法と対話

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 常識や道徳が共有される部分がずれてきているからこそ、対話が必要なので、そこでそこに混乱があり困難があるからといって、対話を欺瞞とみなしたり無用とみなすことには賛成できません。法やその実際の効果としての裁判が、つねに正義を行うとは限らない限り、裁判では負けるかもしれないと考えたり、裁判になること自体が勝ち負けに関係なく迷惑だと考えたりすることが、そのひとに「理がない」ことになるとも思いません。
 あたらしい観点からふるい観点では無法に思えることが行われたとき、あるいは新旧ではなくそういう意見の違いがうまれたとき、法が現実に追いついてない場合だって考えられます。問題なのは、たしかにそれでも法は最終段階では従われなければならないにせよ、相互に理性的話し合いが可能であれば、そこで合意を形成する努力をすることが必要だということで、わたしは、そもそもいざとなれば法に訴えるというのはいざとなったときにいえばいいことであると思います。
 とくに民事では法的判断は、双方が譲らない場合の判断をするもので、双方が譲ることそのものは合法的な行為であり、多くの場合はそうすることが期待さえされているわけで、一次的には当事者の合意が、裁判した場合とことなる結果になったとしても、それはそこで違法なこと、あるいは不適切なことがおこなわれたわけではないわけです。

 (勿論、現実的な権力関係で合意が強制されるような場合は別で、そういう場合こそ法や権力が介入すべきですが、それは個別の場合を見る必要がありますし、その場合でも対話の必要はなくなるものではないでしょう)

 個人同士の軋轢に、権力の介入を安易に要請したり、そうした軋轢を解決するための合意やあたらしいコンセンサスを形成する努力を怠ることは望ましくない、ということです。また、負けるかも知れないしそうでないかもしれないという微妙なケースでは、双方が対話を忌避し、一方が法的手段に訴えると言い放った場合、無理がとおる場合が、つまりそれはたしかに、自分の法的正当性を見積もりそこなったせいではあるでしょうが、かなり起こりうるわけです。とくに相手の法的知識のすくなさにつけこむかたちで法的脅しというのは行使されることが多いのですから。