発話の焦点と主体の位置 主張と報告の差異に潜むもの

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追記
あーでも読み返したら前の文章 http://d.hatena.ne.jp/jouno/20050904/1125831039 のほうが、時制についての言及を除けば、意を尽くしていてわかりやすいですね。以下、蛇足かもしれません。

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http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20050907
当初、ぼくが自分でクリアでなかったために主として時制の問題として議論してしまったことがやや焦点をぶれさせてしまったと考えています。

本質としては、時制ではなくて、発話内行為としての区別なのです。どういうことかというと、言葉というのは、行為遂行的側面を持ちます。約束、謝罪、報告、主張などの区別は、その言葉の伝達内容という表現機能だけからは導くことはできないわけです。

さて、「と思った」というとき、焦点は、「と、思った」という事実の伝達です。これは発話行為としては報告です。ある出来事が起きた、ということを伝えることを目的としている。

他方、「と思う」というとき、同じことが言えるか、というと、多くの場合、いえない。このとき、焦点にあるのは、「と思っている」という主体の状態に関する事実の伝達ではない。思われている内容が真実であることを主張することに焦点がある。発話行為としては「主張」ととりあえず呼べると思います。

もちろん、これはある程度大雑把な議論で、確定の「助動詞」である「た」の有無と機械的に対応するとはいいません。多くの場合、対応する、ということを言いたいわけです。

問題は、コンテキストが、ある判断や主張の内容の是非が焦点となっている場合に、そのコンテキストで、事実の報告を持ち出すことのミスマッチなのです。また、事実の報告は、「報告」という発話行為の本質として、反論を許しません。
「そう思った」のはそうなんだろう。文句のつけようがない。コミュニケーションの焦点がずらされ、はぐらかされるわけです。

見る・語る「私」と見られる・語られる「私」という区別を考えます。後者は、「自分」とパラフレーズできる対象としての私であり、前者は「いまここ」と分離不可能な、「自分」とは表現できない主体としての「私」です。

私は自分のことを語ることができるが、それはつねに事後的な、他者としての私、世界の中の、対象としての私、自分でしかない。

さて、発話行為としての報告では「と思った」とき、言及されているのは語られる私です。ここには、語る私、いまここでの私は不在です。他方、「と思う」というとき、私という語はなくても、「主張」という発話行為を通じて、「約束」や謝罪のときと同様に、語る私、主体についてのコミットメントが生じます。

私があることを考えているという事実を伝達する目的では、両者には何の違いもありません。したがって、「いまどう思っているんだよ!」というのは、説明としてはやや不正確だったわけです。正確には、「なるほどそういう事実があったのはわかった、で、そのことで何が言いたいんだ!」という契機を加えたほうがやや近いかもしれません。しかしこの二つの突っ込みはやはり便宜的なものなので、ここでの主張の本論とは考えないでください。

問題は、にもかかわらず、報告文はコンテキストから、報告内容の主張を、間接的に「主張」してしまうということです。このとき、この主張は、発話行為としては主張ではなく報告であるために、主張が巻き込まれざるを得ないコミットメントから切り離され、守られる効果があります。そのひとが、「わたしは君がブスだと思ったと言っただけであって、君がブスだと言ったわけではない」とはさすがにいえないだろうし、またその免罪は認められないだろうとしても、このとき、「ブスだといった私」と「そのことを報告する私」が切り離され、報告する私は、ある安全と客観性の装いを手に入れる、ということはいえます。

(ただし、この例文も、報告のコンテキストでは当然免罪が認められるだろう。つまり、会話の主題が、「ブスであるか否か」であるか、それとも、「語り手が相手をどう思っているか」であるか、の二つの場合で違う。)

たしかに事実問題として、この分離は不可避なのですが、そのことと、そのことを、言語の中に持ち込むかどうかは、別の問題なのです。この不可避な自己からの遅れを受け入れた上で、いわば仮設的な「議論の現在」として、この分離を再統一して引き受けることが、「主張・議論・宣言」のコンテキストで通常行われることなわけです。

非常にカンタンにいうと、思いました、というとき、思われている内容と、そう語っているひととの関係があいまいなのです。そしてその曖昧さが、意見の内容自体は伝達されてしまいながら、意見の内容を「主張」されてはいないために「反論」することは不適切だという、非常に、困った、曖昧な、一方的に突き放された、「一方通行に受け身な」立場に、語られた人を追いやるわけです。

で、このことは、語ったほうの人の意図とはいちおう独立に生じる事態なわけです。