Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ジャーナリズムが抱く期待

 前回のエントリで治世は気分により判断されるという内容を書いたが、この気分は別の言葉で置き換えるならば期待である。世間は、実績も評価するがそれ以上に期待に突き動かされる。この期待は軽い感情の揺れ程度であれば容易に打ち捨てることが可能であるが、一種確信とも言える強い希望に動かされた時の期待感は、それを容易に覆すことはできない。
 この期待感は、目指すテーマを追い求める研究者や芸術家の姿と似てはいるが、それを自ら成し遂げるのか他者に委ねるのかにおいて大きく異なる。むしろ親が子に抱く期待の方が近いのかもしれない。自らがその成長に関わることができるという投影の状況である。

 さて、一般国民はこうした期待を抱くことについての責任は発生しない。リテラシー能力を高めて誤った(偏った)言動に振り回されないことは必要であるが、それは義務ではない。しかし、メディアについては国民と同じという訳にはいくまい。もちろんメディアにもいろいろとあって、最近では一部の新聞は不偏不党をかなぐり捨てた感じすらするが、そこで感じることにメディアと言うかジャーナリストが抱いている期待は一体何なのだろうかという点がある。
 そもそも、ジャーナリストは国民よりも明らかにリアリストでなければならないと私は思うが、むしろ国民以上にロマンチストな感じがしている。これが夢なのか期待なのかは今一つ判然としないが、それはこの際どちらでも良い。最も気になるのは、ジャーナリストがロマンチストであることが美徳だと漠然と考えられているのではないかという面がある。特に、個人が特定されにくい新聞などでその傾向が顕著であるように思っている。

 個人で活躍するジャーナリストは個人の個性が商売のネタでもあるので、手法としてのロマンチックな切り口というのも特定層の賛同により糧となるだろう。とりあえず、社会正義を追い求めることはそれがどんなに正しくても常にお金になるとは限らない。むしろ、それよりは結果として大きな社会問題を巻き起こすことが自らのステイタスや利益に跳ね返る。もちろん皆がそれのみを追い求めているのではないだろうが、個人の場合には生活に直結するだけに切実な問題でもある。
 逆に組織としてのジャーナリズムは、より本質的に社会問題に切り込んでいくことができるバックボーンを持っている。もっとも、多くの場合により大胆なのは個人のジャーナリストなのは言うまでもないが、しかし実態としては企業ならではのしがらみや倫理観をはじめ、バックボーンを持つことの心地よさや、日々の業務の忙しさもあってなかなか結果を残せているとは言えない。
 そして、何よりもリアリストではなくむしろロマンチックな状況(行動)に酔っているように見えるところが少なくない。社会正義を追い求める自らの姿に陶酔しているのかどうかはわからないが、特定の夢や期待に向かって記事を作り上げているように見える(ex: http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201309240562.html?ref=reca)

 ジャーナリズムは、特定の正義を実現するものではなくむしろ真実を追求するものだと私は思う。正義はその真実を基に考えるべき問題であろう。ところが、現在の状況は正義を行うために必要な事実を追いかけている状況ではないかと思うのだ。
 すなわち、順序論が逆転している。理由は、リアリズムとロマンチシズムのどちらにウエイトを大きく置くかの認識の問題である。不偏不党とはまさにこのリアリズムを追求する姿勢があるからこそ生まれてくる言葉だと思う。
 以前からもそうだったのだろうが、敢えてジャーナリズムと呼ぶが新聞等のメディアがロマンチシズムに沈む時、特定層の読者を得ることはできるが社会全体を動かす力を大きく失っていくのだろうと思う。