大江健三郎/空の怪物アグイー

 私の友人には風変わりな男がいて、そいつの言うことはいつだってまるっきり嘘のように聞こえる。案外本当のことを言ったりもするのだけど、本人は本当のことを心底つまらないと思っているらしく、本当のことを口にした自分に落胆している様子を隠そうともしない。そんなヤツの言葉のカタログはたぶん私の記憶のなかにしかアーカイブされていなくて、だから私は彼の言動を好き勝手に編集してまるで自家製のアイデアのように繰り出すことができる。本人から苦情が来たらひっこめるかもしれないし、苦情のほうを突っぱねるかもしれない。その判断はきっとその時の私たちの関係次第だ。


 その彼が、こんなことを言ったことがある。


「右目の視力と左目の視力がぜんぜん違うんだよ」


「はあ、ガチャ目なんだねえ」


「でね、はじめて会ったときにこっちの見えないほうの目でもくっきり見える女の子がオレの運命の相手なの」


「うん」


「たぶんその子、草原に立つ大きな樹のかげに、白いワンピース着て立ってる」


「なるほど」


 大江健三郎のこの小説はそんな風にはじまる。


 「セヴンティーン」のあとに読んでしまったからなのだろう。強い刺激を求めて読み始めた私の目にはいかにも物足りない話のように映った。ジュリアン・ソレルの名前も出てくるとおりベースは「赤と黒」。ぼくをアルバイトに雇った音楽家Dの伝言をかつての愛人に伝える場面や、ぼくがその映画女優をレイプしようとして果たせずに終わる直前の思い込みの激しさには「赤と黒」をかなり忠実に模倣しようとした形跡がある。そこにタイムパラドックスを始めとするSF的要素を軽く散りばめ、自らの子供が障害を持って生まれた現実をマイルドに埋め込んでその子の生まれなかった世界を夢想し……。


 私がこの小説を楽しめなかった原因のいくつかははっきりしている。ひとつは私がつい最近「赤と黒」を読み直していたこと。ジュリアンの魅力は出自によって損なわれることのなかった気位の高さと直情径行にある。その思い込みの激しさは確かに大人から見れば笑うべき滑稽さかもしれない。けれどジュリアン自身は決して自らを恥じたりはしない。弁解もしない。ただ激しい情熱と思考の赴くままに行動して種々の昇進とスタンダールの夢の女性を獲得する。
「いえいえ、ぼくは自分が馬鹿なことをしてることくらい自覚してるんです。その程度には知的なんです。だからそう思われるほど馬鹿じゃないんですよ?」
ジュリアンはそんな言い訳を用意して自分の行動を説明したりはしないから、その点ぼくの弁解じみた自分語りにはイライラさせられた。
 もうひとつは、私がすでに「個人的な体験」を読んでしまっていたこと。障害を持って生まれてこようとする我が子の死産を祈る直截な表現は私にきわめて正統的な文学的衝撃と感動をもたらした。適度なずらしとごまかしによって温められたこの小説の表現が物足りなく感じられるのは仕方のないことだろう。
 それと、以前にも書いたことだけれど、この小説においての決定的場面での描写の過度なシンプルさと唐突さはやはりはっきりと欠点と呼ぶべものだと思えた。人の生死など関心に値しないというのならそれは物語の結末に置くべきではないのだ。


 ウィリアム・ブレイクの「悪魔の饗応を拒絶したもうキリスト」という絵画のタイトルを目にして、私は大江健三郎の小説が表しそして西洋世界に受け容れられた経緯を的確に理解しているように思った。それは詳しくは私が自分自身の小説で書いていくべき事柄だ。けれどこの小説からかすかに聞こえるくすくす笑いのようなものは、また違ったいやな予感を与えてもいる。


 サルトルからの影響は大江自身も認めている。「一指導者の幼年時代」に描かれた少年のように大江が生長していたのなら、私は大江作品の読み方をかなり根底から見直さなければならない。