キーワード削除投票システム案

http://d.hatena.ne.jp/n_kakka/20040629#1088490378

ことの根本はシステムは意味を理解しない、ことにあるわけですね。

とはいえ、削除決定が再登録によってすぐさま無効化されるならば、このシステムは有名無実になることは明らかです。

で、システムは意味を理解しないというのは、別の問題も現状でももっているわけで、同一カテゴリー同一文字列のキーワードでは、スコアが(どっちにあわせられるのか実験してないのでわかりませんが)低いほうか多分高いほうにあわせられてしまって、リンクは発生するわけです。

で、問題は同一文字列同一カテゴリーの「キーワード枠」単位での削除ということに決めた場合、何が問題か。

まず、なんといっても削除時に想定してなかった、有益なキーワードがその枠に登録される可能性でしょう。

しかし、削除はどういうときに必要か、と問うてみる。すると、実は、

 積極的にキーワード文字列が問題がある。

場合でしかない。記述部分は削除によって対処する必要はない。

(しかし、記述内容についての編集合戦問題は依然として残るわけですが)

 ならば、「キーワード枠」単位での削除は合理的です。逆にいえば、「キーワード枠」自体が問題ではないときは、削除はすべきでない。

問題は投票において、削除があくまでも「キーワード枠」「文字列」の問題である、という認識が、徹底するか、ということです

もちろん、ここで重要な留保があって、同一キーワード枠に、あほみたいに「キーワード項目」をたてることで、愉快犯的にあそんだり、記述内容に関する紛争をごまかしたり、その他、無用な「キーワード項目」の作成をする場合です。

これはスコアクリア、コメントクリア問題ともリンクします。

まとめると、問題は二つあるように見えます。

1 削除は「キーワード枠」=「キーワード文字列」の存在自体が問題である場合に限るべき、また、その認識が共有されている限り、削除同様に再登録も抑止すべきということは、合理的でもあり、また必要でもある。ただし、はたしてこの認識は徹底できるか? 特定「キーワード項目」への拒否感が「キーワード枠」の削除につながるのはまずい。

2 仮に、1の論点がクリアされた場合でも、その場合「キーワード枠」のなかでの「キーワード項目」の、スコアクリア、コメントクリア、記述内容クリアのため、あるいはその他支持できない理由による無用な乱立、多重登録をどう解決するか、という点が残る。誤登録の場合の、第一登録者の「キーワード項目」削除権はあっていいとおもう。しかし、「キーワード枠」の削除の合意形成はけっこう可能に見えるけれども、「キーワード項目」の削除はけっこう微妙。乱立しすぎるのはまずいし、同一の語について複数立てるのもまずいのは当然だけれども。

意味の戦い

http://d.hatena.ne.jp/Gen/20040629#p1

普遍的であるがゆえに……

しばしば、とくに形式的で図式的「整理」をこととするタイプの、ぼくのような人物は、論争において、二つの対立する議論について、「きみたちのいっていることは用語の違いである」「両者を包括する理論的立場からは、それぞれ同じ体系の別の表現、あるいは部分体系として位置付けることができる」という。これは、なにが問題なのか。

このような調停は、形式的には、正しいことが多い。しかし、これは実は第三のどちらとも異なる体系を提案しているに過ぎない。なぜなら、第一の体系も包括的=普遍的であり第二の体系も、包括的=普遍的なのであるから、第三の体系の部分体系になった、普遍性・包括性を失った時点で、それはもはや本質的な部分で変質している。

もちろん、それはそれでかまわないわけで、単に、第三の体系において、第一、第二の体系が保存され、維持されているという主張が間違っているだけではある。

また、論争の意味のポリティクスの観点から言うと、まさしくある概念を、ある用語で呼ぶ、ということこそに、理論の本質的な部分がしばしば反映し、賭けられているのだから、そこで譲歩してしまった時点で、何か決定的なものが失われるのである。それはどういうことかというと、概念にとってその名称はけっして記号ではない。ある概念がある名称を得るということは、暗黙のうちに、その概念の名称となる語の日常的な意味と、その概念との間には、本質的な関係があるという主張を内包するからであり、そのような日常言語における意味と理論体系との関係というのは、形式的に理論を考察しているときにはたち現れないけれども、すくなくともポリティカルな意味では、きわめて重要なことなのであるし、理論が明示的に語っていない「空隙」を埋める場合、解釈を導くのはそうした語の意味だからである。

しかしこれは同時に微妙な問題をはらんでおり、馬鹿げたPC的な議論にもつながりかねない。おそらく、概念をあらわす語が特定の日常語の意味と関係を持つというとき、その関係の属性自体が、場の歴史性によってとことん左右されるのであり、個別にしか問われえない、というつまらない普通の落としどころに落ち着くのだろうとは思うけれど。

そういえば、

じっさい、相対主義的で普遍的な調停者というのは、しばしば「どっちでも同じなんだ、意味はおんなじだからね。ぼくらはたまたまこちらを選んでるだけなんだよ」という。しかしこの理念的相対性はけっして現実化することなく、つねに可能性として理念にとどまる。そして、あくまでも、「偶然的選択であり、どれでもいいんだけど、どれかでなきゃいけないから、これにしてる」という名目で、特定のものが、選択されつづける。この理念的、相対主義的可能性の多様性と、現実的、現勢的な絶対主義、固定性の著しい対比は何を意味するのか。

つまり次のようにいわれるわけである。

「どっちでもいい、価値が等しいのだから、無理に変える必要はない」

多様性と可変性を制限する為のきわめて有効な道具としての相対主義という逆説。