Hatena::ブログ(Diary)

Oblivion? Oblivion! このページをアンテナに追加 RSSフィード

2003-04-29

 キーワード

「人種」を編集。いまひとつ納得いかない内容だったのでどうしようかとおもったのだが、ネットで参考文献を見つけたのでそれに従う。ぼくの見るところではこの定義は基本的には承認されていて、マイナーな規定ではないと思うので。

http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/000609race.html

人種概念が、政治的で差別的ニュアンスを暗黙のうちにもっていることはたしかなようだ。他方で、人種が実在しないからこそ、人種概念によって実際に人々が和解したり憎悪したりしあっていることも事実で、そういう意味での「観念としての実在」も考えないといけない。これは「日本人」項目に関しても同じ。ちなみに上記のページには民族概念の混乱についても言及がある。

ついでにいえば、しかし形質の違いというものは実在するではないか、という反論について言うと、それはそういうDNAの分布の問題であって、たとえば白い肌と青い目というように特定の形質が「群」をなすということは実際には漠然とした傾向として以外ないし、それも歴史的空間的に変動する。また、それぞれの形質の分布範囲はきわめて観念的にしか重ならない。したがって、境界を作ることも、その本質を定義することもできない。つまり、たとえばヨーロッパに白い肌のひとが多いというのは、その遺伝形質についての話であって、それはまた推移的、連続的に変化していく。それだから、そういう遺伝形質の不連続な境界と歴史的に同一の本質を持つ人種概念は、事実の認識にとって有害であるし不要である、ということです。要約していえば、それぞれの遺伝的形質について、その分布や歴史的変化を論じることはできるが、それらの特定のグルーピング、あるいはその「本質」としての人種というものは存在しない、ということです。だから、たまたま、特定の遺伝的形質と別の遺伝的形質がいっしょになって存在することが、事実問題として、より頻繁であるということがあっても、それは歴史的な偶然でしかなく、そのことに何の意味もないわけです。

より根本的な人種概念の批判。人間の遺伝的形質は無数にある。そのなかで、外見的な、いわゆる人種的種差をさすとみなされるいくつかの特徴が特権視されうるのか。これにも根拠はないわけです。ほかの遺伝的形質が、その種差的な特徴を境界とするまとまりをしているならまだ話が別であるが、そんなことはまったくない。

さらにいうと、人間は生物学的な意味だけで言ってもDNA決定論ではかたれない。ひとつの遺伝型がとりうる表現形はかなりの自由度がある。或る意味で、遺伝型は表現形を決定する、重要ではあってもひとつの因子に過ぎない。

vermilion::read

http://d.hatena.ne.jp/l_ange_dechu/20021226#p1

これはすごいです。面白いしよくできてるし、ロマンチック。タニス・リー(いつも似てる作品を持ち出すだけの無能な批評家でもうしわけない)的な世界だよなあ。しかもvermilion::LTPになってるあたり、id:mutronixさん的にはどうですか。お客さん。同じ種類の問いに対し、ファンタジーやSF的な答え方とミステリー的な答え方があるという面白さ。LTPは多分、本来はミステリー的な答え方を求めているんだろうけど、こういうのも素敵です。あと、神的な存在が身をやつして、そして正体をあらわす、というのは現代では最良の例はファイブスター物語だったりするとおもうんだけど、基本ですよ。基本。

vermilion::text about room 17 of 55F "サルたちの憂鬱" β

http://www.granular.com/ISC-J/9506/main.html

 リント・フェアルーセント・キャッシュバック・スクリーマーがドアを開けると、その巨大な代物はいやいやながら轟音を立ててあいた。巨大なドアの割にはベニヤで、全体につくりがいい加減だ。リント・フェアルーセント・キャッシュバック・スクリーマーは失踪した恋人を探してvermilionにやってきた。だがこの塔で過ごした時間は彼に奇妙な作用を与えている。むしろそれはかれの身体から時間を奪っているかのようだ。青年から少年へとかれの外見は変化した。その過ごした時間を彼ははっきりと記憶しない。或る階でかれは明るい眼をした少年に「外」という概念について話した。しかしそのとき少年の祖母らしい老婆の「そんなものはありやしないよ、男供にありそうな妄想だよ」といわれたとき何故か反論できなかった。いや、たしかに「外部」は存在するとかれは「知って」はいたが、あらゆるものがこの塔には内在する限り、なにか証拠を挙げて証明することは決してできないのだった。

 リント・フェアルーセント・キャッシュバック・スクリーマーの目にはじめに映ったのは、だだっぴろい部屋の中央におかれた安楽椅子に「うんざりした顔で」すわっている年老いたサルの姿だった。すでにたいていのことには驚かなくなっていたリント・フェアルーセント・キャッシュバック・スクリーマーは丁重な口調でサルに話し掛けた。

 「ここはなんという場所で、あなたはどなたで、何をなさっているんですか?」

 するとサルは見るのも面倒くさいという調子で身じろぎしてから、意外に明晰な口調で言った。

 「十七号室さ。それが何を意味するのか知らないが、とにかくそういうことになってる。それからあんた、質問をしすぎる。質問しすぎるやつはたいてい長生きしない。おれの経験じゃあな」

 「なるほど、おひとりですか」

 「ああ、みんな逃げちまったからな。おれが最後の一人さ。好奇心とタイミングの悪さがおれの宿痾で、それでこんなはめに陥っちまった」

 「なにをなさっていたんですか」

 「執筆さ。著作活動というやつだよ、兄さん。おれたちは以前、十の十乗だけ仲間がいたんだが、そのころはこの部屋ももっとひろくて、すし詰め状態だったものさ。それでおれたちは協力してでたらめにタイプを打って意味のある文章を作るという活動をえんえんとやってたのさ」

 「成功したんですか」

 「ああ、だが、天文学でもついてこないような時間だろう。おれたちだってだんだん知恵がついちまって、意味のある文章をずるして書いたりするやつが出てきちまう。それで大揉めにもめたり、検閲制度を作ろうとか、本当のランダムさはなんだとか、おきまりのばかばかしい論争が起きてね、それでもなんとかやってたんだが、何億年かに一匹くらいは逃げ出すやつもいたりいなかったりでね。おれたちがうまれつき忍耐強いといっても、やっぱり創作意欲なしにものをかくのはつらいもんだぜ。とうとうおれひとりになっちまった」

 かれの口調はどこか寂しげだった。

 リント・フェアルーセント・キャッシュバック・スクリーマーはそれからしばらくして、かれに「外部」と恋人の情報をたずねたがかれは知らなかった。「なに、そういうことをおれたちがつくった書物の中にかいてあったこともあったがね、それと事実が一致してるかどうかわかったものじゃないからな」しばらく世間話をして(サルはじつにうまい紅茶を入れてくれた)立ち去るとき、かれは一冊の書物をくれた。

 「唯一の記念品さ」

 部屋を出て、リント・フェアルーセント・キャッシュバック・スクリーマーがタイトルを見ると、「ハムレット」と書いてあった。かれは歩きながら読み始めた。

 と、かれは最初のページに誤植を見つけた。

 手をたたこう ばんばん

http://www5a.biglobe.ne.jp/~mamico-w/diary.html

まみこさんの更新はいつもグレートです。

なにやってるんですか。ほんとうにもう。

 定義の定義

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030429a

論理学や分析哲学的な定義とともに、語用論や言説分析、政治的効果、社会学的理論の観点から定義というのはどういうことか、というのもほしいところ。

 ある言葉を定義するということは、その定義という発話によって、或る言葉の使用に介入する実践だろう。真理値の観点ではなくこの観点から言うと、成功した定義とは、参照される被解釈テキストになると考えることができる。

 つまり、定義文は、意味というよりもすぐれて記号表現なのだ、と。つまり、ある特定の言い回しこそが定義になるのであって、その定義文の特定の解釈が定義になるのではないだろう。勿論、定義文は一定の時期には一定の解釈にともなわれるけれども、これは、定義文プラス状況という演算の効果であって、定義に内在的なものではない。

 別の言い方をすれば、定義とは物証であり、ある語の適切性を、その定義文の表現から「到達可能」であるかどうかによって計る、そういう効果をもつ。そういうものとして、定義は議論に客観性と「同時に」多義性を与える。定義は、解釈ではありえないからだ。

 つまり、定義とはふたつのことなる解釈論的枠組みをもつ他者が、唯一共有可能な客観的実在であり、それゆえに、議論に制約を与える。つまり、所与の合法的な論理操作によって、提出しようとする議論を定義文に変形可能かという形に。

 つまり問題は生成文法的な変形操作であり、この変形操作によって、定義文に還元可能なら、その語の使用は正しい、というわけである。

もっとも

ウィトゲンシュタインなんかがいう、言葉の治療としての哲学、哲学的定義、分析はまた違うだろうけど、これはある言葉の用法が、暗黙のうちに含意していることを徹底させて明示することだといっていいからすこし違う。これはいま読んでいるアルチュセールにとってのマルクスが近代経済学を読み替えたような、「その論理を徹底させることで内在的な破断に追い込む」というのとつながってくるような。この場合は、定義は真理値を持つというよりは、語の用法の交通整理的な面がつよいだろう。これはある意味で、複数の複雑な由来、さまざまな別の体系に属する語をひとつの体系に編成する行為といってもいい。

補足。上は思いつきなのでまとまってません。

 哲学による概念分析は、概念の混乱から来る擬似問題を退けることにある。つまり、概念語が、複数の用法と歴史を孕んでいる為に、世界のありようについての問いであるかのようでありながら、実際にはその語の用法の混乱(というかわれわれは使用そのものには混乱しないので意識の混乱)に由来する問いでしかないものがうまれてしまう、という事態を鮮明にする、ということがいわれる。(したがってこのような問いの解明はその語の概念と用法に対する知を与えるだけで、世界に対する知を与えるわけではない)上の段落でいっているのはそういうことです。さらにそのうえの段落の課題は、その混乱、複数性がうまれる理由と根拠と意義と効果についての問いです。そこでは、そのような曖昧さや複数性は「機能」しており「必要とされている」からこそあるのだと考え、そういう点からの意味を考え、そういう状況への介入として、定義を考える、ということ。

beltorchicca

http://www14.big.or.jp/~onmars/

今日の分は引用の内容も、demiさんの文章も美しい。

vermilion::read 「変体」

http://d.hatena.ne.jp/rushtetsu/20030429#p1

これは面白かったです。ちょっと「地球の長い午後」風でもありますが、大原まり子風の「苦痛」が表現されてもいて、そして想像力が喚起されるのは、ここよりも下層には何があるのだろうと。案外、また普通の空間があったりして、あるいは、もっとダークかもしれませんが。「はてしない物語」で夢の採掘者ヨルが出てきますが、ああいう話でも面白いです。