猫を償うに猫をもってせよ

2009-05-05 吉行淳之介の死をめぐる妄想 このエントリーを含むブックマーク

 吉行淳之介の死を、私は桑名駅で知った。今から15年前の七月のことである。大阪から関東へ帰る途次で、その頃は頻繁に東西を行き来しており、その時は確か、以前志摩から大阪へ帰る時に乗った近鉄本線から見た山の中の集落の景色がもう一度見たくて、それで桑名駅などにいたのである。

 どうして吉行の死を知ったのか、売店のスポーツ新聞の見出しであるか、車内でのおじさん同士の会話ででもあるか、後者は記憶にあるのだが、それで知ったのかどうか、確言できない。

 吉行は70歳だった。どちらかといえば、若かったともいえるし、病気のデパートと言われた人にしては長生きしたとも言えよう。私は学生の頃、吉行が江藤淳から批判され、「文壇の人事部長」などと言われていたことやらで吉行の印象は良くなかったし、それまで二冊くらい小説を読んで特に感心もしなかった。あとは前に触れた、子供時代いじめっ子だったという話とか、『モノンクル』という雑誌でレズの女性に話を聞くという企画に出てきて、「ブスじゃないじゃない」と言い、岸田秀から、吉行さんにはレズはブスだという偏見があるんですねと攻撃されて、いや、編集の人に「美人?」って訊いたら、さあ、美人といえるかどうか、と言ったからだと弁明していたり、『男流文学論』で批判されて、蓮實先生が、吉行がくだらないなんてのは分かりきったことだ、と言っていたり、もて男だし、概して印象は良くなかった。

 何だか還暦(?)のお祝いで姜尚中から花束を貰ったとかいう上野千鶴子が『男流文学論』で、その頃出た関根英二という在米の日本文学研究者の話をして、関根さんは吉行が好きで好きで、しかし米国へ渡ったらそんな女性観ではやってゆけなくて、吉行好きを乗り越えようとして博士論文を書いたと言っていて、「私的な会話の中で言いました」と言うのだが、私が私信を引用すると文句を言う上野千鶴子、私的な会話は引用していいのか、という問題はさて置いて、ふしぎな人もいるもんだなあと思ったのだが実は私はこの関根さんには、1990年6月頃、池袋辺の飲み屋で会っていて、それは関根氏を指導したスミエ・ジョーンズ先生に連れて行かれたのだが、あと小森陽一と渡辺憲司がいた。なんか日本語の発音がうまくできない人だったが・・・。

 その関根英二の著書も読んだのだが日本語が生硬で、別に大したことないでしょ、とスミエ先生に言ったら、英語で読むといいのよとか言い訳していたっけ。

 で、吉行には冷淡だったのだが、四、五年前に『春夏秋冬女は怖い』を読んで広津和郎のX子事件を知ったりして、それとなぜかあの桑名の駅で死んだのを知ったイメージがこびりついて、綺麗に死んだ人だな、という気がしている。しかし恐らくそれは一種の錯覚で、というのはその春に阪大へ就職したところで、まあいろいろ辛いことはあったのだが、まだ列車恐怖症は発症していなかったし、三年くらいたったら東大に呼び戻されて、などという妄想も抱いていたし、前途洋洋の気持でいて多分幸福だったので、連想で吉行のことをそう思っているだけなのだ。

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私の回想によく「後藤」という仮名で出てくる男が、大学時代だったか、忌野清志郎がいいと言ってラジオがどうしたとかいう歌を聴かせてくれたのだが私は全然感心しなかったのである。授業をサボって、とかいうのだが、私はそういう呑気な高校時代を送っていなかったからであり、授業など大学へ行ったらサボるどころか碌に行かなかったりしたのだが、そこには何ら美しいものはなく、ただ同級生のあれこれが不快だったからで、だいたいあれは共学の高校へ行っていないと共感できないだろう。

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ネット上に、『諸君!』廃刊に関する記事があったので読んでいたら、その下で佐藤優が、論壇の衰退について書いていたから実に苦笑のほかはなかった。佐藤優こそ、その元凶の一人ではないか。たかが佐藤優一人の批判がタブーになるような、編集者の尻っ腰のなさが、衰退を招いたのだよ。魚住昭、反省せい。