Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

始まりと終わり

何事にも始まりがあり、終わりがある。人は生まれそして死ぬ。
その運命からは生物でなくとも逃れ得ない。その事実については、言葉であれ、企業であれ、国家であれ、文化であれ、さほどの違いがあるものではない。ただ、それでも私達が看過できない違いも存在する。生まれてから役割を終えるまでの時間である。短いものもあれば長いものもある。予想以上に長く使われるものもあれば、期待を裏切る短命もあろう。

さて、生命やモノの始まりと終わりだけではなく、私達の人生の中にも区切りを付けることも多く存在する。それが何かへのチャレンジであることも多いのだが、その始まりはいつも希望や期待に満ちており、その終わりは自分自身ですら気づかないうちに迎えることが多い。特に、私的な目標などの設定において終わりの意識が希薄になる。組織などでは新たなプロジェクトが失敗したとしても、その問題点を洗い出す意味も含めて終わり方が意識され検討される。ところが、始まりに関わる人間の数が少なく、あるいは意識が希薄であればあるほど終わりに対する意識も同じ程度希薄になる。
それは責任の有無で容易に関連づけられるものではあるが、私的なそれでもケースによっては大きく差が見られる。

チャレンジは人生において非常に重要なことであるのは間違いない。新たな気持ちで新しいことに挑むのは、生活にメリハリを与え心を切り替えてくれる。だから、「始まり」が多くあることは人を活性化させる。もちろん、始まりを自らに課すことはそれなりのストレスがあるため、人によってはおっくうに感じることもあるだろう。同じ日常を心地よいと感じる人も少なからず存在する。
あるいは、入学など外部環境の変化に乗じて気持ちをリフレッシュさせるケースもある。自分で考えて行動を起こす場合より受動的ではあるが、環境変化のタイミングを上手く利用して自らに役立てようという意味では能動的だ。

さて、このように「始まり」とは気持ちの切り替えや新たに夢を抱くことなど、これまでの自分から何かを変える役割を果たす契機である。それは重要なトピックではあるが、それによって何かが実際に変わるわけではない。あくまで可能性の獲得なのである。
だから、この可能性の獲得に対する精算が「終わり」において行われることが重要となる。もちろん、そのチャレンジが失敗であったからと言って否定的にとらえる必要は必ずしもない。あくまで自分の気持ちの上での終わりを迎えることで新たなチャレンジへの糧として、あるいは切り替えのきっかけとして用いることも重要ではないかと思うのだ。

人は一生のうちで何度も新たなチャレンジに身を投じる。チャレンジすることについては多くの人から肯定的な評価を得ることが多いのではあるが、私は終わり方について考えることの方が、人生において得るものがより多いのではないかと感じている。
とは言え、私自身いくつもの事柄をフェードアウトさせており、偉そうなことが言える訳でも何でもない。自戒の意味も込めて、「始まり」以上に「終わり」方について意識を高めることが重要ではないだろうか。

失敗学という学問というか、フィードバックのための考え方がある(wikihttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B1%E6%95%97%E5%AD%A6)。これは、まさに終わり方、あるいは一旦手じまって新たにチャレンジするための方法論である。私達はもっと始まりだけでなく終わりに着目すべきであろう。

「始めるときにはモチベーションも高く、様々なチャレンジをする心のゆとりがある。一方で終わるときにはそれがない。だからこそ終わり方が難しいと同時にそれが重要になるのだと思う。」

今週のお題「この春、○○はじめます!」