学歴「差別」?

 「日東駒専」「大東亜帝国」が妙な波紋を呼んだようだが、「学歴差別」という言葉自体、おかしな言葉である。今の日本で、貧しくて上の学校へ行けなかったなどという人はあまりいないのだし、能力で人を区別するのは当然である。能力差別がいけないなら、試験はいけないのか。「差別」というのは、「いわれなく人の地位を定めること」だから、生まれで差別する天皇制は差別だ。しかし、生まれつき大東文化大学卒というやつはいない。
 「差別」といえるのは、「能力はあるが学歴が低いので差別される」という場合だろう。しかし最近、あまりそういう話は聞かない。成蹊大学卒でも、何の疑問も抱かれることなく首相になっている。まああと、数学とか理数系がダメなので国立へは入れなかったというのもあろうが、それでも早稲田に落ちるとしたらそりゃ、まあ、知的職業としては使い物にならんだろう。
 呉智英さんは、たぶん、MARCHで教えたことがないのだろう、以前『ダ・ヴィンチ』で、使い物になるかならないかは日東駒専がボーダーラインだと言っていた。しかしマーチで、使い物になるのは、まあ法学部で一学年に五、六人、文学部なら一人って感じだな。ところでこれ、
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070706
「私の知る範囲では、高偏差値、特に東京大学の出身者や在学者が「学歴差別」的な発言をするのは聞いたことがない(小谷野さんの場合は例外か)。それどころか、そういう人たちは(少なくとも公衆の面前では)自らの学歴をひけらかすどころか、それについては自虐的に語るのが嗜みであると考えているんじゃないかと感じさせる。」
 「少なくとも公衆の面前では」とあるけれど、そりゃ、東大出身者同士の間では、三流私大なんかさんざんバカにされているに決まっているのであって、事実そうなのである。私がそういう戦後民主主義的偽善を排していることは周知の事実である。
 あ、そういえば、高橋美保『試験にでる心理学 社会心理学編』には、心理士試験に合格するには、人柄も重要だが、学力もやはり重要で、日東専駒レベルでは無理、と書いてある(著者は上智大卒)。
 渡部直己と対談した時も、いかにも、近畿大の学生がバカであるというニュアンスで語っていたなあ。柄谷行人に教われば近畿大でも文芸評論家になれると思うのは、ジャーナリスト専門学校を出ればジャーナリストになれると思うのと同じだな。
 (小谷野敦