おにいちゃん、どいて!

http://d.hatena.ne.jp/mori-yoshiro/20050822/p1
禁止とか依頼とか命令とか、義務のニュアンスの薄い用法ってのけっこうありますよね。「そっちにいってはいけない!」まあ、修辞の問題かも知れませんが。例の質問もそういう意味では「殺してはいけない理由」ではなく「殺さないようになる理由」を尋ねるものと解釈できなくはないけれど、それにはかなり無理を感じたわけです。どうしてまぎらわしくなるかというと、「殺さないのは殺してはいけないからではない」という十分にありうる答えが、「殺してはいけない理由」という問い方では矛盾するから。

インテリジェント・デザイン

http://d.hatena.ne.jp/Kanemori/20050804#p2
進化論は神の存在を否定しているわけではない、ということが見失われている。

神学的に表現すれば、神は物理法則を破れるか、そして実際に破ったのか、ということだろう。

進化論とはこの意味で言えば、神は自然淘汰の形式で創造を成した、という主張だ。進化論が無神論である必然はない。このあたりはデカルトスピノザくらいの時期の神の機会原因とかあたりの議論だろう。

結局、進化論を批判して知性の存在を仮定する人たちの誤謬は、進化論の現状を軽視しているというか、ぜんぜん知らないところにある。進化論は、現状では、純粋にランダムな突然変異による形質選択という観点を取っていない。また進化が完全に無方向的なものであるという観点も取っていない。進化が明らかに適応的な方向に加速されることはありうるが、そこに知性を仮定する必要はまったくない。

進化に知性を仮定しなければ説明できない事例はない。他方で、知性による物理への恣意的介入を許容すれば、その影響ははるかに巨大で、科学の基本的整合性が失われる。知性を仮定する必要がある、とひとがしばしば考えがちなのは、皮肉なことだが、知性というものを自然と対立的な特別なものと考えているからである。しかし、知性というのは、自然の機械的過程のうえに成立している、上部構造であって、対立的なものでも相反する原理でもない。

http://www2.biglobe.ne.jp/~oni_page/Evolution/

知性というのは、それが純粋に機械的でランダムな過程の「上に」成立していることを否定するものではない。

われわれの脳神経系は知性を有しているけれども、その分子的なミクロの一つ一つの過程は、機械的でランダムな作用に過ぎない。このへんはホフスタッターあたりの蟻の巣の比ゆがわかりやすい。

はてなアイデア

http://www.h-yamaguchi.net/2005/08/post_0183.html
要望ではなく実装を予測することのメリットが論証されてるようには見えない。
革新的だというのはわかるのだけれど、ユーザーの需要ではなくはてなの実装を予測したほうが、どの点でましなのか。そこをきちんと論じて欲しい。