福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.11

第五章 宗教改革と音楽

1、ルターと教会音楽

 教会音楽史上、マルティン・ルターの大きな貢献は次の二つに尽きる。それは会衆賛美の導入と自国歌賛美の導入であった。と言うものの、すでに民衆レベルではいつでもこの二つを開始できる気運は高まっていたのである。それを宗教改革という形で実現に至らせたのがルターであった。

 「私は会衆が可能な限り多くの自国語の歌を歌ってほしいと思う。それらはミサの中のグラジュアル、サンクトゥス、アニュース・ディの直後でそれぞれ歌われるべきである。これらの歌がかつてすべての会衆によって歌われていたことは疑いない。今はビショップが聖別している間に聖歌隊のみが歌ったり応答したりしている。これらはミサ全体が自国語で歌われるようになるまで、ラテン語の歌の直後に歌われるか、一日おきにラテン語の歌と交互に歌われるとよい。」
 
 彼は教育的配慮を持って、少しずつ改革を進めていった。であるから、彼の改革は必ずしも音楽面では徹底した改革とは言えない。過去のラテン語のミサ曲やその形式もそのまま礼拝で用いていったのである。しかし、同時に世俗曲を取り入れるということにも踏み切ったのである。ルターは、またこう言う。

 「世間には、この程沢山のすばらしい詩と美しい節があるのに、なぜ教会は、このような無味乾燥なものがあるということになったのだろう。悪魔だけがすべての美しいものを自分の用にたてる必要はない。」


こう言って、ルターは世俗音楽の使用に踏み切ったのであるが、実際は原歌詞の世俗的なイメージが強すぎたために、それ程成功しなかったようである。しかし、成功した曲のなかには次の曲がある。聖歌233番の「みかみは城なり」は「ドイツ史上最高の時期に、最大の人物が書いた最も偉大な賛美歌である。」という批評があるほどの賛美歌であった。
 このようにして、1100年前ラオデキア公会議において、「人々」と切り離された教会音楽も、ここに再び「人々」の音楽として公的に復活したのである。ルターが改革したルター派教会から、「コラール」という賛美歌曲が生まれ出て言った。だが、ルター派教会の会衆歌唱は、思ったよりも普及しなかったのが実情であったようである。16世紀末にいたり、ようやく会衆が賛美歌をよく歌うようになったと言われる。1100年という「聞く」音楽の期間の長さがそうさせたのであろう。むしろカトリック時代から続いてきた「聞く」芸術を完成形に至らせたバッハの功績に心奪われる。