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こころはどこにゆくのか? このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005-07-09 仕事が…

[]グループ日記

早速書き始めてます。http://yasukuni.g.hatena.ne.jp/jo_30/

そっち用のメモ

BC級戦犯について

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper47.htm

小○純一郎くんについて

http://www.mmmax.net/t/596/8FAC90F28F8388EA9859/

死者の人格権をめぐるページ

http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a154155.htm

http://www.kinokopress.com/civil/0402.htm

※「死んだら勝手に祀られても文句は言えないのか?」

小○純一郎くんの「アメリカは解放軍」発言

http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/a_e_f/naigai.html

※こないだ日記で書いた「小○くん、ブッシュに「ウォンチューニーヂューラブユー♪」

http://d.hatena.ne.jp/jo_30/20050707/1120764891

を思い起こさせる……。

2005-07-07 七夕

[]takasiymさんがグループを作成されました

かねてより継続中の「靖国神社」をめぐる討議を、グループの中で深めたいという提案がありグループが作成されたようであります。

http://yasukuni.g.hatena.ne.jp/

まぁ、この問題はオープンでしていてもそんなに沢山の人が食いついてくる話題でもないと思うし、キーワード化しているとはいえ普通の日記の間に挟まっていると過去の話の流れが追いづらい。ループを避け、また共通の資料ソースとする意味でもグループ化する意義があるのかもしれません。

問題は、私が「グループとは何か」ということを今ひとつよく分かってないところですね……(ーー;)(笑)

2005-07-02 これは休日ではない

[]再びtakasiymさんに

http://d.hatena.ne.jp/takasiym/20050701/1120235539

うーん。いただいたお返事は部分部分への問いかけになっていて、逆に私の主張したかった全体に亘っていない感じがして、このままだと少し答えづらいです。誠に申し訳ないのですが、泥沼へと踏み込んでいかないために、少し問題を整理させていただけませんか?

で、以下のようにこちらから内容をまとめ、逆に質問してみたいと思います。

1)かつての日本の植民地政策をどう評価するのか?

これについて、私は「歴史的文脈で『その当時としてはやむを得なかった』と判断するとしても、現在それを『良いことだ』と評価することはできない」という立場ですが、id:takasiymさんはどうお考えになられますか? (id:yasukanaさんとのやりとりをふまえて言うと、とりあえず「歴史認識」は共有できているという前提で、政治的判断について今私はお伺いしているつもりですが…。)「現代という視点から過去を見ている」というご意見をみるに、この私の意見の前半と後半を一緒にされているのでは?という不安を感じましたので一応お尋ねします。

2)反戦運動家もまた「国のために犠牲になった人」という点には同意でしょうか?

私はもちろんその点に同意しています。takasiymさんにおかれましても、これについて同意いただけるとしたら、そういう人が祀られていない機関の正当性が当然問われることになると思いますが、そういう点から見れば靖国神社というのは「国のために犠牲になった人を祀る」機関だと言い切れない側面があるのではないでしょうか。

3)アーリントンとの比較について

私が「アーリントンと靖国は違いますよ」という話をしたのは、たとえばkomasafarinaさんのコメント欄の指摘のようなことをふまえた話です。ちなみに、喩えを米国にもっていくよりも、あなたの出された問題は、たとえば「この先、ウサマ・ビン・ラディンフセインが死亡したとして、アラブ諸国がウサマ・ビン・ラディンを『神』として讃えていたとして、米国民はそれを批判しませんか?」と言い換えてみればよく分かるのではないでしょうか? そのとき「死者は区別しない」という日本は、アメリカに対して「罪を憎んで人を憎まず」という意見を本当に主張しますか? 

4)死ねば仏という考え

……最近このように、「敵味方無く死者を弔う、という日本独特の素晴らしい風習」といった主張を見聞しますが、正直眉唾です。たとえば敵の首を、自分の手柄の証明として集めていた戦国の武将に「敵の死を悼む」という発想があったのかどうなのか。自分を裏切った連中の首を並べて酒盛りをした織田信長の話もありますね(頭蓋骨で髑髏杯を作らせ酒を飲んだ…というのは後世の脚色だと言われていますが)。逆に、「怨霊のたたる力それ自体をパワーにする」という素朴な宗教観なら、歴史上相当古くから認めることができます。最古の神社の多くはその手の「地霊・怨霊」を祭神としていますし、その延長上としての「敵祭」という風習があったというのは理解します。しかしこれは、あなたの仰る「敵であっても死を悼む」というのとはかなり違いますね。もしこの時代の人たちに対して「敵を弔うなんて、あなた方は『人道的』ですね」なんて賞め方をしたら、多分目を白黒させて驚くんではないでしょうか。それでももし仮に「敵であっても死ねば平等」というのに近い感情をアジア圏で探すなら、たとえばこんな感じのことではないでしょうか。あるいは北欧神話に「戦士の楽園 ヴァルハラ」という発想があり、勇敢に戦った「戦士」は死後ヴァルキューレという天女に選ばれて神の下へゆく、という考え方があります。「戦士」のみを祀ろうとする靖国に近いと言えばこちらの方でしょうが、それでも靖国は「敵」を「神」として祀るほどではないですよね。

その他数々の古典文学を見ても、死者(敵)が『祟る(そして折伏されて成仏するor神となる)』というお話はそれこそ無数にありますが*1、一方登場人物が「死んだら敵も味方もない」というような口舌を吐いている文学はちょっと思い出せません。「死んだら敵も味方もない」というのは本当に「日本の伝統」なのでしょうか? そこに「人道humanism」とか「平等equality」といった明治以降の輸入概念が入り込んでいることも含めて、私はそれを明治の国家主義者が作り出したおとぎ話に過ぎないのではないか、と疑っております。明治〜大正時代の修身の教科書にはそういった「日本の歴史の西洋道徳的解釈」に基づいたおとぎ話が大量に見られますし、昨今の似非国家主義者が主張する「ニッポンノデントウ」というのは大抵その辺りにいきつくようです。

最後に、もし疑いがあったら一応解いておこうと思いますが、私はごく普通の一日本人です(と口で言うだけの行為にどれほどの信頼性があるかはおいておくとして)。祖父は戦時中医者で、伝統派の大物なんかともつきあいのあるそれなりの人物だったと聞いたことがありますが、酔っぱらうと「こんな戦争しやがって!」と口走ってはケンペーさんに連れられて二、三日お泊まりしてくるのが常だったとか(笑)。まぁそんな祖父のお陰で、私も、事態の中にいながらそれなりにシニカルに物事を眺める癖があったり、言えば損になるだけのことも思わず口走らずにはいられない性格になったのかな、と思ったりしています。日本人としての自分のアイデンティティをしっかり持つことと、日本人の立場からしか物を見ないことはイコールではありませんよね。

5)「日本の伝統」について

「日本の伝統」と主張するからには、まずは多くの古典文学に現れる美意識などを検討し、たとえば宣長の仕事なんかに目を通すことは無論なのですが、そういった「古典」自体がまた明治の教育によってピックアップされたものに過ぎない(我々のいわゆる「古典文学」の知識というのは、時代的にも内容的にも相当偏っていますね)部分も多いです。従って、本当に日本人がいかなる思想をもって歴史的に過ごしてきたか……ということを問うのは、相当難しい作業になると思います。たとえば柳田国男折口信夫などの民俗学者の仕事から始まって、丸山真男加藤周一、といった歴史学者、その他「忘れられた日本人」宮本常一の仕事なんかを丹念に振り返ってみる作業が必要になると思います。

自らにかかっている「西洋的」バイアスを外して自らの歴史を振り返るというのは、それこそ一朝一夕にはできない、本当に大変な作業だと思います。しかし、日本を愛し誇りに思おうとするとき、自らの偏りを自覚しつつ、そのルーツを変に美化することなく、丹念に正確に読み解こうという作業がどうしても避けられないのではないかと思います。戦争期の振り返り(謝罪と反省?)なんかよりも、それはもっと根本的で大切な仕事だと私は思っています。

*1:ほとんどの能の演目はそれが主眼ですね

2005-07-01 Fairness

[]再びyasukanaさんに。(たとえ「公正」が一種の幻想に過ぎないとしても…)

Fairness:公正さ というのは、一種の危険思想だ、という説があります。

特に昨今、我々は「公正さ」を金科玉条のごとく押し立てる意見をよく目にします。曰く談合は許せない、なぜなら「公正」ではないから。汚職は許せない、なぜなら「公正」ではないから。スポーツは美しい、なぜなら「公正」だから。プロレスは美しくない、なぜなら「公正」ではないから……etc。私はその一部には同意しますが一部には同意しません。「公正」というのは植民地主義を正当化するための論理に使われたという話をご存じでしょうか。曰く「我々は、かの国とFairに競争をし、我々は勝利した。従って彼らは我々に従うべきであり、それがFairな態度である」云々。しかし、最初からスタート地点の違う二者の競争を「Fair」だというのは全くの偽りであるし、そもそも「競争などしている積もりもない相手を無理矢理試合に引きずり出して、一方的に勝利宣言」なんて単なる犯罪行為でしかないわけですね。「文明の劣った」国に対して「支配を宣言」し、抵抗する住民を「文明の利器でFairに殺戮」した「先進国」の人々の所行を、しかし「正しい」と考える人は今なお多いのです。

それでもなおかつ「Fairness」という概念には魅力があります。なぜならそれを越える「正しさ」らしきもの、文句のつけようのない価値観を我々はこれまで持ち得ていないから。だから「公正さfairness」という言葉を使う時、私は幾分ためらいながら……以上のような議論を踏まえ、その言葉を使うことで議論をミスリードする心配がないかどうかに注意しながら、それでもいくらかの誇りをもって(人類がそういう概念を持ち得たと言うことに関する誇り、です)使用します。たとえば、

id:yasukanaさんが、私の議論を「公正に(すなわち、偏った見方に立つことなく、それでいて反論にも十分な機会を与え、かつ私の論旨を丁寧に押さえた上で、発展的な意見をそこに加えようと前向きな意志を持って)」扱って下さったことに感謝します。

@http://jinriki.g.hatena.ne.jp/yasukana/20050701

こういう具合に、です(^^)。

その上で、私もyasukanaさんの論に「公正に」お返事しようと思います。しかし、yasukanaさんにも仰っていただいたように、やはりお互いの「姿勢」には共通点が多い気がしていますので、以下のお返事は、反論等ではありません。

まず、「自虐」という言葉が一種の「誘惑temptation」であったかもしれない、というご意見は、事実こうして「誘惑」された私がいるわけですから説得力のある意見です(笑)。その尻馬に乗るわけではありませんが、私が例のいわしの書き込みをあえて「自虐というタームの批判」に絞ったのも同じ理由だ、と言わせて頂いてもいいでしょうか?(笑)

また、小泉氏が「外国に言われて姿勢を変える」ことが「正しくないと思う」という意見は非常によく分かりました。確かに、中国にしても、批判自体はあり得るにせよ「あのようなやり方で(繰り返し反日行動を煽ったり、あまつさえ会談予定→キャンセルなどという行動を批判のための道具とするなど)」批判するのは慎むべきであったと思います。慎むべきという言い方が正しくないとすれば、「下手な外交」だった、というべきでしょうか。ハッキリ言って中国のあの批判の仕方も、また「急に言い始めた捕鯨反対」にしても、国際的に見れば同じくらい説得力がありません。私は小泉氏の行動自体も外交的には非常にマズいと思っていますが、中国の批判も同じくらいマズい外交だと思っています。両国の外交部は、責任をもってこの問題の良い落としどころを探るべきでしょう。ブッシュ・共和党が次回の大統領の座をキープする望みは非常に低いと思われる以上、日本は可及的速やかに、中国との独自な、「対等な連携チャンネル」を築く必要があるでしょう。日中関係をこれ以上空転させることは、日本の外交上の損失になり、ひいては東アジアの安定に大きなマイナスとなることは明白だと思います……。

[]質問に答える

id:takasiymさんの質問に答えます。http://d.hatena.ne.jp/takasiym/20050701

第一問

靖国神社とは、

「国策としての植民地主義に貢献した人間を祀るために作られた場」、ですか?

第二問

「日本の戦争従事者」と「国策としての植民地主義に貢献した人間」を、どのように区別できるですか?

二つの質問に対しては、一気に答えた方が良いと思います。靖国神社の成り立ちを考え、「そこに祀られているのは誰なのか?」を考えることが、必然的に二番目の問の答えになると思うからです。

まず第一に「靖国神社」の成り立ちに関しては、まさしく神社のHPに、『西洋列強が日本を圧迫するという非常に厳しい国際環境の中にあって、日本を立派に近代国家たらしめ』るために、精神的支柱として作られたものだ、と書かれています。つまりそこに祀られているのは日本が「西洋列強の圧迫」に対抗して「近代国家」として独立するために戦った人間だということです。西洋列強の圧迫の中で、日本が食われる側(植民地)ではなく食う側(列強)になろうとして必死にあがいたことは言うまでもありませんしそのことの是非を今問うつもりもありません(当時の日本も生き残り・独立をかけて必死だったわけですから)。しかし明治のはじめ、次々と政府内で打ち出された対外進出論・植民地政策をみれば、そこでいう「近代国家としての独立」が「植民地主義的帝国主義国家の建設」とイコールであることは言うまでもないでしょう(重ねて言いますが、そのことの是非を今問うているわけではありません)。

http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/Koukai/2003/2003.5.13.2.htm

こちらによると靖国に祀られているのは、

明治維新  7751 西南戦争  6971   日清戦争  13619 台湾征討  1130

北清事変  1256     日露戦争  88429 第1次大戦 4850  済南戦争  185

満州事変  17175 支那事変 191218 第2次  2133760 計    2466344

となっています。台湾征討、北清事変。いずれも日本側の死者が祀られているのは言うまでもないことですが、そこに現首相が公式参拝しているというのは、東京裁判におけるA級戦犯が祀られているかどうか以前に大きな問題だとは思いませんか? 「日本の首相は、かつて台湾、朝鮮半島、中国大陸を植民地化する際に犠牲になった人を国の神として讃えています」……そういうことになると思うのですが。余り良い例ではないかもしれませんが、たとえばこんな比喩もまた我々が第三者として靖国問題を考えるときには有効かもしれません。

また、一方で兵士ではない「戦争犠牲者」は、靖国では別棟という扱いです。「戦争従事者」という私の言葉は、兵士以外の人も含めて国策としての「戦争」に荷担し戦争を戦った全ての人……というニュアンスがありますが、当然そこには「銃後を守って」いた人たちなどが入るわけで、それらの人がどうして「国のために犠牲になった人として祀られ」ないのかは非常に不思議です。「国のために犠牲になった人に……」云々という首相の言葉をひいて「綺麗な言葉で飾るな」という言い方をしたのは、靖国神社という組織がこのように「(帝国主義)国家という観点から死者を区分けしていた」組織であり、それが戦後の今もなお続いているからです。国家という観点から、ある死者の死を「価値あるもの」とし、別の死を「それほど価値のないもの」とするような作業が「平和」につながる作業なのでしょうか。あるいは、日本のために必死で反戦運動に従事し獄中で死んだ運動家や思想家は、どうして「国のために犠牲になった人」ではないのでしょうか。彼らは死にましたが、彼らの思想は戦後の復興を支える大きな「精神的支柱」となりました。日本にも抵抗の思想家がいたという事実が、どれほど戦後の日本の青年を勇気づけひいては日本の戦後復興を支えたか分かりません。また一方で、靖国に祀られることに激しく抵抗している人々もいます。そういった訴えを神社本庁はことごとく無視していますが、そういう横暴が許されていることにも強い疑問を感じずにはおれません。要するに、この問題を「きれいごと」で片付けてしまうには、余りにもドロドロとした枝葉がつきまとっていると私は思うのです。

また、アーリントン墓地と靖国神社を比較しておられましたが、これについては両者の性格の違い(たとえばアーリントンでは死者は、ユダヤ教も仏教もプロテスタントも、それぞれのやり方で祀られています)は少し調べればわかることですので、問題にはならないと思います。前者が許されるから後者が許されるという理屈は成り立ちません。むしろ、前者「だから」許されているわけで、靖国がアーリントンのようになるなら、それは許されてもいいかもしれませんが、そんなことに賛成する神社関係者はおそらく皆無でしょう。それが何より「靖国とアーリントンとは全く別」だということを雄弁に物語っているのではないでしょうか。

ちょこちょこ調べ物をしていて、お返事が遅くなったことをお詫び申し上げます。まだ言い尽くしていない所もありますので、疑問の向きはまた追加して聞いて頂ければ幸いです。m(__)m。

2005-06-30 6月も終わりですね

[]yasukanaさんに

お久しぶりです。5/16の日記(http://d.hatena.ne.jp/jo_30/20050516)に一度お越し頂きましたね。あれ以来何度か日記(グループの)を覗かせていただきました。

さて、私の政治姿勢についてのご質問とのことですが、基本的にノンポリな私としては、id:yasukana氏の政治姿勢との間にそれほどの政治姿勢の違いがあろうとは思いませぬ。どちらかといえばそれは「歴史認識の違い」ではないでしょうか。

「一国の首相が、自国の先祖を礼拝する行為に対して、外国の政治指導者に干渉されるいわれはない。」

という意見は、なるほど見た目もっともです。が、首相本人も認めている通り日本政府は公式見解として東京裁判を否定しておりません。条文の解釈や裁判の手続きをめぐって、それこそ後出しのようにそれを批判する人があとを断ちませんが、そもそも(植民地主義的)帝国主義自体が今日の世界的文脈の中で裁かれつつあるわけで、今更日本一国が「東京裁判否定」を無理押ししたところで国際的な理解が得られるわけもないのです。これは条文の解釈という政治的な問題ではなく、世界の歴史を今の時点でどのように見るかという「歴史認識」の問題です。たとえばフランスがアフリカをどのように過去食い物にしてきたか、ということと、今日フランスに生きている人は無関係ではあり得ない。そのことへの批判は当然自国内から起こってきているわけです。そのような流れの中で「かつて奴隷制や植民地主義を罰する国際法などなかったからそのような批判に意味はない」などと言ったら、むしろそれは世界的な笑い者になるのがオチではないでしょうか?

http://homepage3.nifty.com/htaguchi/information-archive/040502.html

URLは、特に「戦後世代の戦争責任」論を展開している論者のものです。このサイトの管理人と私個人とは「政治的思想」においては一致しませんが、上で述べたような「歴史認識」においては共通するものがあり面白いです。

そういった「歴史認識」の結果として、私は素直に小泉首相靖国参拝を支持しません。そもそも靖国は単に日本の戦争従事者を祀る場所ではなく、国策としての植民地主義に貢献した人間を祀るために作られた場であり、植民地主義を見直すという世界的な歴史文脈から考えれば今日首相が参拝するには非常に不適切な場所だと思われるからです。「犠牲となられた方への感謝の念」とかそういうきれいな言葉で飾るのはやめていただきたい、むしろ素直に「保守派の票を失いたくないので」といえばよかろうと思います。

そしてまたそういった「歴史認識」に基づく意志のありようを、異なる「歴史認識」の所産と見ずに非難したがる人々が決まり文句のように使うキーワードとしての「自虐」という言葉に強い違和感を感じています。誰かが使ったキャッチーな用語を無批判に使用することは、その「誰か」の持っている偏りをそのまま背負い込む危険性を持ついささか不用意な行為です。私のいわしへの書き込みはその思いをベースにしています。「自虐」という「はやりの言葉」を使わずに、首相の靖国参拝『不支持』論の論拠を考察する……そういう真面目で真摯な態度を取りうるid:yasukanaさんだと思っています。

「自虐」という言葉を好んで使用する人(A)は、「日本政府の戦後数十年の歴史は、占領軍〜アメリカという巨人による外圧を背景に押しつけられた戦後民主主義という迷妄に踊らされた自虐の歴史である」という考え方を好んでいるように思われます。逆に自らのそういう物の考え方を、同じ「自虐」というレッテルで考えてみてはどうでしょう? というのが私の書き込みにこめられた皮肉です。物事はそう単純ではない。かつて左翼の人々(B)は「戦前の日本は、軍閥という巨人による影の支配によって押しつけられた植民地的帝国主義に踊らされた暗黒の歴史である」という考え方を好んでいました。物事を単純に単純に理解したがる人はそういう「超越的なワルモノ」をどこかに想定したがるようです。そして少なくとも私の身の回りを見る限り、かつて非常に素直に(B)であったとおぼしき人が、今日「真実に目覚めた!」といわんばかりの様子で(A)を主張しているケースが非常に多いのです。私に言わせれば(A)も(B)も単なる思考停止に過ぎない…というのは、ここまで読んで頂いたならばご理解頂けるのではないかと思います。そういう思考停止が社会の風潮となるのが、日本という思想風土の問題なのかどうなのか、私にはまだよく分かりません。ネットを見渡せば、そういう軽いマスコミに好まれる意見とは異なる意見が沢山転がっているわけで、必ずしも日本という思想風土に幻滅する必要もないんではないかと思っています。

以前、中国から来た学者に「日本の若者はどうして政治に無関心なのか?」とか、いかにも若者を批判するような口調で偉そうに言われてムッときて言い返したことがありました。まず「現代の若者の政治的無関心」といったニュースだけを見て、鵜呑みにするのはやめていただきたい。またそれぞれの国や時代で意志の表し方は様々です。『政治的に関心のあるフリ』をするのが受ける国柄/時代もあれば、『政治的に関心のないフリ』をするのが受ける国柄/時代もある。そもそも一体何人の若者と喋って「政治的に関心がない」と決めつけたのか? ……なんて感じのことを言って、答えては貰えませんでしたけど(苦笑)。

私は、たとえばid:yasukanaさんのような方がグループ日記で行っていることも十分「政治的関心の現れ」であると思いますし、5/16の日記で批判してしまった彼にしてもそういった存在であったことは認めています(彼にはもう少し「勉強」して貰いたかったものですが)。大事なことは、自分で考えること、そして自分で納得のいくまで調べること。そのための正しい方法を身につけること(資料批判・メディアリテラシー等)です。右だの左だの言う時代じゃないですから。今日の日本で暮らす我々のアドバンテージは、おそらく「その気になればものすごくディープな情報にもたやすく直接アクセスできる」というその一点でしょう。それを生かさない手はない。隣国の人や、歴史的に見て非常に深い関わりをしてきた周辺国の人が、今どういう歴史認識の下にどういう意識を持っているのか。少なくともTVや新聞などといった非常に質の悪いメディアの伝えないことを積極的に学ぶべきでしょう。(余談ですが、確かに新聞やTVの全てがそうとは言いませんが、情報価値という点においては今日の新聞やTVというのはほぼゴミの山も同然だと私は思います。5分で読める新書2〜3ページ程度の情報を伝えるのに平気で30分〜1時間かけるTV!同じニュースしか伝えない怠慢と、それを隠す為にあえて偏った見方をすることが「ジャーナリズム」とか「ポリシー」だと思っている新聞!)

そのように、自他共にしっかりとした「歴史認識」を作り上げた上で初めて我々は「政治」について語ることができるのではないか。そういった歴史認識批判無しに行われる政治論は私にはちょっと危ういものに感じられます。

「歴史は繰り返す」という有名な警句があります。その警句には本当は前半があると昔聞いたことがあります。正しくは「歴史に学ばない者は、歴史を繰り返す」なんだそうですね。もちろん私は、隣国の人々が100%正しい歴史認識を持っているといいたいわけではありません。そうではなく、互いの歴史認識をきちんと突き詰め合わせること無しには、互いの政治を批判することなどそもそも出来ないはずだと言うことが言いたいのです。隣国の人々の情報が制限されているのと同じく、我々日本人の情報も逆にあふれすぎて正確な情報を手に入れることが難しい現状です。相手を誤解しているのはどっちもどっちではないでしょうか。

…とまぁ、いささか長くなりましたが、私がいわしで言いたかったことをもう少し丁寧に述べるとこんな感じになると思います。いかがでしょうか?