Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

フェアを謳えるのは勝者のみ

社会はフェア(公平)であるべきだというのは理想としては正しい。ただ、フェアを担保するものは単純な公平性や正義ではないことが実際には多い。「勝てば官軍」との言葉もあるように、フェアネスを振りかざすことができるのは往々にして勝者のみなのである。
もちろん、敗者がフェアでないと食って掛かることは少なくないかもしれない。しかし、仮にそれを訴えたとしてもフェアであるかどうかを判断し、裁定を下す者は敗者ではない。

例えば、よく言われる話として日本人が圧倒的な強さを誇るようになったスポーツ競技は、ルールが変えられると言った話がある。一時期スキーの複合などで日本人が強かった時、ジャンプと距離の配点が変更されたケースであるが、スキージャンプでも板の制限に変更が加えられて以来日本勢の成績が凋落したことは記憶に新しいだろう。
日本人からすればこのようなルール改正はフェアではないという話なのだが、逆にそれまでの強さを誇ってきた国の人間からすればルールがフェアでないからそれを変更すると言うことになる。

そう言えば、柔道競技においてかけ逃げなどが厳しく指導されるようにルール変更が為されたのは最近だが、日本人からすればルールが曖昧であった故に柔道らしさが損なわれていたと感じていたであろうが、JUDO競技に真摯に取り組んできた外国人からすれば改悪と映ってもなんらおかしくない。おそらく、フェアの概念はルールの正当性をどのように認識するかにより全く違う面を見せる。その上で、ルールというものも国や地域の文化の違いにより見え方はかなり違う。ロンドンオリンピックなどに見る韓国選手の各種のアピールは、韓国の特殊性を示すのかも知れないが、ルールに対する認識が異なっていることも端的に示している。
だとすると、公正さは万国共通の認識ではないということでもある。ルールを操るものたちは自分に都合の良いルールをフェアさを謳い文句にしながら押しつけてくるものなのだ。それを唯々諾々と受け入れるのも一つの日本人好みの考え方ではあるが、ルール決定権の争いが競技の裏では常に渦巻いているとも言えるのだ。

オリンピック競技などではまだその公正さはわかりやすいものかも知れないが、経済や政治のルールではそれはあまりに恣意的で曖昧である。グローバルスタンダードという自国ルールの押し付けを図るアメリカという国もあれば、複数の国家の連合である強みを最大限に生かすEUは各種基準(例えばISOやBIS規制など)を自らに都合良いように作り上げる。
彼らからそのルールは至極当然の公正さであるのだろうが、日本などからすれば一種の障壁として作用する。公正さは文化と結びついており、ある者が思うフェアネスは他者にも共通ではないのだ。
だとすれば、自己の公正さを押しつける争いはいつでもどこでも行われており、それを強く主張できる者は結局のところ勝者のみなのだ。
電気製品などの新規格でも日本が提唱する規格を後発の国家群に覆されるケースはよく見られる。それを本当の意味で主張するためには、技術やパワーで勝たなければならないのだろう。