オタク の 話ではないような 気がする けれど (考察にあらず)

http://d.hatena.ne.jp/bmp/20041215#1103114354
オタクについての話を聞くたびに、どんどん自分がオタクなのかどうなのかわからなくなってくる。たしかに、ぼくはコミュニティとしてのオタクに属したことはなかったのだけれど。(ぼくはたとえ同好の士であれ、いやむしろなればこそなおさら、なれなれしくされるのは嫌いという厄介な偏屈さと怯楕を捨てきれずにいる。まったく、情けない話だ)

ぼくがヤンキーが好きだったのは、それもなにか懐かしいような気持ちで好きだったのは、多分、かれらのなかにぼくのかつてのふるい友人がいたからだけではなく、普通からの外れ方が自分と似ていると感じてたからだったろう。理も非もなくほとんどなにかの病気のように切れて暴れるようなやつですら、不意に奇妙にやさしさを、それも本物のやさしさというか、親切さを示すときがあり、それをぼくは馬鹿にすることなどできず、むしろあこがれていた。それは偽者の、自己満足的ななにかではなく、むしろ人間としての地の不意の露出というような性質を帯びていた。なに、それはぼくが田舎ものだということだ。

要するにそこがぼくにとってある意味で「下妻物語」がなつかしい理由なのだ。

本当に僕が自分とは違うと感じるのは頭がよくてつるんで行動する要領のよい男たちだった。象徴的な意味で、ぼくはいつも一歩遅れる。

ぼくはオタクという話題でいつも出る劣等感をばねにした優越感やがんばりというのもわからなかった。ぼくは自分がいつも一歩遅れることが悲しかったし、劣等感だけど、それはもうどうしようもなく、ただ、悲しいだけで、それを誇るようなことはできなかった。ぼくは別の領域でならえらいという開き直り方をしたことがない。(というよりも、そういうやりかたで、一方で他方の失敗を相殺できるという風に信じることができなかった。どうしても、その二つは別の話で、一方で他方が償えるようなものではないんだとわかっていた。できないことは、なにかべつのことができても、慰めにならない。)

ただぼくはそういう開き直り方をしないということで、むしろひとより傲慢なのかもしれない。(と、いま思ってみる。)自分を誇ることのできる領域分野を捏造してでも必要とするということがなかったのは、ぼくが、認められることを必要としていなかったからで、それは、全く意味不明に、根拠もなく、ごくふつうに、自己を肯定し、承認していたからだろう。(そうなんだろうか?)ぼくはぼくに自信を持つのに公的に主張できるような属性を必要としなかった。それはやはり、ある種の傲慢かもしれない。いや、単に、まわりがぼくを愛してくれたということなんだろうか。(ひとはすべてのことを忘れる。むしろ、そういう公的な属性を必要としなかったのではなく、意識して主張しなくてもよかった、ということなんだろう)そうかもしれないけれど、ぼくはそういう面から生をふりかえったことがないのでわからない。

(しかしこのへんの文章はいま読み返してすこし息苦しい。無理をしているのかもしれない。)

ぼくが普遍主義者なのも、要するに、分野を分けることで、競争せずにすむという類のやりかたになじまないできたからかもしれない。というか、普遍主義者でしかいられないというのは、むしろ、ぼくのいろんな意味で、失敗と表現すべき事柄かもしれない。

いいほうに考えれば、むしろぼくの本質的な特徴というか、性向が、関係付けること、橋をかけることに向いているというだけなんだ、といってもいい。

しかし、それにしても、ところで、安吾が恋愛云々するのはチャンチャラおかしい話なんで、やつは二十代後半かひょっとしたら三十代になって熱烈な恋愛をして、しかし相手を理想化しすぎてなにもできず、あるとき、不意についに口付けだけして、次の日、これでもはやすべてだめになった、わかれましょうと速達を相手に出して、その後一生、その恋を胸に抱いて生きたりと、ロマンチックもはなはだしくてまるで意味のわからないことをしていたりする男なのである。といったところが、おなじころにバーのマダムと不倫の関係で男から逃げて安宿を転々としていたりする。まったく意味不明だ。しかし、そういうところがいいところなので、童貞なら童貞なりに意味のよくわからないつっぱしりかたをすればいいのではないか。

というか、ぼくには、今度の話とは少し遠いけれども、依然、モテたいという気持ちがわからないので、それはあきらめとかそういう性質のものとは違うので、むしろ学術的好奇心としてわからない。惚れない女に好かれて何がうれしいのだ。むしろそれは老年の精神というより肉体への執着に似た、悪い意味でおっさんくさい態度なんじゃないのかという気さえする。ちやほやされたいという気持ちとモテたいというのは同じなのか、違うのか。それもよくわからない。

モテる前に惚れればいいじゃないか。惚れれば無茶をする。無茶をすれば通じることもある。通じないこともある。それでいいじゃないか。惚れずに好かれようなんて、目的がわからないよ。肉体だけがほしいなら商売女がいるじゃないか。なにか自分は惚れずに恋愛的な雰囲気だけがほしいというのは、土台、奇妙な欲望じゃないか。

恋して、その相手に好かれたいというならわかる。誰だってそうだ。しかし、モテたいというのは、どうなったら成功なのだろうか。人気者になればいいのか。それもよくわからない。要するに、わからないことだらけだ。人気者になったら、せっかく好きになってくれた相手を振ってしまうのか。傲慢じゃないか。選ぶ側になりたいということなのか。だいいち、モテ論とかいって、惚れないやつに恋愛指南をするほうもするほうだ、という気がする。気が知れない。

というかおんなともだちというのは、べつにことさらに避けなければ、普通にともだちになるもんじゃないだろうか。おとこのともだちと別にどこか違うわけではないし。あったときから恋愛前提なんて、いまどき結婚を前提にお付き合いみたいで変な話だし。つきあえるかもしれないという意識がなければ近づかないというのも、ていうか、フェミニズム的にどーよという気分がする。すくなくとも可能性として恋人になりうる、そういう想定をする限りにおいて交友関係を結ぶという態度は少なからず相手を馬鹿にしている、というのはいうまでもないわけで。

ぜんぜん、関係ないけど、ぼくはもしかしたら、こういう言い方はおかしいかもしれないけれど、変に屈折していない、という仕方で屈折しているのかもしれない。コンプレックスを肯定的に語る言説も、そういう屈折抜きの倣岸な立身出世主義もどちらも嫌いだし。

しかしモテたいというのが他者への承認の欲望だとしたら、わからないではない。ただ、そこで異性から恋愛という承認が出てくるというのは、ゆがんでいる。だってそのとき、承認を求めているのは、むしろ男性たち限定で、当の相手の女性は、男性たちに承認されるための媒介でしかない。という話は、まえ宮台がらみで上山さんのところで議論があった。単に立派な尊重されるような人間になりたいといえばいいのに。だれだってそうなんだから。

なんてきめつけるのもいいかげんすぎるような気もしてくる。しかし、ぼくが暗くて、マイナーなことに熱中していたことは事実で、そこを考えると、やっぱり、ぼくは、自分がオタクだったのか、違うのか、やはり、わからないのだった。ヒライストで蓬莱やっててローディストだったけどね。イマデハ想像もできないけどそのまえはムー読んでたし。しかしぼくは幽霊を信じていたのかというと、信じていなかった気もする。

(しかし、書けば書くほどもとの話題から逸脱していくようなのであった)

蓬莱学園は今どうなっているんでしょうか。

いや権利とかそういう話じゃなくて、あの世界内での現状という意味でね。
http://www.hatena.ne.jp/1103151578
というわけで、情報を求めているよ。

ハドソンのやつとか、平行世界とか言う話を聞いたような、断片的なことしか知らないので。レヴィーガスト? 怪獣大行進とか、時系列がよくわからない。97年までは学園史編纂委員会と、小説版とでだいたいのことはわかるのだけど、なにせあれは、おもえばジリノフスキーがネタになっているくらい昔だからなあ。って、それはファンクラブのPBMと混同してるんだっけ。桐部は小説版に出てきたかどうかすら記憶が怪しい……

再開とかPBMとか遠い夢だとしても、とりあえず同人とかやるうえで確定設定はなるだけわかりやすくアクセス可能であったほうがいいんだと思うんだけど。

追記 質問終了。