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定斎屋の藪入り

2018-01-10

上杉慎吉「試験の朝は一種緊張した愉快な気持がした」

 『三百三十三名家 洗心道場』は日本新聞編輯局編、昭和4年3月発行。日本新聞の1面に掲載された、名士333人の論説をまとめたもの。題字は小川平吉装幀は殿木眞。

 新聞の名前通り、「其基く思想は日本主義の上にあります」のが特色。いはゆる日本主義的な人が目につく。どれも短文で、ありきたりなもの、現代ではピンとこないものなども多いが、有益なものもある。

 神崎一作、宮地直一、村山惣作、宮西惟助、山口鋭之助が並ぶが、これは新聞の日付順かわからないが壮観だ。山口は「山陵と神社」。

従来、すべての墓所は山陵に至るまでこれを穢らはしいものと考へて来た。しかもこれと反対に神社は神聖なところとして来た。(略)この間違つた思想を如何にしてたゞすべきかといふ問題が第一の問題であつた。

 と語り、神道を国教にして、一生この問題に取り組むのだといふ。

 川面凡児の題名は「八百万神」。

天皇は明津身としての生き神であらせられ、下臣民は現津身としての生き神である。上下挙つて荒人神である。上下悉く聖者であり、預言者である。八百万神でなくてはならぬ。

 天皇も臣民も荒人神で、ともに八百万神であるといふ。のちに満洲国皇帝がアラヒトガミかどうかが問題になったが、このときは新聞の1面でも問題なかったやうだ。

 三上参次は「言葉と思想」。三上は乱暴な言葉を使ふと感情も荒くなる、革命といふ言葉がはやるのも問題だといふ。

 曰く、万年筆の革命、曰く、風呂釜の革命、曰く何、曰く何、実に多い。(略)かく人々が平気で革命の二字を口にし筆にするときには、これになれて感情も思想も革命といふ二字をさまでに怪しまず、我国に於てはこの二字がこれに相当せる西洋語を使用せる国家と大に相違せる点あることをも忘れるようになりはしないかと心配せられるのである。

 白井光太郎東大教授は「伝統的生活」。青年時代、皆欧米崇拝熱に浮かされてゐたが、白井はそれが残念でたまらなかった。「私は鉛筆、手袋、襟巻、帽子の類は勿論、大学の制服さへ用ゐなかつた」と、洋風のものを排して伝統的な生活を心がけた。鉛筆は平成の世では旧式な道具だが、白井は鉛筆ではなく筆と墨を使ったのだらう。

 上杉慎吉は「試験」。最近試験地獄などといって非常に悩む学生が多いが、上杉は「試験が厭だと考へたことがない」といふ。

試験の朝は一種緊張した愉快な気持がした。大学時代には母親が試験は学生にとつて戦場に行くやうなものであるといつて、試験場で着る着物を全部新調して古郷から送つてくれた。(略)試験が苦痛になるのは要するに意気地がないからだと私は考へてゐる。

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2017-12-23

田中義一に助けを求められた内田良平

 『心霊研究』(日本心霊科学協会)の昭和33年11月号に、田中信成が「N氏の心霊談」を書いてゐる。飛行士の徳川好敏の邸だったところに移り住んだ田中氏。そこでN氏から奇妙な心霊談を聞いたといふ。大本教の宣伝使だったといふN氏の経歴に目を引かれる。N氏本人の語るところによると、

右翼の壮士で言論機関も持ち内田良平の門下、東京で邪教撲滅大講演会を主催して、一時大本教をつるし上げたこともある愛国運動を業とするその道の指導者であった

 心霊談に登場するのは出口日出麿、田中義一内田良平。田中信成の煽り文がものすごい。

思念感応によるすばらしい霊波の電光石火的感動!三巨人が場所を隔てゝ同時同時刻同一病状の苦悶のうめきにのたうちまわる不思議現象!!

 昭和の初め、内田は日出麿を昼食会に招待。名剣天国(あまぐに)を贈呈すると、日出麿はご神体ともなる宝剣だと感激し、お礼に念を込めた手形の色紙を贈った。

 その後の10月3日、内田は藤山雷太、徳富蘇峰田中義一らと会合。翌日、内田はひどい痛みに襲はれる。

『何しろ突然心臓の辺りから胃の辺りへかけての激痛でね。物も言われぬ苦しさじやった。電話でわかったが丁度田中の死んだ時間じや、奴この世では大臣じゃのと威張っていても死んでみるとサッパリあかん。大勢の鬼どもに取囲まれて地獄へ引きずり行かれるもンじゃから、苦しまぎれに僕ドンとこへ助けてくれと来おったのじや』

 そこで内田夫人が日出麿の色紙を夫の胸に乗せて祈ると、痛みが治まり助かった。あとで田中信成が日出麿を訪れると、丁度その時刻に日出麿も苦しんでゐたのだと聞かされた。田中義一の霊は内田良平から追ひだされたので、今度は日出麿に取り憑いたのだといふ話。

 

 実際の田中義一の命日は9月29日なのが気がかりだが、内田の刀剣好きや福岡弁が盛り込まれてゐて、なかなか真実味がある筋立てになってゐる。

2017-12-17

川面凡児「一切人類総て神の子であります」

 『宗教大観』は宗教大会事務局編纂、長野市の仏都新報社発行。明治41年9月発行で手元のは10月の再版再版には倉嶋元弥や子供時代の倉嶋至らの写真もある。仏都新報は元弥(号は鬼成)が3年前に創刊した。仏都とは善光寺のある長野のこと。

 この中には宗教大会開催にあたり、神道仏教などについての識者の論説が多数載ってゐる。

 通俗仏教新聞主筆の高田道見は

我が畏友の川面凡児氏が、日本神道の振るはざるを憂ひ、全神教趣大日本世界教といへるを宣言発表し、着々として自己所信の主義を拡張しかけられた

 と畏友、川面凡児に触れてゐる。

 その川面の口演、「大日本世界教略義」が載ってゐて、川面の教えが表明されてゐる。

 吾等日本民族は、いかに光栄ある民族よ昔昔の昔よりして、宇宙の大根本を解釈し、之を尊びて 天御中主大神と名け奉りこの大神の活動の体たる天地万有をば、八百万神と尊称すると共に、人間をも、直にその八百万神の一に加へ、生れながらの神としてある

 人間と別に八百万神といふものがあるのではない。また八百万神は日本だけにゐるのではない。世界中の人間も、天地万有も神である。

 日本民族は、基督は勿論、世界列国の預言者を悉く宇宙根本の発顕体として、八百万神として、敬意を表し、其徳を賛美するの宏懐雅量あるものであります。

猶太一国が神の国でなく、基督一人が神の子でもない、世界列国悉く神の国也、一切人類総て神の子であります。

天御中主大神又の名はヱホバ、又の名はイラー又の名はゼウス、又の名はゴダ又の名はペルース又の名は仏、又の名は上帝の嘉納を蒙り度き者に御座候

 このあたりの神学谷口雅春につながるものがある。

2017-12-04

淡海節でサッスーンと親しくなった村井順

 『波乱も愉し』(昭和47年、やえざくら発行)は表紙だけではわからないが、中の扉に副題として「不屈の人 村井 順小伝」とある。村井順は初代内閣調査室長にして綜合警備保障の設立者。本書はその伝記。業界新聞の連載30回分をまとめたもの。

 著者は市原鶏也。サンケイ新聞の元政治部長。前書きに「この小伝は、あまり出来がよろしくない。かなり苦心したつもりなのであるが、村井さんの内奥にひそむ滋味を描きえなかったからである」と卑下する。

 村井の波瀾万丈の生涯に比べると、本書はその点がないでもない。分量も含めて、村井の生涯を素描したものといへる。要所要所で気になる箇所がいくつも出てきて、もっと書き込んでくれれば面白くなったことと思ふ。『民警』には参照した形跡なし。

 紀州藩士の曽祖父は細面。村井の写真は高校時代からある。顔も体も昭和20年頃まで痩せてゐる。吉田茂秘書官時代頃から、恰幅がよい西郷さん風になる。

 面接で天皇機関説に同調しても無事内務省に入省、山口県属を振り出しに福岡県防空課長を経て興亜院華中連絡部に転勤。仕事は上海の近くに新都市をつくること。

 英米との戦争を回避するため、ユダヤ勢力とも接近、安江仙江や犬塚惟重の名前も出てくるので驚く。上海財閥の大物、サッスーンと親しくなるため淡海節を修得。机に料理が並んだ席で一緒の写真に納まってゐる。

 内閣調査室、五輪組織委員綜合警備保障と、日本初の仕事を次々に担ってゆく。ワシントン・ハイツのアメリカからの返還にも尽力する。

 警備会社設立後、早稲田にもガードマン100人を派遣ゲバ棒学生3000人と対峙したといふ。

ゲバ棒に追われて大隈会館に逃げ込んだこともある。ガードマンの中には負傷者も若干でた。しかし、紛争に介入しないという方針がよかったのか、ガードマンにたいする批判はあまり聞かれなかった。

 

 

2017-11-28

「駄目埋め」「遊軍」だった田中沢二

続き。田中沢二の父は田中智学国柱会国体学で知られる。その他いろいろな事業を手がけ、沢二は父の仕事を手伝ふやうになる。

 『日本改造の具体案』の後ろの略歴は、版を重ねるごとに経歴が詳しく書き換へられるやうになっていった。音楽やタバコ、着物の好みなど人柄がわかる。

 経歴を記したものには、別に『田中沢二の半生』(昭和60年3月、らんせん先生著書出版委員会)がある。11年11月の生誕50年のときに出版が計画されたが実現せず、その後も何度も中止となった。昭和30年の没後更に30年、やうやくこの年に刊行された。

 ここには沢二がどのやうに父の事業を手伝ったか、何を思ったかといふことが丁寧に描かれてゐる。

 日蓮主義を宣伝するための活版所で印刷を学び、門下が開いた絵葉書屋では番頭をしたり売り込みに行ったりした。ミルクホールでは給仕兼配達夫。父の発想で、牛乳につける日刊新聞「乳暦」を発行することになり、その編集もした。それから雑誌『妙宗』の編集や講演もするやうになる。仕事ぶりが詳しく書いてあって興味深い。表神保町で本屋もしてゐる。

 沢二ら兄弟は、そのやうな仕事を「駄目埋め」「遊軍」と称してゐた。小学校を1年で中退した沢二は、言はれた仕事に反発することなく、むしろ力を発揮できることに喜んでゐた。

いろいろと展開する父の仕事には、必らずそういふものが無ければならないわけなのだらうから、喜んで与へられた仕事にもつくし、また実際つかなければ仕事がはじめられないといったわけのものだったのだらう。

 大体私は、大ぜいの人の前で大きな声で話をするといふ事があまり好きでない。余りすきでないといふよりは殆どきらひだ。殆どといふよりは全く嫌ひだ。

子供らしい遊びなどいふものは、たゞの一度もといふ程したことはなかった。それに、七つの歳からは全然学校といふものへ行かなかったので、私には、友達といふものがなかった。そうして私の周囲の人といったら、すくなくても、七八つ年上の人ばかりだったから、話をするといっても、若い者同士の溌溂たる感じなどは出てきっこはない。

 二葉亭四迷の文章やフランス文学に親しんだり、著書の造本にも一家言あったりといふのも関心が伝はってきてよい。単なる自伝や回顧録でなく、心の動きが克明に描かれるのに目を見張る。書名は『自伝』や『わが半生』ではなく、『田中澤二の半生』。次の箇所を読んだ時など、私小説だと思って感嘆した。背中に、よう、といふ出来物ができたときのこと。

出来物の痛さなど、そう幾度も経験のできる事ではない。出来た時にその痛さをしみじみ味はっておけば何かの役にはたゝふ。若しも相手をやっつける場合、――建設をする人間には、時と場合によって、やっつけなければならない相手もある――どんなあんばいに痛めつけてやらうか、出来物のようにやらうか、盲腸炎のようにやらうか、或は脱臼が三十六時間はいらなくって、筋肉が収縮する、その堪えがたいだるい痛み――これはその後の経験だが――のように痛めつけてやらうかなど考へることは時として必要なことではなからうか。

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