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Oblivion? Oblivion! このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-06-08 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

パンプキンシザーズがかっこいい。それと、いまさらカウボーイビバップ

怪物王女もいい。

しかし、まえからデトロイトメタルシティのどこが面白いのかわからない。

landreaalはさすがにすばらしい。

グインに於けるツンデレの扱いの酷さについて。

ブルーバックスの「非対称の起源」絶賛読書中。なかなか、頭がくらくらしてくる感じ。

「電波的な彼女」シリーズ。こんなに面白いとは思ってなかった。

「ゴールデンエイジ」2巻。けっこう盛り上がってきた。

いぬかみっ!」を途中まで読んでみたのだが、ここまではあんまり記憶に残らない普通の少女まんがという感じ。

そういえばあらいりゅうじとか赤城毅とかも記憶に残らない。そういうつもりで本人も書いてるんだろうけど。

壊憲という字面はけっこう悪くない。(ただし縦書の場合)

Fateをやりたい。PS2を買う余裕がない。いわんやPS3に於いてをや。

いつもブリーチの扉の引用はけっこう真剣にかっこいい。「私は否定する!」もいいフレーズだ。

ツンデレは私にはなんかピンとこない。むしろツンがいい。振り向いてくれた段階で、それが理由でがっかりだ!

わたしのようなものを好きになるなんて理想が低い。その程度の女か! この駄人間!・・・・・・難儀な性格なのは私の方か。

駄人間という言葉はちょっといい。

逆転裁判4はたしかにそんなにいい出来じゃなかった。マヨイちゃんを出せないのはわかるのだが、もう少しサービス的に

だしてもよかったのではないか。

twitterには不思議と心惹かれない。短い文章ばかりの癖に。

バフチンはあくまでもダイアローグ化されたモノローグについて語っているので、現実のダイアローグそのものを、すくなくとも彼の理論の方向性で称賛できるかというと,実は微妙な気がする。ダイアローグではひとは微妙な部分、つまりダイアローグ化されたモノローグが持っているような多義性や揺らぎを、自己の発話から捨象せざるを得ない。ダイアローグといいつつ、モデルはあくまでもドラマではなくノベルであるという点、忘れてはいけないところだと思う。

だれしもそうなのか私だけなのかわからないが、私には映像的な想起能力がない。見たものをもう一度見たときに再認はできるが、あたかも幻覚のように、頭の中で「見る」ということはできない。能力が低いというより、まったく出来ない。丸や三角くらいだったらできないことはないが、それだって、本当に映像を見ているのか、そういう気がしているだけなのか、はっきりと区別は出来ない。もちろん、見たものを絵に描くことは出来るのだから、映像を「記憶」はしているはずで、それをだから、「上映」できないのだ。

奇妙なことに、音声については、これも断言は出来ないが、おそらく、「上演」能力はあるようだ。それは、内言をたしかに「聞いて」いると思われることからもいえる。また、頭の中で歌を歌って、そのリズムに乗ることも不可能ではない。この違いは何だろう。

ということを考えていて、パスワードをハッシュで保存して照合するのと同じだな、と考えた。

仮にSecondLifeをやるとして、何をしたものか。いまひとつ、アイディアがない。紅衣の騎士団でもやるか。昴さま!

そういえばMAD動画もたいして面白いと思ったことがない。ジャンル自体に興味がないらしい。

牛丼も吉野家に拘るひとの理由がわからない。松屋の方がおいしく感じる。というか豚丼のほうがおいしい。

ドラゴンボールがブウ篇以降も続いていたことを最近知った。

silverlight・・・いまさらだけど、Rubyでページのスクリプトがかけるっていうのはいいなあ。

不意に、むかし飼っていた猫のことを思い出した。

水に落ちた犬は叩くべき、というのはたしか魯迅。すくなくとも、死人にはむち打つべきだよな。死人はどうせ痛くも痒くもないし、自殺への抑止力にもなる。

黒人が大統領になるかどうかには、かなり興味がある。そのせいで、ヒラリーはちょっと霞みがち。

思えば、他人と感情を共有することに興味がない人間であった。たとえば、小学生のとき、母親に学校で起きたことを話したいと、ついぞ思ったことがない。モノローグには欲求があるが、報告したり、聞いてもらうことにはあんまり興味がない。むしろ、「知られる」という感じが強い。どうでもいいようなことでも、なるべく明かしたくないという衝動がある。だから、雑談が苦手だ。デフォルトが教えたくない、なんだから。教えたくないわけではないことでも、聞かせて何になるという気が強くある。つまり、自分の感想についての他人の感想に興味がない。自分の判断や考えに対する他人の判断や考えにはひとなみの興味はある。しかし、他人の感想にはまったく興味がない。困ったことだ。(しかし、妙なことに文章化されたものには興味があるんだから、むしろ,相手の感想について感想を述べなければいけない、という状況が嫌いなのかもしれない)自分のことを知ってほしい、なんて異常としか思えない。

叔母にいわせれば、他人を馬鹿にしているのだということだが、ぼくにはそもそもどうしてそういうことになるのか、いまひとつ理解できない。他人に興味がないのは他人を馬鹿にしていることになるのだろうか。飛躍しているような気がする。しかし、それは飛躍だと思うことが、すでにして私の高慢さの証なのだろうか。理屈では納得できなくはないのだが、ここは、どうしても、私には得心できないところなのだ。気持ち的に納得いかない。

他人の作ったモノ、考え、判断、作品、文章、そういうものには、興味があるのだから、他人は嫌いだが、人間は嫌いではない。ということは普通に、見られることや判断されること、リアクションを強制されることが嫌いだという、ごく普通のわがままということなのであろうか。そんな気もしてはくる。地獄とは視線であるというのはたしかに卓見だ。

ときどき、ソーカル事件をものすごく決定的なことのように語るひとを見る。そうはおもえないのだが。

実際のところ、貧乏に冷たいひとのかなりの部分が、貧乏とは不連続な変化だということの認識が不足だからという理由でそうしているのではないかという感じがする。自分の、生活の、レベルが、連続的にダウンしたものが、貧乏だと思っている。だが、貧乏とは、いくつかの境界線を越えると、がくんと別の次元に落ちるもので、階段状の不連続な変化のものだ。つまり、たとえばスーツがかえなければ端的に就職活動が出来ない。住所がなければ行政サービスも、そしてもちろん、家を借りることも出来ない。貧乏のもたらす困難は、多くの場合、可処分所得の連続的な大小として、一般的な生活水準の延長上に想像は出来ない。所持金が半分になった結果、ある線をこえたら、生活水準も半分になるわけはないのであって、あたりまえだが、ずっとひどくなる。「質の大小」は連続的変化だが、「モノの有無」は不連続変化で、貧乏の本質は後者であって、前者ではない。貧乏とは「ない」ことであって、「少ない」ことではない。