早川清「古本の莫迦高いのには呆れる」

 古本まつり少し覗く。年々人が多くなってゐるやうに思はれるのは実際さうなのか、こちらの嫌人の気が昂じてゐるのかちょっとわからぬ。沿道の棚なんど十重二十重といかぬまでも二重三重に人垣が出来てゐて後頭部の博覧会なり。交差点のところなど警備員が立ってゐて棚を見る人と通行人の仕切りになってゐる。前からゐたかしらと思ふ。なか卯の近くのカレー屋が閉店になってゐた。半年も経ってゐないやうな気がする。古書会館の方のグランプリは盛況。出入り口に近いシディークの行列は会場外の道路にも並んでゐる。
 会館にあるモクナビのチラシ、手に取る。国語文学といふ言回しが気になる。茶色いキャラの眼鏡が小さくてツルがないのが気になる。会場に年配のご婦人がご来訪で、世界文学全集か何かないかと聞くも、さあ探してもらはないとこちらでは何ともとか言はれてゐたのも恒例の問答。一体に初めての人は古本屋を本屋と思って、本のことを聞く。

 『豫報』といふのを購める。一番上に「随筆雑誌」とある薄い雑誌で、相模書房通信といふ青いスタンプが押してある。昭和15年9月号の1巻3号。発行所は日本橋相模書房。編輯者遠藤慎吾。相模書房は中の発行物一覧で見ると、岸田日出刀とか伊原青々園とか久留島秀三郎の渋いところの著書を複数冊出してゐる。
 執筆者が相当で、木々高太郎乾信一郎、大下宇陀兒、奥村五十嵐、三好信義鹿島孝二、岩崎栄、海野十三、松崎與志人、伊馬鵜平、風間益三、戸川貞雄、遠藤慎吾、早川清、笹本寅、竹田敏彦
 早川清は早川書房の人かなあと思ふ。「おけらの囈言」といふ題で、当時の古書価に触れてゐる。

 なんとしても古本の莫迦高いのには呆れる。それも鳥渡手に入れ難い古書洋書の類ならば、未だいたしかたがないが、比較的新しい全集物などが、大した勢ひである。
 例へば新潮社の世界文学全集(第一期)など三〇円近くだつたか、それ以上だつたかしてゐる。僕はこの本が揃ひ八円也で出てゐた四,五年前を識つてゐる。その頃僕は友達が持つて行つたきりで欠けてゐる分を揃へようと思つて、何冊か夜店で買つたことがある。その当時「二都物語」など十銭であつた。(略)
 古本屋の定石で全集物は店の一番前に出してあるのが例だから眼につきやすい。ぶら下つてゐる値段を見ると、鴎外が九〇円、漱石が六〇円、芥川が三五円、これが相場であるらしい。
 いづれも岩波の決定版だから勿論発行はそんな古いものではない。しかし定価よりははるかに高い。岩波のものだけを挙げて了つたが不思議にこれだけを覚えてゐるからである。
 しかし岩波のやうな良心的な出版屋の本だけが高いのかと云ふと決してさうではない。ばかばかしい程すべてが高いのである。古本の高くなつた理由は一般に余裕が出来て古本を出すものが少くなつたこともあるだらうが、なんと云つても紙の統制で新しい出版の自由を欠くことが第一だらう。しかし高過ぎるのである。或るものは出版元から残部を新の値段で取寄せたほうが、古本屋の本より安いとか云ふことである。全集物が五銭十銭であつた当時ほど莫迦安いことは要らないが、古本だけは買ひ良い値段が欲しい。今のやうだとそんなものをこれから纏めて読みたいと思ふ学生などえらく不自由することだらうと思ふ。

 戦後すぐの時も古書需要があったが、此の時は紙の統制で古本屋の好景気だったやうだ。古本屋にとっては統制さまさまである。全集が高いとか真っ当な時代だ。