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2013-09-26

見たくないものを見る

 人は自分が見たい「もの」のみを見ようとする。だから、見たくないものは仮に視界に入っても一般的には無意識フィルターにより除外される。逆に言えば、見たくないものが無視し得なくなった時人間は感情的に反応する。これは、自らに好ましいものを見るという行為が人が感じる快適性に関係するためであろう。
 自ら好ましいと思わないものは感情的に苦痛を引き起こす対象物であり、但しその存在自体は人それぞれ異なるものでもある。人は本来本能に支配される動物的な存在であり、無意識の行動はこれにより制御される。痛覚による刺激は典型ではあるが、五感以外にも看過できない不快さを抱き得る。ただ、それを理性という意識により望ましい形に折り合いを付けているのが現代社会における常識的なあり方である。

 快適さと言うことで言えば、自らが好ましく思わない部分を見ない(無視する)ことが最も容易な方法である。もちろん、無視し得ないものに対しては対処が必要ではあるが、無視することでやり過ごせるのであればそれに越したことはない。一方で、自らが快適だと思うものに対してはそれが仮に小さなものであっても敏感に反応する。
 生物として、身体や精神に悪い影響を与えるものを排除して良い影響を与えるものを取り入れるという意味では至極当然のこととも言える。ただそれは個体としての人間の話においてのみであり、社会というカテゴリーについて考える場合には悪いあるいは不快な事項について考えることは避けることができない。

 哲学や思想というものは、この不快なものを直接ではなく間接的に理解し覗き込む上で非常に有効なツールなのだと私は思う。もちろん、快適さを理解する上でも理知的な思考は同様に必要なことであるのは間違いないが、本能的に忌避したいものを敢えて特別に取り上げなければならないからこそ、こうした特別なテクニックを必要とするのではないかと思うのだ。
 しかし、実社会において多くの人は見たくないものを感情的に排除しようとする。感情という、一種爆発力を持った情動を利用して一気に状況の解決を図るか、あるいは不快性の排除という対偶を用いることで快適さを誤認しようとする。
 感情による行動は一種高揚感を伴い甘美で心地よい。もちろんそれを発露させる原点は目を背けられなくなった不快さではあるが、その不快さが何に起因するかによってはこうした行動は大きな問題を抱えることになる。

 社会における一庶民との立場から言えば、社会的に迷惑をかけない限りにおいて自らが快適性を追求する権利を有している。また、ポジティブな意味においてはそれを上手く楽しめる人は「人生の達人」として称賛されるだろう。ただ、それはあくまで私的な時間内においてのことであり、社会と深くかかわる公的な時間帯においては、むしろ不快なものと如何に上手く接するかが求められる。
 直接的に見たくないものを見るのは本能(無意識)が拒絶する。だとすれば、誤魔化すという表現が正しいのかどうかはわからないが、不快さと同居するための何らかの術を知ることが重要となる。忍耐とか我慢という昔ながらの頑張り方は慣れにより受ける衝撃を低減させる方法だし、あるいは不快さの中に好ましい部分を見つけることで無意識と折り合いをつけるケースもあるだろう。

 個人レベルでの努力は、社会にいる以上その多少は別としても必ず誰もが行っている。さて、それでは企業はどうだろうか。あるいは様々な団体はどうだろうか。実は、結構快適さのみを追いかけていることが「真」となっているケースが多く見受けられる。別にそれを悪いというつもりはないのだが、社会とかかわる場面ではもう少し考えなければならないようにも思う。

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