をもつてする詩歌のかぎりでいへば、韻の観念は不毛であつて、押韻の操作をもちこまうとするすべてのくはだてはポエジイとして無意味に落ちるやうである。和朝の詩のことばは韻(ライム)ではなくてもつぱら律(リズム)をもつてこれを生動させるほかないだらう。…(中略)…今、すでに韻の観念を放棄したわたしとしては、二翁が英語また漢語から発想して韻を論じてゐるのを、どういふことになるのかと、虚心にうけたまはることができる。」『文林通信』S47.5中央公論社刊より。旧漢字は引用者が新漢字に改めた。

*2:この作品集には他にもソシュールが喜びそうな話が沢山あるので、言語哲学とか学んでいた人でSFに抵抗の無い人(というとなんだか対象がレアな気もするが)が読むと大変面白いと思う。