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今日日の私・新

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2009-12-31

送る言葉


 実は、父に対してずっと複雑な思いを抱いてきた。ある種の父の言動や考え方をどうしても容認できず、しばしば衝突したり、もしくは言いたい事を我慢してストレスを溜めて生きてきた。しかしながら私の人格形成上重要な役割を演じた人物の一人が父であることはまぎれもない事実であり、彼を全否定などできるはずもない。一方で、自分のやりたいこと、なすべきことを明確にわかっていて、常に一心に目標に向かっていた姿勢は私に欠けている点で、そこは尊敬していた。

 父は日本政治史の研究者であった。大学の教員を退職した後も、自宅で地道に研究を続けていた。家で一緒に飲んだ後でも、彼は毎晩机に向かっていたと思う。頭の回転も研究意欲も最期まで衰えることはなかった。
 以前彼が、80 歳まで生きられれば満足だ、とポロッと漏らしたことがある。最近また新たなテーマに着手し、「この仕事はあと2年で完成させる」と見通しを語っていたものだが、思えば2年後には 80 歳になるはずだったのであり、今回のテーマは彼の長期計画の集大成となるべきものだったのだろう。残念ながら最期は急速に肺炎が進行し、仕事にケリをつける暇もなくあっけなく逝ってしまった。成すべきことを成し終えて予定通りに人生の幕を閉じることは、本当に難しいことなのだなと実感する。

 一人の老人が死ぬことは一つの図書館がなくなることに等しい、という言葉がある。身内ながら父の知識や洞察力には見習うべき点が多かった。最後のテーマが志半ばに終わったことは、世界にとっての損失で単純にもったいない…と思うのは、分野こそ違えども自分も研究者の端くれだからだろうか。
 葬儀の際に、私が遺族代表挨拶をすることになった。父が最後まで何かをやろうとしていたことを会葬者の方々に知っていただきたいと思い、自宅で研究していた話や、2年計画の仕事に着手した矢先であったという話をスピーチした。何人かの会葬者の方に良い挨拶だったと言っていただいて嬉しかった。世界にとっての損失だと思って下さる方が他におられたかどうかは知る由もないけれども。

 年をまたいでこの話題を続けるのも何なんで、この日付に書きました。父の話はとりあえずこれにて。(10.1.15 記)

2009-12-30

12/21 - 12/31 の記録


 12/31 (木):秋葉原[パーツ少々。小さい店はほとんど閉まっていた] → 光が丘で母と落ち合い買い物。帰宅。伯父が昔の写真をプリントして届けに来てくれる。
 12/30 (水):練馬[郵便局 → BOOK OFF → ネット → 乾物屋 → 母と落ち合って銀行]。妹一家が来て夕食。
 12/29 (火):池袋[キンコーズで PC 作業 → 郵便局] → 練馬[母と落ち合う → つけ麺 → 郵便局 → 銀行]。妹一家が来て夕食。
 12/28 (月):母は歯医者へ。その間に自分は練馬へ[郵便局 → ホリミネラロジー(休みだった) → 書店 → クリーニング店]。
 12/27 (日):練馬[ネット → ラーメン → BOOK OFF → 書店 → ネット]。ネットの目的は NHK フランス語講座のストリーミング音声をボイスレコーダーで録音すること。
 12/26 (土):父の古い友人のハワイ在住の日系米国人に、父の死を伝える手紙を書く。文面は自分が原案を作って母が加筆修正した。母はプリンタ印刷を拒み、手書きで便せんに一字一字したためた。なんだか忘れていた「心を込めて手紙を書く」という作業を思い出した気がする。練馬の本局で EMS で発送。夕食は妹の家でカニ鍋。
 12/25 (金):朝、家族ぐるみのつきあいだった不動産屋さんがお線香上げに来てくれる。午後、母と区役所へ。夕食を済ませた後、我が儘を言って単独行動。阿佐ヶ谷の映画館へ映画を観に行くも満席で入れず。憂さ晴らしにアングラ風カフェ『よるのひるね』(初)に入って店の蔵書を眺めて過ごす。練馬[JEANS MATE(ズボン1本購入)→BOOK OFF(本購入)]。
 12/24 (木):妹の車で母と、父の最期にいた病院へ挨拶に。練馬に戻って銀行や区役所を廻る。
 12/23 (水):喪中ハガキ投函。夕食:妹一家が来てクリスマス会食。姪甥には藤子・F・不二雄全集のオバQの1・2巻をプレゼントし、異常に喜ばれる。
 12/22 (火):母・妹と池袋東武へ。いただいた花を生ける花瓶3個買う。途中自分だけ電器店にてボイスレコーダーを買う。一旦帰宅後、妹の家のインクジェットで喪中ハガキの印刷をさせてもらう。
 12/21 (月):妹の車で母と仏具店へ。祭壇にとりあえず必要な仏具一式を買う。夜、一人池袋のキンコーズへ。自分の喪中ハガキのための Photoshop 作業を少々。

葬儀


 リーダーの交渉のおかげか、幸い 15 日の午後に県庁が本物の滞在許可証を交付してくれた。これで帰国できる。16 日昼に CDG 空港発、17 日朝(日本時間)に成田着。実家に直行。父と対面。いつもと違わない顔で、ただ昼寝しているように見える。
 既に家族が葬儀社と葬儀の段取りを進めているところだった。通夜と告別式は、私の帰国日に配慮して余裕を持って 19・20 日に決めてくれてあった。

 通夜式の直前に遺族立会いのもと‘納棺の儀’があった。開始早々、悲しみを増幅させようという意図の安っぽい BGM が流れ始めた。なぜかうんざりして「音楽はいらないんじゃないかな」と係の人にクレームして止めてもらった。
 今回は『おくりびと』で見たやり方よりは簡略化された方法で、全身着替えるのではなく、着ているパジャマはそのままで襟元だけに白い布を置いていた。胸から下は別の布で覆うので、一見白装束を着ているように見える仕組み。係員が父の両手を胸元で組もうとするが、硬直が進んでいるのでうまくいかない。無理に胸の上で保とうとしても、腕がぶるんと脇に落ちる。まるで、他人から指図を受けるのが大嫌いだった父が「うるさいなあ!」と係員の手を振り払っているようで、妹も私も思わず笑ってしまった。腕の位置は父本人のしたいようにさせてあげよう、ということにする。

 正直に言うと、それほど悲嘆にくれるでもなく、意外に父の死を淡々と受け止めている。遠からずこの日が来ることを覚悟していたからでもあるし、その自由奔放な生き方にずっと周囲が振り回されていた面もあったし。最期の1日は呼吸困難で苦しんだという話なので、その苦しむ姿を目の当たりにしていない自分は、臨終の際に傍らにいた家族とは感じ方が違うという事情もあるかもしれない。
 今回の葬儀で私が1回だけ泣いたのは、通夜の席での読経の最中のこと。高齢で病気もあり「来るかどうかわからない」と言っていた伯父母が、遅ればせながら駆けつけてくれたのを見た時に、不意に涙が溢れてきた。なぜそこで最も感極まったのか、自分でもうまく説明できない。

2009-12-26

ご報告


 前回の日記に詳しく書かなかったために、一部の方にご迷惑をおかけしてしまいました。すみません。
 15 日に父が逝去しました。帰国を早めたのはそのためでした。喪中はがきを出すタイミングも遅くなってしまった。また、知人でも出していない人もいる。今から私に賀状を出そうとしていた方がおられないとも限らないので、遅まきながらここにご挨拶申し上げることとします。

 ◇ ◇ ◇
 14 日、職場のパーティを終えてオフィスに戻ってきたら、妹からメールが届いていた。「いつその時が来るかわからない容態だから、帰国を早めて」ということだった。間の悪いことに、このとき私が持っていた滞在許可証はレセピセと呼ばれる仮の状態であり、この状態で国外に出て再入国しようとしたら空港の入国審査で足止めを食う恐れがあると大学事務の人に警告された。本物の許可証がもらえるのは 18 日以降と通知されていて、そこを何とかならないかと、グループリーダーが翌日県庁に一緒に行ってくれることになった。旅行代理店に問い合わせ、2日後の 16 日の航空券が入手可能であることを確認する。
 翌 15 日朝、県庁の前の道路に立ってリーダーを待っていたときに、妹から携帯に電話が入る。父死去の知らせだった。思っていたよりずっと早くその時は来た。

2009-12-16

業務連絡


 予定を前倒しして、本日一時帰国します(再渡仏は1月4日の予定)。しばらく更新は滞りがちになると思われます。

2009-12-14

フランスで鍋をやる


 自室で鍋パーティ。「日本では‘過ぎゆく年の災いを忘れる会’と称して 12 月に鍋パーティをやるのが普通です」などと言って外国人も誘う。参加者はいろいろなつてで集まった日本人3名、フランス人1名、カメルーン人1名。
 第1ラウンドは鱈ちり鍋、第2ラウンドは豚キムチ鍋、締めにラーメンというラインナップを決めておく。材料として鱈、豚、シイタケ、白菜、ネギ、豆腐、キムチ、インスタントラーメンを市内で購入。ダシ昆布は日本人参加者から提供を受ける。ポン酢は当地では売っていないようなので、自作することにした。けど手元のレシピには「かぼす、すだち、だいだい」などの柑橘類を入れると書いてある。そんなものが手に入るわけがない! 結局レモンとライムで作った(検索してみるとそういうポン酢を作っている人もいる)。あと大根おろしのかわりに radis noir という野菜をおろして使った。これは皮だけ黒く中身が白い、大根の仲間。

 結果、鍋の中身は日本人のみならず意外に外国人にも好評だったようだ。そして時間が経つにつれて、飲み食いしたりネットしたりギター弾いて歌ったり、各人が思い思いに過ごすモードになり、まさに日本の学生たちが部屋で仲間と鍋をやっているような雰囲気に。
 フランスでもそれなりに鍋ができるということがわかって、良い経験になった。楽しかった。

2009-12-11

リモージュ


 日帰り出張で Limoges へ。そこの大学の講師の先生が Habilitation à Diriger des Recherches(ポスドク等の研究者を指導する資格)を取得するための公聴会があり、その審査員としてウチの所長が呼ばれた。たまたま公聴会で話されるトピックの一部が私のテーマと近かったので、お供して、公聴会を傍聴し研究室を見学させてもらった次第。
 研究室は約 20 年の歴史があり、PLD 装置も3台くらい設置されている。そこそこ広い実験室なのに装置密度は高い。以前ここを訪れた我がグループリーダーは、その動きにくさや安全性への配慮の不足があまり気に入らなかったと言う。しかし私はここの雰囲気にはむしろ親しみを感じた。日本の大学の研究室に近いから。
 以前からしばしば引用させてもらっている論文の筆頭著者(ここで博士号を取って、現在は他大学の助教授をしている)にも会うことができた。研究熱心でかつ快活な人で、親しく接してくれたのが嬉しい。

 リモージュはトゥールから南に車で3時間。電車で行くと5時間かかるという。「center of nowhere」だと冗談を言う人もいる。行ってみたら、やや小さいけれども歴史を感じさせる街だった。町に坂が多いところはちょっと渋谷に近い感じ。
 往復6時間、所長と2人きりで車内にいるのは少ししんどかった。でも道中の風景は美しかったし、リモージュで得たものも多かったので良し。(写真は移動中の車から。場所はよくわかりません)

12/11 - 12/20 の記録


 12/20 (日):父告別式。
 12/19 (土):父通夜。
 12/18 (金):葬儀用の靴を買う。
 12/17 (木):成田着。実家へ。
 12/16 (水):CDG 空港へ。今回はそれほど待たされなかった。エールフランス機にて帰国の途につく。
 12/15 (火):県庁へ朝と午後の2回赴き、滞在許可証の交付を受ける。ターボポンプ試運転。また動かない。続きは来年だ。
 12/14 (月):職場で3研究室合同イベント。仏語講座。
 12/13 (日):晴、寒い(最高3℃) 部屋で安静に過ごす。仏語学習とか。『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』(オリヴィエ・ダアン監督 2007 年)DVD で観る。★★★★☆ ちょうど主演のマリオン・コティヤールが新作映画のインタビューで今日の TV ニュースにゲスト出演していた。
 12/12 (土):晴 少し熱が出る。Atlantes に買い物に行っただけで寝て過ごす。
 12/11 (金):晴 デスクワーク。夜、自室で鍋パーティ。

2009-12-04

「学習」と「科学」


・「学習」と「科学」、来春休刊

 少子化や主婦層の在宅率の低下、子供たちの価値観の多様化などの影響で「最近は部数が最盛期の10分の1を大きく下回る状態」(同社)が続いていた。「学年別総合雑誌が時代のニーズに合わなくなった」と判断し、休刊を決めたという。[朝日新聞]

 残念です。小学館の学年別学習雑誌も「小五」「小六」が休刊になるというし。コドモには、各々の価値観を確立させる前に、様々な情報を提示して見せる総合的な雑誌の存在がいまでも重要だと思うのだが。
 学習と科学の持ち味は、どんな素材でも使うデラックスな付録にあったと言える。とくに科学の付録は「作る」「動作原理を学ぶ」「日常で実際に使う」という3要素を兼ね備えたものも多かった。ただここ十数年の付録からは「作る」要素がかなり排除されていると聞いて、状況の変化に不安を覚えていた。
 コドモ時代に多様なものづくりを体験する機会はどんどん少なくなって行く。20 年後の自然科学界がどんなふうに様変わりするのだろうか。

2009-12-01

パリ・リヨン駅 1979-2009


 大河ドラマ『獅子の時代』(1980) 第一回の冒頭部は当時強烈な印象を与えた。何しろパリのリヨン駅に幕末の武士数十人が現れてホームをのし歩くという、時代劇として型破りなシーンだったから。さて今年の9月にリヨン駅の近くに泊まったので、この機会に 30 年前のロケ現場を見学することにした。駅構内、階段を上った所にカフェレストランがあり、その入口前の踊り場からホームを見下ろせる。きっとドラマ冒頭の俯瞰シーンはここから撮ったに違いないと考え、自分もその場所から写真を1枚。幸い、くだんのドラマ冒頭部は YouTube に UP されていたので、並べてみる。写真1枚目は今年のリヨン駅(撮影自分)で、2枚目は 30 年前のリヨン駅(ドラマ映像からキャプチャ)。構内の装飾は多少変化しているが、建物自体が変わっていないから比べやすい。おそらくカメラ位置の見立ては間違っていないと思うけどどうだろう。

12/01 - 12/10 の記録


 12/10 (木):快晴 書類書き。昼、一時帰宅。午後、大学本部にて契約書関係手続き。仏語講座。夕食:いつもと別の安パスタ屋(初)で持ち帰りカルボナーラ。
 12/09 (水):曇/晴 リモージュへ日帰り出張:公聴会聴講、研究室見学。トゥールに帰還後 Petite Arche に買い物。
 12/08 (火):曇→雨 ミーティング用書類作成。午後、共同研究先にてミーティング2件。職場に戻る。ちょっといい知らせを受ける。夕食はイラン料理屋でローストチキン。
 12/07 (月):曇→雨一時強し 朝、郵便局で書類 A 発送。出勤。共著論文著者にメール。書類 B 作成。夕方、仏語講座へ。夕食に Jean Jaures でパニーニを食べて、職場に戻る。書類 B 完成・アップロード。夜 12 時のバスで帰宅。 
 12/06 (日):雨→晴 書類 A 作成。深夜2時に完成。途中、職場に物を取りに行く。
 12/05 (土):雨/曇 職場へ寄った後、Atlantes と市中心部に買い出し。夜、日本人学生の部屋に招かれて日本人3名で食事。70 年代フォークなどの弾き語りをリュートでやらせてもらった(初)。
 12/04 (金):快晴→雨 共著論文のカバーレター推敲。書類 A 書くも終わらず、発送は延期する。退勤後 IKEA に。夕食:安パスタ屋。
 12/03 (木):晴→雨 共著論文の推敲。文献学習。昼、Leroy Merlin へ。夕方、仏語講座。
 12/02 (水):曇/雨 業者や他研究者とメールやりとり多数。実験室のガスセンサー交換。引き続き助成金申請内容考える。
 12/01 (火):晴→曇 大学の外国人担当セクションを訪問。出勤。1月中旬締切の助成金への応募を打診され、内容を考える。