清家正「電車の中でも立ちつゞけ得る健康と若さを誇れ」

 『教育修身公民研究』は精神文化学会発行。復刻がある。臨時増刊号の日本的錬成教育方法研究特輯は昭和17年11月発行。

 三井甲之の「臣道感覚錬成の教育法」があるが、これは談話と著書の引用をつなぎ合はせたもの。理由はわからないが「執筆など絶対せぬ」とのことで、記者が苦労してまとめた。影響を受けた人物として、ゲーテヒトラー、黒上正一郎、近角常観、清沢満之の名を挙げてゐる。

 「国体観念」を反転させたやうな「臣道感覚」については、次の高橋鴻助が解説。国体を全心身的に知覚することの大切さと、和歌のリズムを体得することを訴へる。

 吉田秀造は「神道実践に於ける日本的方法」を寄せてゐる。肩書は禊実践家。禊は神道の骨髄を心に植ゑ付ける最上の修養方法だと強調し、敬神崇祖の根本義も禊でなければわかりにくいといふ。天皇と臣民との関係は、榊の枝葉によって説明する。

根幹は天皇、枝葉は吾等臣民である。即中心と分派とは不二一体である。されば嵐の時、枝葉は必要に応じて散り又は折れることによつて中心を護る。それは滅私奉公ではない。(略)天皇が生きてゐられると云ふことは即ち自己が生きてゐるといふことである。

 戦争をしてゐる米英との関係も枝葉によって論じる。

荒身魂たり枝葉たる米英が中心となりては人類は幸福にはなり得ないと同時に米英と雖も天皇の御肉体の一部でさへあることを思ひ、天皇はやむを得ず米英等を撃ち給ふけれ共、それは御肉体の腫物を切開遊ばされるにも似たもので、世界を正しきにおくための御戦即ち皇戦であることを銘記せねばならない。

 清家正は東京府立高等工業学校長・東京府立電機工業学校長。自身の学校で実践してゐる教育法を披露してゐる。首を傾げるものもあれば、うなづけるものもある。「早出・残業・休日出が笑顔で出来る」「弱い身体の持主は工業人として勿論不適当である。死なないうちに早く他へ転向してほしい」「目は常に目的物にそゝげ。授業中ならば師の目に、作業中ならば作業に、雷が鳴つても、仮令大爆発が起つても目をそらすな」。

 指導は授業中だけでなく、電車の中の動作にも及ぶ。

電車の中でも立ちつゞけ得る健康と若さを誇れ。席を譲る譲らぬの問題ではない。満員電車に屈強の若者が座席を占めて居るのは体裁のよいものではない。立ち得る若さを誇るがよい。それ故に病気の場合は大威張りで着席して居てよい。仮令教師や先輩が目の前に立たうとも。

 健康なのに電車の席に座るのはあまりよくない。しかし病気ならば無理して立たずに、堂々と座ればいい。自主自律の精神を教へてゐる。

成瀬文学博士「火星とは何処か外国の町の名前ですか」

 暖かくなってきた。

 『衛生新報』の明治41年5月号は通巻81号。衛生新報社発行。「男子罵倒論」の黒光女史は相馬黒光だらうか。青柳有美に反論してゐる。もしも現在の男性と女性の立場を入れ替へたならば、女は男以上の好成績を収めるに違ひない、と自信を見せる。女が男に対してイエスともノーともいはない鰻主義でのらりくらりと立場を曖昧にしてゐると、男は泣いたり笑ったりと悲喜劇を演じる。見物してゐると、この世にこれほど痛快なものはない、と男をからかってゐる。

 両冠人の小説「火星の結婚」は火星小説、精神病小説における傑作といっていい名文。目次では雨冠人。

  成瀬文学博士は旧友の天谷医学博士を訪ねるため京都に向かった。天谷博士は京都で精神病院を経営してゐる。

 新橋から汽車に乗って、買った夕刊も読み終へて退屈してしまった。自分のすぐ向かふの席には50ぐらゐの老婦人と20歳前後の淑女が座ってゐる。心配さうに話し込んでゐるのに耳を傾けると、どうやら娘の許婚者が危篤だといふ電報を受けて駆けつけてゐるところだが、助かる望みは薄いやうだ。自分は楽しい旅行なのに気の毒なことだ、と同情する成瀬博士。 

 京都で天谷博士の歓待を受けた成瀬博士は、自慢の設備の病院を見学してゆけといはれる。院内を一周して天谷博士と話をしてゐると、患者が急変したといふ知らせが来て、天谷博士は出ていってしまった。なかなか帰ってこない。室内には、ほかに熱心に事務を執ってゐる書記一人しかゐない。「よほど前からこの病院の書記をしておいでですか」と尋ねた。

『然うです、丁度一年になります、私が火星から帰つて来ると、直ぐ此の書記をやりましたから』と答えて、異様に煌めく眼光で成瀬博士を見詰たが、其の顔は色蒼めた痩せた面容である。

 成瀬博士は此の書記の異様な答を怪しんで再び尋ねた『火星から?、火星とは何処か外国の町の名前ですか』

 成瀬博士が方向違ひの質問をするのも無理はない。しかし火星といへばあの、宇宙にある惑星のことに他ならない。書記は3年前に肉体は死んだが霊魂は火星に飛んで行き、それから去年帰ってきたのだといふ。火星はこの地球とさほど違ったところはない、しかしただ一つ大きく違ふところがある。詳細は割愛するが、書記は火星での人生の特色を滔々と説明してくれた。そのうちに火星と地球の違ひを再認識し、地球の方がをかしいと言ひ出した。

『…これを火星界の人生に比べるに、此の地球の人生は宛然(まるで)狂人のやうです、然う狂人です!、確かに狂人です!!』

 火星から帰ってきたと自称する書記は、ナイフを持って成瀬博士に襲ひかかる。危ふし、成瀬博士!!

 詳細は割愛するが、この小説はハッピーエンドの大団円で終結する。一時はどうなることかと思ったけれど、成瀬博士は無事なのだ。万歳、万歳、万々歳。外には桜も咲いてゐる。心もぽかぽか温かい。

 

 

・『めぐろかんこう大百科 ダイジェスト版』は奥付なしの冊子。一般社団法人めぐろ観光まちづくり協会発行。表紙にゆるきゃらのやうなのが7組描かれてゐる。彼らはmeguroレジェンダーズ。目黒の寺社の伝説から生まれた。くろにおう、きりん、とろけじぞう、ばくおう、おしろいじぞう、きしもじん、アカガシの巨大な株。…なぜ全員に名前をつけてあげないのか。ばくおうは全部で9つの目があり、白澤ともよばれてゐる。とろけじぞうが一番キャラが立ってゐる。アニメ化され、有名声優が声を当ててゐる。

 冊子には四コマ漫画、ぬり絵、クロスワード、まちがひさがしがあって、子供も楽しめる。大半は目黒の社寺や観光地の紹介になってゐる。地図があるともっとよかった。

 

 

裏口からソット逃げ出す坂井杉三郎

 『あなたの明日をつくる接客理論』は坂井杉三郎著、昭和37年3月第2版発行、国際理容協会出版部発行。坂井は明治43年2月、京都生まれ。昭和4年から亡父の後を継ぎ理容店を経営してゐる。理容関係の役員、特別講師などを務める。

 接客理論といふと堅苦しいが、実際は接客の心構へ、来店者の心理、理想的な店舗などについて分かりやすく解説したもの。特に女性心理についての持論を12章にまとめたものが目を引く。

 「理論的より気分的」「積極的協調心に乏しい」「仲間のあいだ(同性・同職・同級)で反目し易い」「小さい事を気にする」「おしゃべり」などが女性の特徴だといふ。

私がこれを黒板に書きますと、「随分失礼しちゃうわ」とか「まアヒドイ」なんて、聴衆の中の女性から不平が飛びだすことが多く、帰りには、裏口からソット逃げ出さないと、生命の危険に関すること等も御座いますが、私は、その時、いつも次のように説明します。

 女性は男性から見ると、つまらないことを気にしたり、ささいなことをいつまでも覚えてゐたりする。接客に際してはこのことをよく心得て、女性からの評判をよくすることが大事だと強調する。女性は虚栄心が強く妬みが強い。他人の衣服やアクセサリーをいつも気にしてゐる。接客するときはそれを逆手に取り、女性には年よりも若く見えるとか、顔、声、様子、髪型、衣服など、虚栄心を満たすやうに褒めることが大事だと説く。

 男性は10年ぶりに会った兄弟でも2、3分で話の種がなくなる。ところが一般に、女性はおしゃべりで話題が豊富で尽きることがない。接客する側としては、これを煩はしいと思ってはいけない。女性のおしゃべりな性格を利用して、店の良い評判を多くの人に伝へてもらふやうに日頃から心がけるべきだ。

 「強情で嘘が自然」といふ項では、新興宗教の開祖に女性が多いのも、神の声を聞いたと思ひ込みやすいからだと推測してゐる。

 

 

正雄少年のお見舞ひはカステラと少年雑誌

 『模範少年』は文盛堂編輯部編、榊原文盛堂魚住書店発行、大正5年1月発行。日記風の体裁で、正雄少年の善行が記されてゐる。模範的でない悪事も描かれるので、当時の世相をうかがふこともできる。

 最初は3月26日。お母さんが父の墓参りに行かうといふ。父は去年の2月13日に亡くなった。今日は父の命日ではない。墓の前で母が正雄に、お父さんの仰ったことを覚えてゐるだらう、と尋ねる。父は生前、しっかり勉強して偉い人になるやうに、と正雄に遺言してゐた。それなのに正雄の成績は悪くなるばかり。母はこの場で死んで、父におわびをするのだといふ。正雄は心を入れ替へて、翌日から学問に励み、品行を良くし、体を丈夫にすることを決心するのだった。

 伊藤君と上野に遊びに行った正雄。伊藤君は西郷隆盛銅像の前に立つと、紙をかみつぶして銅像に投げようとする。正雄は西郷が大英雄であり、紙つぶてを投げつけるのは無礼だと忠告した。伊藤君も素直に聞き入れてやめてくれた。西郷像に紙を投げつけるのは出世の願掛けのためなどといはれてゐるが、ここでは特に説明されてゐない。その必要がないほど、ありふれたことだったのだらう。そしてあまりよくない行動だったこともうかがはれる。

5月18日の日記には、弱い者いぢめに対する憤りを記す。この日、正雄少年は子供たちが集団で1人の若い盲人をいぢめるのを目撃した。袖を引っ張ったり杖を取り上げたりしてゐる。それを見て囃し立てたりしてゐる。子供から杖を取り返し、盲人の手を取って逃がさうとしたが、突き飛ばされて溝に落ちてしまった。気が付くと病院のベッドの上で、そばにはお母さんがゐる。自分の頭には包帯が巻かれてゐる。頭を打って、気を失ってゐたらしい。この話は、正義を遂行しようとすると危険な目に遭ふこともあると教へてゐるやうだ。

 7月1日は急性肺炎で寝込んでゐる伊藤君のお見舞ひに行ってゐる。カステラと二、三種の少年雑誌を持って行った。起きるのはつらさうなので、伊藤君に読み聞かせをしてあげた。

私は『日本少年』の中から、面白さうな題目を択んで、静かに読み聞かせた。伊藤君の顔には、時々笑ひが浮ぶ。私は更に、『少年世界』を読み聞かせた。

 病人には雑誌を差し入れするのが模範的。スマホ普及以前までは受け継がれてきた。 

 

 

黒神直久「中小神社が神社界の基盤なんですよ」

 『人間 黒神直久』は富田義弘著、山口新聞社発行、平成2年5月発行。国会図書館にない。黒神直久は山口県徳山市の市長、徳山商工会議所会頭、神社本庁総長などを歴任。その間、遠石八幡宮宮司も務めた。いくつものわらじを履いた黒神の生涯をたどり、読みやすくまとめたもの。年譜つき。

 著者は山口県下関市生まれで、民話や方言などの著書がある。アルバム8冊の提供を受け、巻頭には黒神の写真が多数収録されてゐる。カラー20枚は公的なものが主で、「徳川宗敬統理と芸能界の美女たちと」なるものも。名前がないので誰か判別できす。セピア色のものは35枚で、國學院大學時代、結婚写真など。山下清展テープカットでは黒神の後ろから山下が覗き込んでゐる。

 黒神は明治40年12月生まれ、昭和62年5月帰幽。市長時代は徳山にモーターボート場を開設し、財源を確保。バクチは見たこともやったこともなかったが、反対派とも対話して実現させた。出光興産徳山製油所の誘致にも成功し、起工式では敬神家の出光佐三の要望に応へ、神主として奉仕した。すぐにモーニングに着替へて市長としてお祝ひの挨拶を行った。

 昭和58年6月、神社本庁総長に就任。西日本初・中小神社の諸社出身としても初として注目された。黒神は次のやうに語ってゐる。

「中小神社があってこそ、はじめて大社が成り立っているんですよ。(略)中小神社が神社界の基盤なんですよ。その上に大社はジーッとあぐらをかいている。(笑い)」

 氏子とのつながりが強い中小神社の意義を語ってゐる。神社本庁庁舎の建て替へ問題も黒神國學院の同級生だった、明治神宮の高澤信一郎宮司から無償で土地が借りられて計画が進んだ。

 総長になると日本宗教連盟理事長などの肩書が何十も増える。5月は家に3日しか帰れず、6月も4~5日だったと激務ぶりを語ってゐる。庁舎の完成を見ずに亡くなり、胸像が総長室に飾られた。

 

 



 

木の花社営業ニユース「祭りは真釣り」

 『営業ニユース」は木の花社発行、No.5は昭和33年5月発行。おほもと5月号の付録。一枚の紙の表裏に通販の商品がたくさん載ってゐる。全国的茶道ブームで、大本支部でも茶道の習得に励んでゐる。そこで茶箱頒布会を開催し、茶道用具を毎月届けるのだといふ。

 電気罨法器は電灯から電源がとれる温シップ。腰、背骨、腹に使ふ。3500円。木の花こけしは新しい参拝土産とあるが、通販してゐる。郵送料共で116円。八雲琴は松号、梅号、竹号がそれぞれ1万円、8000円、6000円。松号の分割だと1回1000円で6か月。松竹梅の順番でなく松梅竹なのは何か神学上の理由があるのだらうか。

 食品や栄養剤の種類が充実してゐる。元気の素は「薬でないのに薬の働きをする最良栄養素」。GH100番は「副作用絶無 長期大量服用可 相乗作用服合せ(無害)」。

 2面には「病魔を追放せよ!!」といふ無署名論文が載ってゐる。神々の働きで食品の選び方を説明してゐる。アルカリ性食品は高御産巣日系統。海草、野菜、果実が含まれる。酸性食品は神産巣日系統。肉、魚、玉子、大豆、穀類が含まれる。こちらには嚙む作用の凝集性求心力と説明がある。嚙むでカムムスヒ。この2系統をうまく調和させることが大事である。これが祭り=真釣りにつながる。

祭りの本義は真釣りであり、その調和を失うものを罪けがれというのであり自づと禍を生じます。

 日本家屋の構造も日本人が肉食をしないのも真釣りの本義にのっとったもの。

 そのほかにも紙面いっぱいに商品を展開。笏と祝詞いれ、神授のカルシウムの真珠、食中毒にも急性肺炎にも効果を謳ふオモトゲン、左右の柱に水虫のタロン。湿疹にエクメンなどと幅広く、目移りがする。

 

 

 

漁師の弁当の歌をお詠みになった高松宮殿下

 『うひまなび 高松宮宣仁親王歌集』は平成12年8月発行、中央公論事業出版制作。函入り。高松宮殿下が青少年時代にお詠みになった和歌100首が収められてゐる。

 解説で出版の経緯を記してゐるのは阿川弘之正字正仮名。阿川の全集には著作目録にも年譜にも触れられてゐない。これによると自筆本が現存してゐるかどうかは不明で、学友の佃正雄が書写したものを基にしてゐる。佃は高松宮日記にも登場。殿下薨去の際に喜久子妃殿下に献納し、さらに約10年後、上木して世間に発表してほしいと希望した。佃は95歳になってゐた。妃殿下は「稚げな御作」もあるのでどうすべきかとお迷ひになったが、100部限定の自費出版、非売品で近親者たちに配ることになった。変体仮名は普通の字に改めたが、書名の「な」だけそのままにした。

 殿下満7歳から18歳まで、明治45年から大正12年までの御作。阿川はわらべうたのやうな御作風が次第に和歌らしく整ってゆくと評価してゐるが、かへってそのわらべうたのやうな御作の方に胸を打たれる。一首だけ謹載する。大正2年、「折にふれて(辨当)」の詞書がある。

わたくしはれうしのべんたう見た時に驚きましたよそのおほきさに

 「私は漁師の弁当見た時に驚きましたよその大きさに」。昼飯時にでも漁師の元をお訪ねになったのだらうか。漁師にとっては普通の日常のことなのだらうが、大きな弁当に驚きになってゐる。人の顔ぐらゐあったかもしれない。

 このやうな歌は逆立ちしても詠めない。シャッポを脱ぐしかない。覚えたので何度でも暗誦できる。2カ所のにでにっと口角が上がってしまふ。