あうとわ~ど・ばうんど

Out To Lunch 序論 〜覚書風に〜

ONJOの新作を聴く前に、自分なりの「Eric Dolphy/Out To Lunch」論を書いておくべきだと思っていた。しかし、愚鈍な感性と凡庸な頭脳しか持たぬ自分の手には余ることがわかった。新作は明日か明後日には届くはずになっていて、もう先延ばしにはできない。そこで、せめて断片的にでも思っていることのいくつかを箇条書きしてみることにした。いつか書くかも知れない「Out To Lunch」論のために。

    • この作品は謎だ。初めて聴いてからおそらく今まで100回以上は聴いただろう。でも謎だ。もちろん謎といえば「Other Aspects」だって謎だが、そんな明らかな謎とは違う。何がどう謎なのかすら表現できないような謎だ。演奏に魔法がかけられているとしか考えられない。これからも謎であり続けるだろう。
    • 初めて聴いたのは、高3ぐらいだ。当時、唯一の友達だった同級生の父がジャズファンで、彼の家に行き、彼の父自慢のオーディオルームに2人で入り込み、ビールを飲んだりしながら(!)、いろんなレコードを聴いたものだ。そこで初めて聴いた「Out To Lunch」に、自分は最初あまりピンと来なかった。何か違う、と思った。その感覚を今でも覚えている。
    • ドルフィーのジャズは「フリー」ではなく「アウト」なのだ。ジャズの主流派から「アウト」だし、フリージャズからすら「アウト」だ。この作品は、その中で最も「アウト」なものだ。当時のジャズの中に類似品が見当たらない。それでも、この作品は紛れもなくジャズなのだ。
    • 変拍子。不穏だがどこか心安らぐ不思議なハーモニー。5者対等に演奏しながら対決色なく、それぞれが互いに反応して対話を進めるのでなく、互いに別々の音を綴っているのでもなく、しかし有機的な調和を保って進行する曲。このアルバムが、現在のジャズを用意したのかもしれない。
    • この音楽を聴いて、スカッとすることはないし、単純に感動できる作品でもない。聴き終えたとき、喜怒哀楽では割り切れない名付けようのない感情に襲われる。もちろんそれはドルフィー自身のサウンドから感じられるものと一緒だ。この感情こそ、素晴らしい音楽を聴いた証なのだ。