猫を償うに猫をもってせよ

2009-12-14 指輪ホテル このエントリーを含むブックマーク

 指輪ホテルの羊屋白玉さんと樅山さんに頼まれてラウンドテーブルというものに出演してきたのであった。

http://www.yubiwahotel.com/projects.php

 はじめは樅山さんが猫塾に一回だけ参加して、終ったあとで交渉されて、私は若いころは渡邊守章先生を指導教官として演劇研究を志していた人間で、演劇評論家になろうかと思ってもいたのである。しかし十年くらい前から次第に演劇から心が離れてしまった。

http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2007/11/post_12.html

 野田秀樹以降の、世間的に話題となる演劇が、二度目以降は面白くない、という現象に繰り返し出会ったせいもある。それと、演劇批評というのが、十年もたったら現物が観られなくなるから読むことが困難になるという事情も大きい。

 それとやはりロビー禁煙とかの進行のせいもあろうが、さて次いで白玉さんご本人と会った際に、シャクティが好きだと言われたので心が動いた。白玉さんは、シャクティが美しいと言った。

http://www.shakti.jp/

 何しろ私はそれまで、シャクティのファンというのに出会ったことがなかった。シャクティの写真をミクシィのトップに掲げておいたら削除されてしまったこともあった。

 それで出ることにしたのは、喫煙してもいいと言われたせいもある。しかし、もちろん最大の懸念は、そのパフォーマンス自体が面白くなかったら困るということであった。

 私よりは最近の演劇事情に詳しい妻に訊いたら、指輪ホテルと毛皮族ゴキブリコンビナートが三大××だと内野さんが言っていたというので、まず毛皮族のDVDを買って観てみたのであるが、これが面白かった。

 指輪ホテルのほうは、東京学芸大の小澤英実さんが翻訳をしているという。ほどなくツイッターで小澤さんを発見しフォロー。樅山さんはなんか私のことを「国文学者」だと思っていたようだが面倒だから別に訂正もしなかったが、実際に会った小澤さんも、私がシェイクスピアで卒論を書いて修論もシェイクスピアが入っていることは知らなかった(いわんやその前に没にしたオルビーの卒論があることは…)。

 まあこの「DOE2.0」は二年くらい前から少しずつ変化しつつ上演されているとのことで、観客の意見を聞いて変えていく、というのだが、私はそれも方法的に懸念があったのである。そういう言葉は使われていなかったが、私は「ワークショップ」という言葉の意味が未だに確定できない。結局は指導者の意向に沿って動かされるだけではないのか、などと思うからである。

 中井正一の「委員会の論理」というのがあって、中井の代表的な論文のように言われるのだが、これが何を言っているのかさっぱり分からない。オペラの研究のために美学科へ進もうとしていた私がそれをやめたのは、中井の『美学入門』を読んだせいかもしれん。

 まあそれは私の「民主主義」というものへの不信を言おうとして持ち出したのだが、民主主義というのが時にいかにひどいものかというのは、だいたい大学の教授会で植えつけられた不信感であろう。

 で、金曜日に最初のパフォーマンスがあって、その時入った小澤さんのツイッターに

「や、ほんとにエゴとかプライドとか利害関係とか上下関係とか各々の職務とかのぶつかり合いで、それをよりよいひとつのものを作ろうという思いで押したり引いたりしていくというのはすごいことだなあと。私が普段はそういうことしてないから当たり前なのかもしれませんが。」とあったので余計不安になった。

 演劇(舞台藝術)研究というのは、宗教研究と似たところがあって、中へ入り込まないと本当のところは分からないが、入り込みすぎると客観的視点を失う。

 しかしいざ上演を観たら存外面白かったのであった。クリスティーン・ハルナ・リーという、日中系米国人のような女性が鹿役で、ほっそりして小麦色の身体をしており、途中で上半身裸になるのだが、あとで考えたら彼女の存在があればこそ成り立った上演だったともいえる。要するに「特権的身体」なのだが、私に、唐十郎の『特権的肉体論』を論じたものがあって、あれは『江戸幻想批判』の初版に載っている。新版を出した時に後半は全部削ったから、今度それを入れて演劇論を一冊書くつもりだ。  

 今年はあまりいいことがなかったが、最後になって久しぶりに演劇への情熱と再会することができた。

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私が『日本売春史』を出した時に、唐沢俊一朝日新聞書評して「著者の言うことを鵜呑みにせず」などと書いた。これは不思議な言だと思ったもので、たとえばある宗教の信徒が教祖の言葉に対する時以外、いかなる書物でも「鵜呑み」になどすべきものではない。

 「カナダ留学実記」にも、この「鵜呑み」という語が出てくるのだが、もちろんこの語は否定的な意味で使われる。ある人物が「aの言うことを鵜呑みにするな」などと言う時は、実際には「私はaの言うことに反対だ」という意味を隠し持っている。だが私は、恐らくこういう風に「鵜呑み」という言葉を使ったことがないし、「鵜呑み」自体、記憶にある限りで使ったことがない。

 なぜなら、aの言うことに反対であれば、それに対してはかくかくの反論批判がある、だからかくかくの書物を読みなさい、と言うべきだからである。たとえば『遊女の文化史』に感動したという人には、もちろん私は『江戸幻想批判』や『日本売春史』を読めと言うし、田中克彦『チョムスキー』を本気にしている人には、酒井邦嘉『言語の脳科学』や郡司隆男『自然言語』を勧めるだろう。

 だから「鵜呑みにするな」と言う人が本当に言いたいのは、唐沢であれば「俺はこいつの言い分に賛同したくないけれど、反論ができない。こいつに批判されている奴も反論していない。しょうがない」ということなのである。

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サンデー毎日』に載っている斎藤貴男と岩見隆夫の反禁煙ファシズム対談を立ち読み。しかしなあ、毎日本紙では社説でファシズムを煽っておいて…というのもあれだが、まあそれはいい。最後に出てくる、労働者の最後の楽しみとしての喫煙という話はいいのだが、途中で岩見が「日本人は人権感覚が…」などと言い出すのはどうも変で、「人権」の発祥の地とも言うべきフランスがあのザマなのだから、こういう日本特殊論を持ち出すのはおかしかろう。